目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

文化財めぐり三田・青葉台コース 約6.1km

2020-06-04 13:23:40 | 東京都目黒区、渋谷区

すこやか歩こう会でこのコースを歩くのは二回目になりますが、前回仕事が入ってしまったので私は歩いていません。ブログで掲載しているのは2017年11月の下見になります。このコースは目黒区役所生涯学習課 文化財係が2010年4月25日に実施したコースをトレースしたもので、文化財の特徴・歴史については役所のページで見ることが出来ます。


舟入場のノウゼンカズラ

アメリカデイゴ
中目黒GTに集合し、舟入場へ移動してストレッチをします。中目黒GTで気づいたのは、会員同士がソーシャル・ディスタンスをとることにより、他の通行を邪魔してしまうこと。withコロナの世の中ではこれまで以上に周囲への配慮が必要になります。緊急事態宣言解除後最初のウォーキングは、13名が参加しました。
ノウゼンカズラは咲き始め、アメリカデイゴはあと一週間といったところでしょうか。花が咲いたらみんなで島唄を歌いましょうか。あっ、合唱は禁止だったかな。


田楽橋

トラウマ遊具解除

アジサイ

田道橋
目黒川沿いに川を下ってゆき、区民センターでトイレ休憩。歩き始めてすぐですが、この先トイレが少ないので、まずはトイレ休憩です。


ゴルフ練習場(休業中)

急坂

千代ヶ崎

三田春日神社
ゴルフ練習場は半ば屋外だし三密にも当たらないと思うのですが、休業中でした。スポーツジムのカテゴリなのでしょうか?区民センターから東へ向かうには急坂を登らなければなりません。目黒三田通りは淀橋台という台地の縁を通っています。台地の縁には目黒台という台地が隣接していますが、淀橋台の方がもともと高いうえに、目黒川の浸食により谷になっており、東へ行くにはどこかの急坂を越える必要があるのです。
標高を見てみると淀橋台の縁にある千代ケ崎は30.2mで目黒台の上にある祐天寺は28.2m、目黒川が削った谷にあるふれあい広場は7.1mです。文化財めぐりの千代ヶ崎の説明を見てみましょう。
目黒一丁目、三田三丁目あたりは千代ヶ崎と呼ばれ、景勝地として知られていました。

南北朝時代(1336年から1392年)の頃、南朝の武将新田義興の館がここにありました。義興の側室千代は、義興戦死の知らせを受け嘆き悲しみ、庭の池に身を投げました。千代を哀れんだ人々が池を千代が池と呼び、このあたりを千代ヶ崎と呼んだという言い伝えがあります。


淀橋台の縁は、南北方向に目黒川が削りますが、縁から湧き出る湧水が東西方向に小さな谷を作ってゆきます。縁の残った部分は岬のように突き出てその部分は「崎」と呼ばれます。千代ヶ崎もまた目黒川が作った景勝地なのです。


帝国陸軍境界石
境界石は階段のモルタルに埋もれていますが、盛り土の上には軌道が設けられ三田用水の水車を利用して作られた火薬を保管場所だった自然教育園まで運ぶための軌道だったと考えられています。起動跡は道となり、盛り土に上がるための階段を作る際この境界石を撤去することなく埋め込んでしまったものと思われます。


爺が茶屋
茶屋があった場所は正確にわかっていないようですが、この案内板がある場所は標高20mで淀橋台から10メートル下った場所にあります。茶屋を営むには水が必要で、湧水が容易に手に入るこの場所に茶屋があったものと考えられています。台地の上では水を運ばなければなりませんから。


茶屋坂隧道モニュメント
モニュメントの写真にあるトンネルが撤去されたのはそれほど昔の話ではありませんが、17年前のようです。アメリカ橋から新茶屋坂への道が通されたタイミングだったかな。隧道となっていますが水道橋の下です。急坂だった茶屋坂のバイパスとして切通しを作りなだらかにした新茶屋坂を建設する際、三田用水を維持するための水道橋として昭和5年に建設されました。三田用水は昭和49年に運用が停止され、茶屋坂隧道は平成15年に撤去されました。


研究所裏バス停

艦艇装備研究所入口

かつての入口
次のバス停は「防衛省技術研究所」となっていますが、恵比寿側入り口の看板は「艦艇装備研究所」です。研究所は東向きの傾斜地となっており、この谷を形成したのは渋谷川です。戦後オーストラリア軍がこの場所に駐屯していたという話を聞いたことがありますが、施設のホームページにも沿革などの説明がなくよくわからないなぁと思っていたのですが、目黒区のページから見つけた目黒火薬製造所の歴史を引用します。
歴史を訪ねて 目黒火薬製造所
更新日:2013年10月1日

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒火薬製造所
「同時二十六日昼、四半時頃、荏原郡目黒在三田村、合薬(鉄炮に用ふる所の品なり)の製所に、過って火を発す。其響四、五里に聞えたり。即死・怪瑕の者七十余人といふ」

江戸時代末に刊行された「武江年表」の、文久3年(1863年)9月の項の一節である。ペリーをはじめ諸外国船の来航、尊王攘夷勢力の過激な反幕運動など、幕末の深刻な政情不安は、江戸近郊の平和な農村だった目黒にも及んできた。幕府が三田村に建設した砲薬製造所の数回にわたる爆発の記録にも、その様子がうかがわれる。

幕末に設立
安政4年(1857年)、幕府は、軍事上の必要から三田村の新富士辺より一軒茶屋上、広尾水車道までの約4万坪の地域に、それまで千駄ヶ谷にあった焔硝蔵(火薬庫)を移転し、さらに中目黒村内の三田用水より上目黒村・中目黒村・下目黒村の田んぼへの分水口下に、砲薬調合用の水車場を建てる計画を打ち出した。

もちろん、村民らは火薬の爆発を恐れたが、お上(かみ)の言うことには逆らえない。しぶしぶ承知する代わりに、用水の分水口を村の決めた所に作ること、地代金を支払うことを幕府に認めさせた。こうして目黒砲薬製造所がつくられ、幕府の軍事力強化に一役買ったのである。

明治期に発展
明治維新後、新政府は、内乱の鎮圧と対外進出に備えて兵器・火器の補強を図るため、新たに火薬製造所の建設場所を捜していた。そして、白羽の矢が立ったのが、旧幕営砲薬製造所跡の目黒の三田村である。三田村が2度も火薬製造所に選ばれたのは、目黒川・三田用水・豊富な湧水など水利に恵まれ、茶屋坂上の高台から目黒川にかけての傾斜地が、火薬生産に必要な鉄製水車を回すのに適していたからである。

明治12年、田畑をつぶして道路を開き、水路工事に反対する村民の抵抗をしりぞけて三田用水に玉川上水をひき入れ、翌年、東西1町16間、南北4町10間、面積2,000坪に及ぶ目黒火薬製造所が完成した。ドイツ製の設備を導入し、ドイツ人を製造技師に迎えて、明治18年、いよいよ操業を開始。製造した火薬は、海軍や鉱山用に使われて、生産額もしだいに増加した。

明治26年、海軍省の管理から、陸軍の東京砲兵工廠こうしょうへ移管された。
日清戦争が始まると、軍用火薬の需要が増大したため、目黒火薬製造所は、隣接の土地を買収して建物10棟、機械30台を増設したが、終戦とともに需要が減り、拡張した設備や労働力の整理に苦しむことになる。

そんななかで、日露戦争が勃発。火薬製造は再びブームを迎え、夜を徹して増産につぐ増産が行われた。そして、終戦。目黒火薬製造所は、小銃・山砲・野砲用などの軍用火薬ばかりでなく、鉱山火薬・猟銃用火薬などを一手に引き受けて、独自に発展の道をたどる。
明治時代の二大戦争によって成長した目黒火薬製造所は、明治44年、それまでの水力および蒸気による動力を、渋谷発電所から供給される電力に切り換えるなどの近代化を行った。大正6年、職工数は男女合わせて367人を数えた。当時目黒で100人以上の規模を持つ工場は、日本麦酒のみであった。

再び移転
もともと目黒には産業といえるほどのものはなかったが、それでも明治初期以来、灌漑(かんがい)用の三田用水を利用して精米・製粉をする水車は少なくなかった。水車の数は明治40年には、大崎、目黒を中心に49カ所に上る。日本麦酒や火薬製造所などの大工場も、動力源として、また、生産の過程で、大量の水を必要としたため、三田用水を利用できることを前提に、ここに設立されたわけで、目黒の工業の発展の歴史は、同時にまた、三田用水が農業用水から工業用水に変わってゆく過程でもあった。

そんななかで、火薬製造所と村民の間に、しきりに水争いがくり返されるようになる。三田用水組合文書には、明治24年、目黒村民がこぞって製造所の多量の用水使用を府知事に訴え出た記録が残っている。

しかし、昭和に入って、目黒に人家が増え、商店・工場も建てられると、火薬製造が危険ということで、昭和3年、幕営時代から70年余、三田にあった火薬製造所もついに群馬県岩鼻村へ移転することになる。目黒の工業化の元祖ともいうべき製造所が、他の工場などの進出によって追い出されたわけである。

火薬製造所跡地の大部分は、海軍技術研究所を経て、現在、防衛省防衛研究所となっている。


目黒区の歴史の中でペリーが関係する事象はあまりないので、よい記事に巡り合いました。


道しるべ

カシワバアジサイ

別所坂公園


目黒新富士
恵比寿から上目黒別所へ向かう道にあった道しるべは、マンション建設中別の場所へ移されていましたが、もとの場所へ戻されました。等価交換でしょうか?
別所坂公園の遊具はまだトラウマ状態です。公園内にある新富士の遺跡は草に覆われてなんだかわからなくなっていました。
淀橋台の縁には多くの富士見の名所がありました。目黒台が淀橋台より2メートル低いこと、目黒川が削り急な崖になっていることなどが西の展望がよく富士見の名所になった理由です。北斎の富嶽三十六景の「下目黒」、広重の「目黒新富士」、「目黒元不二」などの浮世絵が有名なのは、江戸庶民の日帰り観光地としてちょうど良い距離だったためでしょう。


槍ヶ崎

道しるべ

目黒元富士

キングホームズ
槍ヶ崎は淀橋台の縁に突き出した場所の一つで、目黒川が削った西側と渋谷川が削った東側の残った台地が槍の穂先のように細くなっていた場所です。パイパスとして駒沢通りが作られた際細く薄くなっていた台地にトンネルを通しましたが、玉川電鉄の路面電車(のちに東京府へ譲渡)を通すためにトンネルを広げることが出来ず切通しにした場所です。トンネル上を流れていた三田用水は、掛樋をかけて流され、その様子は私の記憶にも残っています。
道標がある道は鎌倉街道で、元富士は丸旦組という富士講が富士塚を作り江戸の観光地になった場所です。富士塚は壊されて上目黒氷川神社へ移され、現在は高級マンションが建っています。


猿楽塚古墳

旧山手通り沿いのカフェ

西郷山公園

菅刈公園
現在新富士から富士山を見ることはできませんが、元富士や西郷山公園からわずかながら富士山を見ることが出来ます。天気の良い日に富士山を探しに歩いてみませんか?


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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