これは映画ではない。
…と書くと、批判的な意味に取られそうだが、「鬼滅の刃」の大ファン(好きなキャラは善逸と、蜜璃さんと、義勇さん、あ、猗窩座も好き)な私は、別に批判的な意味で言ってるわけではない。
単に事実としてこれは、映画館での一期一会を前提として作られた作品ではないということを言っている。
この作品はこれまでのテレビでのアニメシリーズ(または原作のコミックス)を観てきたという前提で作られ、今後もテレビシリーズを見続けることを前提とした作りなっている。
要するにテレビシリーズの1エピソード以上でも以下でもない。
本来は新たなファン獲得すら期待していなかったようにすら思える。
だから映画屋的には、せめてダイジェスト的でもいいから柱合会議のシーンを冒頭につけておけば、ラストの柱たちに伝令が走るシーンの感動が増したのではないか?少なくとも開巻の産屋敷が隊士たちの墓参りをするシーンよりは意味があったんではないか?と思う。
あるいは、上弦とか下弦とかこの映画だけ観ても理解できないから、無惨様のパワハラ会議を冒頭に持ってくるべきではなかったか?
せめて、炭治郎が胡蝶しのぶに日の呼吸って知ってますか?と聞いて、しのぶが煉獄さんなら知ってるかもしれません、と言うところをつけるべきではなかったか?
など、色々思う。
コロナで封切りも伸びたしその程度の修正できそうなもんだが…
だが、悪く言えばビジネス的に前提をクリアしていない客のためにリソースを割く必要はないというドライな考えだったのかもしれないし、よく言えば「鬼滅の刃」はすでに社会現象的ヒットであるという自負から余計な描写は不要!迷いなし!と悲鳴嶼さんなみの確信的な誇り高き割り切りだったのかもしれない。
「これは映画ではない」といったのはもう一つ意味があり、正直言うとテレビシリーズと比べてクォリティが特別仕様になっていないから、というのもある。
と言っても、「鬼滅の刃」はそもそもテレビシリーズが非常にハイクォリティだった。
あのクォリティを維持してくれれば、劇場映画として十分成立する。
私は「鬼滅の刃」はアニメが完成品だと思っている。
原作も全巻持っているが、アニメをもって完成した作品という思いは変わらない。
こうした漫画は珍しい。
たいていは漫画原作が完成品であり、アニメ版はそれの劣化版か、原作とは別物になるものだ。
例えば古い例だが、「北斗の拳」はやはり原作における原哲夫の緻密すぎる書き込みこそが魅力だったわけで、アニメ化された当時の技術では原作の魅力を完全に伝え得るものにはなりえず、ソフトタッチ化された別物にしかならなかった。(アニメ版にはアニメなりの魅力はあったが)
それに比べると「ジョジョ」は技術が成熟してから作られているので、原作の魅力をかなり忠実にアニメというメディアに移植することに成功している。とは言っても、原作を超えることはない。
単に技術が上がれば良いというものではない。
最近の非常に高い技術のアニメをもってしても、例えば「ガラスの仮面」は演出力が不足すぎてただの劣化版でしかなかった。
実は原作読んで無いが「キングダム」は多分原作の方が面白いんだろうなと思いながら観ていた。演出がとにかくユルイ!
だが…
鬼滅は違うのだ。
明らかにアニメ版の方が面白いのだ。
ストーリーは何も変わらないのに!
それは、原作の吾峠呼世晴さんが、俺ごときに言われたくはないだろうけど、画力がそんなに高くなく、それをアニメスタッフが補完しているからに他ならない。
漫画には漫画なりの表現がある。
石ノ森章太郎の漫画を見ていると、アニメや映画ではとうてい太刀打ちできない漫画なりの表現の成熟形を見た気持ちになる。
具体的に言えば、漫画だからできるコマ割りの演出が凄すぎるのだ。
コマの形を変えたり、大きさを変えたりというのは漫画だけに許された表現であり、スクリーンサイズの決まっている映画ではできない演出だ(クリストファーノーランの「テネット」はなぜかビスタサイズとシネスコサイズの切り替えをしていて意味なさすぎて苦笑したが)
コマだけでなく、吹き出しとか、タッチとか、漫画は独自の演出力で勝負している。
例えば「進撃の巨人」はアニメも面白いが、原作の漫画演出の凄さには叶わず、結局のところ、漫画原作の筋を追ってるだけにすぎないものでしかなかった。
進撃の巨人も画力は高くもないが、あれは漫画家としての演出力が際立っていたと思うのだ。
しかし、鬼滅は、そもそも演出力や表現力で勝負する作品ではなく、シンプルなストーリーとキャラクターの魅力で勝負する王道的な漫画だった。早い話が筋を追うだけであっても、そこにアニメ的演出を付加すれば、原作がやりたくてもできなかったことが現出するのだ。
例えば水の呼吸発動時における、波や水流のようなイメージは、原作を読む限りでは、おそらく北斎的な浮世絵っぽいビジュアルを想定しているのだろう…ということはわかる。
わかるが、原作がそれを表現としてなし得ているかと言えばそうでもない。
我々読者は原作の拙いけれども、何をしたいかはわかる表現から完成形を想像で補完して読む。
その補完作業をアニメスタッフは完璧に映像化してくれているのだ。
豪快かつ繊細な表現で、原作ではそこまで燃えなかった水の呼吸の型が、大迫力でしかも想像した通りの描写でテレビ画面いっぱいに表現されていたのだ!
私が「鬼滅」テレビシリーズを、なんか違うと思ったのは
那田蜘蛛山編だった。
なんか違うというのは、ネガティブな意味でなく、ポジティブな意味だ。
このアニメヤベェって思ったって意味で。
善逸が、雷の呼吸壱の型「霹靂一閃」を決めた時
ここは漫画でも見開きという、漫画だからできる表現を見事に決めてくれたところではある。
しかし画面サイズを変えることができないテレビアニメの場合、筋を追うだけでは原作に勝てるはずもない。
そこでアニメスタッフがやったのは、むしろカットを割りまくることによる迫力アップだった。
原作には一コマもない、満月を背景に善逸がふわりと浮かび上がる、まるでDCコミックのようなビジュアルのカットまで入れて、アニメならではの表現を突き詰めてくれた!
そして炭治郎がヒノカミ神楽を発動するシーンで、本来ならアゲアゲなBGMをかけるべきところで、「竈門炭治郎の歌」というバラードナンバーをかけて、アゲるよりむしろ泣かせに舵を切り、しかもわかっちゃいても実際に泣かせてしまう、その剛腕さに、私は狂喜乱舞したのだ!
そんな「鬼滅の刃」は、映画版でも、あのあり得ないレベルでアニメ表現を突き詰めたテレビシリーズと変わらぬクォリティがあり、安定した感動があった。
煉獄さんと猗窩座の闘いは、原作を散々読み倒してなおハラハラドキドキさせる迫力と魅力に溢れている。文字通り、心を燃やせ!という思いが伝わってきたのだ。
アニメスタッフは間違いなく心を燃やして本作を作っていた。
お前の負けだ!煉獄さんは勝ったんだ!という炭治郎の絶叫も、実写映画なら、ああ、若いのに叫ばせとけば何とかなる的な演出力のなさを誤魔化すよくあるやつね、と言われるところだが、炭治郎を演じた声優と、アニメスタッフの真摯な努力が合わさって素晴らしい効果を産んでいる。あれもまた原作をリスペクトしつつその上を行こうとするスタッフの熱い意思があったからだ。
映画にうるさい連中が、なんだかんだとイチャモンをつけてくるだろうことは想定できる。ダメなシーン、ダメな演出もあちこちある。
でも鬼滅ファンでもない者の意見など、なんの意味も無かろう。
原作を読み、そこで、脳内でイメージした通りの動く漫画が、そのままどころか圧倒的なパワーアップをもって大スクリーンで展開しているのである。
悪く言いたきゃ言うがいい。
鬼滅を知らずに演出の重箱の隅をつつく連中を、私は悲鳴嶼さんのように悲しんで観るだろう。
鬼滅の刃!最高!
さあテレビシリーズの続きが楽しみだ!
次は花街編か!
宇髄さんVS 上弦の陸「堕姫・妓夫太郎」
早く見てえよ!!