夕方からにわか雨の予報ですが、目黒川船入場に集合したころはぽかぽか陽気でした。
近所のコヒガンザクラ
目黒川とアトラスタワー
目黒川沿いのソメイヨシノも、まもなく開花といった感じで全体的に赤みを帯びています。
ユキヤナギ
レンギョウ
目黒清掃工場緩衝緑地
自衛隊の土手にあるユキヤナギはレンギョウは切られ過ぎなのか花の付きがいまいちです。清掃工場の工事に伴ってか、緑地も一部通行止めになっていました。
アネモネ
目黒区民センターでトイレ休憩です。こちらもよく休憩場所として使用させてもらっていますが、改築になると休憩場所難民になってしまいます。
ふれあい橋から恵比寿方面
日の丸自動車学校
千代ケ崎
三田春日神社
区民センターから北東方面へ向かいます。このルートはあまりなく珍しいです。自動車学校前の道は三田通り、この名前はあまりなじみがない。このあたりの「崎」は目黒台の台地と淀橋台が接している景勝地などにつけられます。淀橋台が目黒台より標高が高く西側の見通しが良いため、江戸時代より富士見の名所として江戸の人たちの行楽地となっていました。三田は「御田」が変化したもので天皇領だった場所。そのため奈良の神社の分社が村の総鎮守となっています。総鎮守の割に小さいのは港区三田にある春日神社の分社ということだと思います。
三田二丁目の路地
陸軍境界石
三田は戦災に遭わなかったのか細い路地が残っています。境界石の階段を上がったところには線路が敷かれ、工場で作られた火薬を白金の弾薬庫まで運んでいました。
茶屋坂
目黒のさんまはフィクションですが、徳川家光とこの坂の途中にあった茶屋の親父がモデルと言われています。
新茶屋坂
茶屋坂は狭くて急なので、切通しにして傾斜を緩くした新茶屋坂が造られ、三田用水の水道橋が昭和五年に建設されたようです。揮ごうした「西郷従徳」は従道の次男で西郷隆盛の甥にあたる人物です。西郷家を継いで侯爵になったのはこの人です。長男はロシア正教の洗礼を受けており、10歳で亡くなっているのですね。豊饒の海に出てくる侯爵は西郷従徳がモデルになっています。
艦艇装備研究所
この場所に軍の施設を作ったのは江戸幕府で、三田用水から落とした水で鉄の水車を回して火薬を製造していました。沿革の一部をWikipediaから引用します。
沿革
1857年(安政4年)徳川幕府が砲薬製造所を建設。
1880年(明治13年)6月:明治政府が目黒火薬製造所を発足。
1885年(明治18年)2月: 海軍火薬製造所を建設。
1930年(昭和5年)9月:海軍技術研究所が築地から移転。以後、敷地内に大きな円形の池が2つと大型水槽が設置され、大和 (戦艦)の模型のテストも行われた。
1945年(昭和20年)11月:イギリス連邦占領軍(オーストラリア軍)が進駐(エビスキャンプ)。英連邦軍東京分区本部(Headquarters, British Commonwealth Sub Area Tokyo)を設置。
1956年(昭和31年)1月:エビスキャンプ接収解除。
コヒガンザクラ
道しるべ
プリンスホテル
プラウド恵比寿ヒルサイドガーデン建設に伴い、道しるべの小屋も新築されています。ここにプリンスホテルが入っていることはなかなか気づきません。
トサミズキ
馬頭観音
アセビ
目黒新富士
恵比寿から別所坂公園へ向かい、新富士は別所坂公園となっています。
槍ヶ崎交差点
槍ヶ崎は大きな切通しになっていて、以前は掛樋で三田用水が通されていました。かつては玉電中目黒線が通っており、南の坂下に中目黒駅がありました。現在のバス停で言うと正覚寺ですね。玉電中目黒駅開業が昭和2年3月、その年8月に東横線も開業しています。東横線中目黒駅は当時の荏原郡目黒村大字上目黒字諏訪山になり現在は上目黒三丁目ですが、玉電中目黒駅があったため上目黒ではなく中目黒という駅名となっています。
朝倉邸の蔵
猿楽塚古墳
西郷山公園
目黒元富士を見た後、旧山手通りを北西に向かいます。二週間前満開だったカワヅザクラはすっかり葉桜です。
菅刈公園のソメイヨシノ
フキノトウ
菅刈公園北口付近でストレッチをして解散しました。
目黒川のソメイヨシノ
この状態ならこの日東京の開花宣言があると思ったけどありませんね。靖国神社のサクラ、開花が遅いんじゃない?
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
近所のコヒガンザクラ
目黒川とアトラスタワー
目黒川沿いのソメイヨシノも、まもなく開花といった感じで全体的に赤みを帯びています。
ユキヤナギ
レンギョウ
目黒清掃工場緩衝緑地
自衛隊の土手にあるユキヤナギはレンギョウは切られ過ぎなのか花の付きがいまいちです。清掃工場の工事に伴ってか、緑地も一部通行止めになっていました。
アネモネ
目黒区民センターでトイレ休憩です。こちらもよく休憩場所として使用させてもらっていますが、改築になると休憩場所難民になってしまいます。
ふれあい橋から恵比寿方面
日の丸自動車学校
千代ケ崎
三田春日神社
区民センターから北東方面へ向かいます。このルートはあまりなく珍しいです。自動車学校前の道は三田通り、この名前はあまりなじみがない。このあたりの「崎」は目黒台の台地と淀橋台が接している景勝地などにつけられます。淀橋台が目黒台より標高が高く西側の見通しが良いため、江戸時代より富士見の名所として江戸の人たちの行楽地となっていました。三田は「御田」が変化したもので天皇領だった場所。そのため奈良の神社の分社が村の総鎮守となっています。総鎮守の割に小さいのは港区三田にある春日神社の分社ということだと思います。
三田二丁目の路地
陸軍境界石
三田は戦災に遭わなかったのか細い路地が残っています。境界石の階段を上がったところには線路が敷かれ、工場で作られた火薬を白金の弾薬庫まで運んでいました。
茶屋坂
目黒のさんまはフィクションですが、徳川家光とこの坂の途中にあった茶屋の親父がモデルと言われています。
新茶屋坂
茶屋坂は狭くて急なので、切通しにして傾斜を緩くした新茶屋坂が造られ、三田用水の水道橋が昭和五年に建設されたようです。揮ごうした「西郷従徳」は従道の次男で西郷隆盛の甥にあたる人物です。西郷家を継いで侯爵になったのはこの人です。長男はロシア正教の洗礼を受けており、10歳で亡くなっているのですね。豊饒の海に出てくる侯爵は西郷従徳がモデルになっています。
艦艇装備研究所
この場所に軍の施設を作ったのは江戸幕府で、三田用水から落とした水で鉄の水車を回して火薬を製造していました。沿革の一部をWikipediaから引用します。
沿革
1857年(安政4年)徳川幕府が砲薬製造所を建設。
1880年(明治13年)6月:明治政府が目黒火薬製造所を発足。
1885年(明治18年)2月: 海軍火薬製造所を建設。
1930年(昭和5年)9月:海軍技術研究所が築地から移転。以後、敷地内に大きな円形の池が2つと大型水槽が設置され、大和 (戦艦)の模型のテストも行われた。
1945年(昭和20年)11月:イギリス連邦占領軍(オーストラリア軍)が進駐(エビスキャンプ)。英連邦軍東京分区本部(Headquarters, British Commonwealth Sub Area Tokyo)を設置。
1956年(昭和31年)1月:エビスキャンプ接収解除。
コヒガンザクラ
道しるべ
プリンスホテル
プラウド恵比寿ヒルサイドガーデン建設に伴い、道しるべの小屋も新築されています。ここにプリンスホテルが入っていることはなかなか気づきません。
トサミズキ
馬頭観音
アセビ
目黒新富士
恵比寿から別所坂公園へ向かい、新富士は別所坂公園となっています。
槍ヶ崎交差点
槍ヶ崎は大きな切通しになっていて、以前は掛樋で三田用水が通されていました。かつては玉電中目黒線が通っており、南の坂下に中目黒駅がありました。現在のバス停で言うと正覚寺ですね。玉電中目黒駅開業が昭和2年3月、その年8月に東横線も開業しています。東横線中目黒駅は当時の荏原郡目黒村大字上目黒字諏訪山になり現在は上目黒三丁目ですが、玉電中目黒駅があったため上目黒ではなく中目黒という駅名となっています。
朝倉邸の蔵
猿楽塚古墳
西郷山公園
目黒元富士を見た後、旧山手通りを北西に向かいます。二週間前満開だったカワヅザクラはすっかり葉桜です。
菅刈公園のソメイヨシノ
フキノトウ
菅刈公園北口付近でストレッチをして解散しました。
目黒川のソメイヨシノ
この状態ならこの日東京の開花宣言があると思ったけどありませんね。靖国神社のサクラ、開花が遅いんじゃない?
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
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