文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

ウィリアム・アダムス(三浦 按針)…ウィキペディアから。

2012年08月28日 10時49分27秒 | 日記

文中黒字化は私。
ウィリアム・アダムス(英: William Adams, 1564年9月24日 - 1620年5月26日(元和6年4月24日))は、江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイギリス人航海士・水先案内人・貿易家。日本名の三浦 按針(みうら あんじん)としても知られる。
按針の墓は長崎県平戸市の崎方公園にある。
また神奈川県横須賀市西逸見(にしへみ)町の「塚山公園」には按針夫妻の慰霊碑があり、1923年3月7日、国の史跡に指定された。
生涯
生い立ちと青年時代
イングランド南東部のケント州ジリンガムの生まれ。
船員だった父親を亡くして故郷を後にし、12歳でロンドンのテムズ川北岸にあるライムハウスに移り、船大工の棟梁ニコラス・ディギンズに弟子入りする。
造船術よりも航海術に興味を持ったアダムスは、1588年に奉公の年限を終えると同時に英国海軍に入り、フランシス・ドレークの指揮下にあった貨物補給船リチャード・ダフィールド号の船長としてアルマダの海戦に参加した。
翌1589年にはメアリー・ハインと結婚し、娘デリヴァレンスと息子ジョンを儲けている。
しかし、軍を離れてバーバリー商会ロンドン会社の航海士・船長として北方航路やアフリカへの航海で多忙だったアダムスは、ほとんど家に居つかなかったといわれている。



日本でのハメル 、オランダでの認識…ウィキペディアから。

2012年08月28日 10時41分54秒 | 日記
日本でのハメル

1666年、彼らが囚われてから13年後、ハメルを含む8名が脱出に成功した。彼らはどうにか小船を奪い、長崎県の五島列島に辿り着いた。

五島淡路守盛勝は彼らを保護し、オランダ商館のある長崎湾の人工島・出島へ送った。

長崎奉行はハメルらをオランダ商館に預け、朝鮮の事情や滞在中の生活について尋問した後に帰国を許可した。

いまだ朝鮮に滞在している「デ・スペルウェール」号の生存者についても、宗氏を通じて日朝間で送還の交渉が行われ、朝鮮への残留を希望した1名を除く7名が、対馬を経由して日本へ送られ、オランダ商館に引き渡された。

オランダでの認識

ハメルは故郷のホルクムに帰って後、1692年に死んだ。17世紀のオランダにおいてハメルは、冒険譚を持つ、多くの元東インド会社乗組員の、ある一人に過ぎなかった。

彼は、何ダースもの東インド会社の交易船が、戦い、災難を生き延び、発見を為し冒険を楽しんだ時代に、7つの海を旅していた。彼の報告書によって述べられた出来事が、単に物珍しいものとしてのみ注目されたのは、意外なことではない。

東インド会社は改めて朝鮮との交易を検討したけれども、清と朝鮮の特別な関係、あるいは朝鮮と日本の外交関係によって見送られることとなった。

最近になって、ハメルの故郷は調査者として彼の役割を認めた。

その素晴らしい旅人に敬意を表す動きとして、ホルクムの古い要塞町では、ハメルの彫像を誇らしげに飾っている。

ハメルがオランダにおいて認知されるようになったのは、20世紀初頭に、オランダ国内のある通りが彼の名にちなんで名付けられたことによっている。

その通りは今も、存在している。

朝鮮でのハメル …ウィキペディアから。②

2012年08月28日 10時38分47秒 | 日記

彼らが逮捕されてまだ冷めやらぬ間に、ハメルらは王のための一種の新奇な貢物として、漢陽の王宮へ連れて行かれた。
ウェルテフレーと信頼できる協力者によって、ハメルらは切迫した要請を王(孝宗)に伝えることができた。
即ち、彼らは王に対して、故国へ帰り、妻や子供たちと再会することができるように求めた。
しかしハメルの日誌は、それを拒絶する王の沙汰による落胆を伝えている。
ハメルらは訓錬都監に兵士として配属され、朝鮮国王から給与を受ける身となった。
朝鮮人が彼らの行動を制限し続けるつもりであることは、オランダ人にとって明白だった。
現地の慣習に従えば、彼らは奴隷も同然だった。
耐えかねた一行のうちの2人が清の使節に日本への送還を直訴したことは、一行の待遇を悪化させた。
朝鮮は清使に賄賂を送ってこの一件を事なきものとしたが、次第に彼らを持て余すようになり、廟議の末に全羅道へ送ることとした。
生活の状態は、中央から派遣される役人の意向によって変転した。
時に給与が滞ったときには物乞いをして命を繋ぐこともあった。
1659年(孝宗9年)には熱病の流行で一行より多くの死者を出し、1660年(顕宗元年)から1663年(顕宗3年)の飢饉で、全羅兵営が彼らを養いきれなくなった後には、全羅左水営、順天、南原に分散されてしまった。
厄介者であった彼らに対して、朝鮮は次第に注意を払わなくなり、彼らは時に綿花の交易のため、周辺を航海することもあった。
そしてそれが、後の脱出に繋がることになった。


朝鮮でのハメル …ウィキペディアから。

2012年08月28日 10時33分32秒 | 日記

朝鮮でのハメル
船員たちは紛れもなく、用意周到な略奪者というよりはむしろ犠牲者であったが、35名のヨーロッパ人の突然の出現は、朝鮮人の間に大きな騒ぎを引き起こした。
漂着者として、ハメルらは遭難の後の最初の数ヶ月は丁寧に取り扱われた。
しかしながら新奇でなくなるや否や、彼らは再び朝鮮が岸辺より遠ざけたい異国人となった。
彼らが朝鮮の最大の敵たる日本から来ることができたという事実は、おそらくオランダ人の悲運を増すこととなった。
17人の虜囚の中でもっとも高い教育を受けていたハメルは、後に長崎の出島に滞在する間に、朝鮮の風習や滞在中の生活について書き残している。
彼らはデ・スペルウェール号の残骸から浜辺に這い上がった後の、朝鮮人との最初の遭遇をこう書いた。
午後になると大勢の人々がめいめい一本の縄切れを手に持ってやって来ましたので、私たちは彼等が私たちを縛って殺すためにやってきたのではないかと考えて、非常に恐ろしくなりました。
― ヘンドリック・ハメル, 『朝鮮幽囚記』生田滋訳
ハメルは、彼らが明白な惨禍として被った、後の屈辱のいくらかについても記している。
自由を求めて拒絶された彼らは、その地の習慣を厳守しなければならず、かくして朝鮮での幽囚の身となった。
ハメルは、済州でヤン・ヤンセ・ウェルテフレー(en:Jan Jansz. Weltevree)と出会った。
ウェルテフレーもまたハメルに先立つ1627年(仁祖5年)に、日本へ向かう途上、給水のために朝鮮に上陸したところを捕らえられたオランダ人であった。
彼の時は朝鮮も日本への送還を試みたが、キリスト教徒であることを理由に断られていた。
同時に捕らえられた2人のオランダ人は、丙子胡乱で命を落とし、ウェルテフレーは朴延(朴淵、あるいは朴燕とも伝えられる)と名乗って朝鮮王に仕え、ただ一人当地で妻を娶り暮らしていたが、王の命を受けてハメルらの通訳と尋問にあたった。
ウェルテフレー(朴延)は訓錬都監で中国人や日本人からなる部隊の隊長をつとめていたが、25年を超える朝鮮生活のうちにオランダ語をほとんど忘れており、改めて漂着者たちから学び直した。
以下続く。


ヘンドリック・ハメル…ウィキペディアから。

2012年08月28日 10時31分08秒 | 日記
ヘンドリック・ハメル(Hendrick Hamel, 1630年、オランダ、ホルクム生まれ - 1692年2月12日、同地にて没)は、13年間朝鮮に幽閉され、李氏朝鮮時代の朝鮮に関する記録を残した西洋人。

ハメルはオランダ東インド会社 (VOC) の会計係 (boekhouder) だった。

1653年7月、交易船「デ・スペルウェール」(De Sperwer) 号に乗船して日本へ向かう途上、朝鮮半島南部沿岸の「ケルパールツ島」(済州島)で破船した。

乗組員64人のうち、ハメルを含む36人が生き残り、彼らは直ちに拘引されて、漢陽(現在のソウル)に送られた。

彼らは朝鮮から去ることを禁じられたが、幾らかの移動の自由と、朝鮮社会の異なる階級と交わる自由を与えられた。

13年後の1666年8月、ハメルと7人の乗組員は何とか五島列島へ脱出することに成功する。

その後、長崎を経由して故国オランダへ帰還した。

1667年以降、幾つかの出版社が彼の報告書を出版した。

そして、彼らのありそうもないが本当にあった冒険について書かれたその報告書は、ヨーロッパに初めての朝鮮に関する詳細かつ正確な描写を与えた。

オランダ領東インド総督および17人委員会に宛てたその報告書は、日本では生田滋によって訳出された『朝鮮幽囚記』(東洋文庫)として知られている。

呉善花…ウィキペディアから。③

2012年08月28日 10時13分05秒 | 日記
共著

日本の驕慢・韓国の傲慢 新日韓関係の方途  渡部昇一(1993年 徳間書店)のち文庫

韓国の激情・日本の無情 日韓反目の壁を超えて(1996年 徳間書店) 渡部昇一 

これでは困る韓国 ニュ-カマー韓国人の対話 崔吉城(1997年 三交社)  

歴史と文化が日本をただす(モラロジー研究所(広池学園事業部)) 八木秀次・高森明勅共著

日本の文化力が世界を幸せにする(2004年 PHP研究所) 日下公人と共著

やっかいな隣人韓国の正体 なぜ「反日」なのに、日本に憧れるのか(2006年 祥伝社) 井沢元彦共著

売国奴(2007年、ビジネス社) 黄文雄・石平と共著

帰化日本人 だから解る日本人の美点・弱点(2008年 李白社(フォレスト出版)) 黄文雄・石平共著

日本を誣いる人々 祖国を売り渡す徒輩を名指しで糺す 渡部昇一,八木秀次共著 PHP研究所 2011.2

脚注

^ 日本で「韓国批判本」出した呉善花氏、韓国入国拒否される 朝鮮日報電子日本語版2007年10月11日

^ “呉善花さん 母の葬儀で“帰国”拒否される”. 産経新聞. 2007年10月9日閲覧。

^ 寄稿:日本国籍を持つ私を入国拒否した「我が祖国」, pp120-129 正論2008年1月号

呉善花…ウィキペディアから。②

2012年08月28日 10時08分59秒 | 日記
著書

スカートの風(チマパラム) 日本永住をめざす韓国の女たち(1990年 三交社)のち角川文庫

続・スカートの風(チマパラム) 恨(ハン)を楽しむ人びと(1991年 三交社)のち角川文庫 

新・スカートの風(チマパラム) 日韓合わせ鏡の世界(1992年 三交社)のち角川文庫 

向かい風 日韓=異文化の交差点から(1994年 三交社)

恋愛交差点 韓国人と日本人=それぞれの愛の風景(1994年 角川書店)「恋のすれちがい」文庫

ワサビと唐辛子 恨の国・韓国から見た「受け身文化」の国・日本(1995年 祥伝社ノン・ブック)「ワサビの日本人と唐辛子の韓国人」黄金文庫 

攘夷の韓国 開国の日本(1996年 文藝春秋)のち文庫 

化粧するアジア 華人都市の消費事情(1996年 三交社)

「日帝」だけでは歴史は語れない 反日の源流を検証する(1997年 三交社)

日本人を冒険する あいまいさのミステリー(1997年 三交社)のちPHP文庫 

日本が嫌いな日本人へ(1998年 PHP研究所)のち文庫、改題「日本人ほど個性と創造力の豊かな国民はいない」

日本の瀬戸際 沈没する日本浮上する日本(1999年 日本教文社)「日本的精神の可能性」PHP文庫 

私はいかにして〈日本信徒〉となったか(1999年 PHP研究所)のち文庫 

韓国併合への道(文春新書)(2000年 文藝春秋)

「反日」を捨てる韓国(2000年 PHP研究所)

生活者の日本統治時代 なぜ「よき関係」のあったことを語らないのか(2000年 三交社)

縄文思想が世界を変える 呉善花が見た日本のミステリアスな力(2001年 麗澤大学出版会(広池学園事業部))

「脱亜超欧」へ向けて 日本は欧米・アジアの限界をどう超えるか(2001年 三交社)

「反日韓国」に未来はない(小学館文庫 2001年)

海の彼方の国へ 日本をめざす韓国・済州島の女たち(2002年 PHP研究所)

コリアンカルチャ- 濃縮パック(2003年 三交社)

韓国人から見た北朝鮮 独裁国家のル-ツ(PHP新書 2003年)

女帝論 「天皇制度」の源流を訪ねて(2004年 PHP研究所)

日本オリジナルへの旅 伝統技芸の現場を訪ねて(2005年 日本教文社)

「反日・親北」韓国の暴走 「韓流ブ-ム」ではわからない(2005年 小学館)「「反日・親北」をやめられない韓国の暴走」文庫 

日本浪漫紀行 風景、歴史、人情に魅せられて(PHP新書 2005年)

日韓、愛の幻想(2006年 文藝春秋)「韓流幻想」文庫

日本語の心 ことばの原風景をたずねて(2006年 日本教文社)

韓国 倫理崩壊 1998-2008 - 社会を蝕む集団利己主義の実像(2008年 三交社)

「漢字廃止」で韓国に何が起きたか(2008年 PHP研究所)

日本の曖昧力 融合する文化が世界を動かす(PHP新書 2009年)

私を劇的に変えた日本の美風 李白社 2010.3

私は、いかにして「日本信徒」となったか ワック新書、2011 


呉善花…ウィキペディアから。

2012年08月28日 09時57分44秒 | 日記
呉 善花(オ・ソンファ、1956年 - )は、韓国生まれの日本評論家、教員、言論家。出生名は呉勝一。済州島出身。大東文化大学(英語学)卒業後、東京外国語大学地域研究研究科修士課程(北米地域研究)修了。拓殖大学国際学部教授。元韓国籍で日本に帰化。

略歴

済州島にいた子供時代は、戦前に日本生活経験のあった母親からの影響もあり知日家で、片言の日本語を披露しては島民に喜ばれていたと語っている。

そののち、主に学校教育によって反日主義に傾倒したが、来日しさまざまな葛藤を経て知日派へと移行していった。

日韓のビジネスマンとの通訳・翻訳のアルバイトをしながら、東京外国語大学大学院に通った。

在学中に発表した滞日韓国人ホステスに関するルポルタージュ『スカートの風(チマパラム)』が話題を集め、注目された。

後にシリーズ化し、『続 スカートの風』『新 スカートの風』が出された。

他の代表的な著作に、『「日帝」だけで歴史は語れない』、『攘夷の韓国 開国の日本』(山本七平賞受賞)などがある。

論説の一部において、韓国併合を全否定しないことや日本の自虐史観の改善等への言及があり、そのことから、日本では知日派(但し先述のように帰化済みである)、韓国では親日派(「売国奴」とほぼ同義)という評価を受けるようになった。(韓国語版ウィキペディアではチンイルパ(「親日派」の朝鮮語音)として紹介されている。)

『スカートの風』が日本で評価されたのに対し、韓国では、呉善花は実在せず日本人がなりすましたのだという説が一部で流れ、呉善花探しが行われた。実在が確認されるとそうした噂は消えていった。

日本語読みではなく韓国語読みのまま「オ・ソンファ」と名乗っている理由については、ハングルにはない「濁音」が苦手で、自分の名前の日本語読みの「ご・ぜんか(呉善花)」を上手く発音できないためと説明してる。

2007年10月1日、済州島在住の母の葬儀で母国に帰郷しようとしたところ、日本での「反韓国的な活動」が理由で韓国当局から入国禁止措置が取られていた為、済州空港で一時入国を拒否された。

これに対し、呉の要請により在済州日本国総領事館から日本人への人権侵害との申し出があり、韓国入管は呉の入国を認めた。

韓国における漢字復活論支持者でもあり、自著でもたびたびハングル専用教育の弊害について言及している。

韓 昇助(ハン・スンジョ)…ウィキペディアから。②

2012年08月28日 09時51分37秒 | 日記
韓国国会の対応

3月20日にはハンナラ党の元喜龍(ウォン・ヒリョン)は「日帝の植民地支配を合理化して国民の怒りを買った韓昇助前高麗大学名誉教授事件の再発を防止する必要がある。

仮称『日帝侵略行為歪曲及び擁護防止法』を新設する。」と述べた。

朝鮮日報によると、法案は言論出版及び集会を通じて日帝侵略期間中の反民族行為や戦争犯罪などを賛美したり、擁護することは表現の自由の枠を越えたものと見なし処罰するよう定めるとのことであった。

マスコミによる批判

朝鮮日報は次のように批判した。「この上なく荒唐無稽だ。日帝の植民統治は韓国民の血と汗を搾取した。韓国を日帝の附属品として挟み込むことで、国民国家レベルの完全な自生的近代化の道を捻ってしまった。民族を分け、凄惨な民族同士の戦いである韓国戦争や60年にわたる分断の種をまいたのも日帝の韓国強占だ。問題の発言をした張本人も、このような簡単な歴史的事実を分からないはずはないだろう」。

脚注

^ 「日本の植民支配は不幸中の幸い」 韓国教授の論文が論議に (朝鮮日報2005/03/04)

^ <インタビュー>韓昇助氏「所信を書いた、後悔は全くない」 (中央日報2005/03/04)

^ 韓昇助氏の「親日寄稿」波紋が際限なく拡大 (朝鮮日報2005/03/06)

^ 韓昇助氏が高麗大学名誉教授職を辞任 (朝鮮日報2005/03/07)

^ 高麗大総学生会、「親日教授リスト」を今月末に公開へ (朝鮮日報2005/03/11)

^ 「第2の韓昇助事件防止」法案新設を推進 (朝鮮日報 2005/03/20)

^ 「日本の植民地支配」擁護行為への処罰法案を推進 (朝鮮日報 2005/03/20)

^ 日帝支配が「祝福」だという捻じ曲げられた歴史観 (朝鮮日報 2005/03/20)

韓 昇助(ハン・スンジョ)…ウィキペディアから。

2012年08月28日 09時44分37秒 | 日記
韓 昇助(ハン・スンジョ、1930年1月13日 - )は、大韓民国の政治学者。韓国併合恵沢論者である。日本の保守派からは、呉善花などと共に『韓国良識派』の代表的存在として評価されていた。

日韓併合についての発言

高麗大学名誉教授であった2005年3月1日、日本の月刊誌「正論」2005年4月号に「共産主義・左派思想に根差す親日派断罪の愚 韓日合併を再評価せよ」と題し、韓日併合は韓国人にとって祝福であり感謝するべきだという主張を寄稿し、韓国国内世論から激しい批判を受けた。

3月4日には、韓昇助は所信に基づいて書いたので後悔はまったくなく、むしろこの問題が公論化されることを望むと中央日報の取材に答える。

3月6日には、自身が共同代表を務める自由市民連隊の代表を辞任するが、青年会員で構成された自由市民連隊・非常対策委員会は会員資格の剥奪と指導部の共同辞任を求めた。

勤務先の高麗大学では寄稿内容は大学側の立場とは違うと緊急表明した。

同日、高麗大学名誉教授を辞任する。

3月11日には、高麗大総学生会が「第2の韓昇助」が出ないようにするとして「親日教授リスト」を民族問題研究所などの団体と合同で親日行跡が明らかな前・現職教授リストを近日公開すると発表する。


*芥川が、韓国は、戦後67年間も…21世紀の今に至るまで、反日教育と反日政策を続けているファシズムの国であり、その結果として、阿呆なファシストを量産し続けているのだ。

だから、一刻も早く、国連に提訴するのだ、と云っている事の意味が、100%証明されているはずだ。

趙英男(チョ・ヨンナム)…ウィキペディアから。

2012年08月28日 09時38分23秒 | 日記
文中黒字化は芥川。

趙英男(チョ・ヨンナム、조영남、1945年4月2日-)は大韓民国の歌手、タレント、画家、著作家である。

韓国では国民的人気と知名度を誇り、KBSのトーク番組「チョ・ヨンナムに会った人」は高い視聴率で長寿番組であった。

黄海南道信川郡に生まれる。

ソウル大学校音楽大学声楽科卒業。

1972年に女優のユン・ヨジョンと結婚し息子2人をもうけるも、1985年に離婚。

2005年に『殴り殺される覚悟で書いた親日宣言』を著し、韓国のみならず日本でも出版され、そのタイトルと世界で日本をバカにするのは韓国だけの帯の文句のインパクトで話題となった。

しかし、これをきっかけに韓国では彼の評価は一変し親日派として激しく糾弾されるようになった。

そのため「チョ・ヨンナムに会った人」は打ち切りとなるなど、芸能活動は事実上休業状態に追い込まれた。

さらに『殴り殺される~』には、彼が靖国神社を見学したことが書かれていたことから、それが靖国神社を参拝したと歪曲される尾鰭もついた。

靖国神社を参拝したように報じられた事で、韓国内で反発が広がり10年以上務めた人気番組 の司会を降板する事になった。

関連情報

趙英男 (著), 萩原 恵美 (翻訳) 『殴り殺される覚悟で書いた親日宣言』, ランダムハウス講談社, 2005/4/13 ISBN 4270000651.

金完燮 (キム・ワンソプ)…ウィキペディアから。③

2012年08月28日 09時34分08秒 | 日記
『親日派のための弁明』について

『親日派のための弁明』は、戦前の日本による朝鮮統治について評価、肯定的な見解を述べた評論で、当初は韓国で販売されたが、本の内容が問題視され、青少年有害図書に指定され、金完燮は逮捕された。

日本では、草思社から日本語訳が販売された。販売されると直後に反響を呼び、歴史書としては異例の40万部のベストセラーとなった。

2004年11月に扶桑社から文庫本も販売。同時期に『親日派のための弁明2』の日本語訳も販売された。

また、本人は日本での出版を機に来日することを考えていたが、本人の著書によると、『パスポートの更新に応じてくれない』という事から、事実上の出国禁止処分になっている模様である。

作品(出版物)

評論

『親日派のための弁明』 荒木和博・荒木信子、草思社、2002年。ISBN 4-7942-1152-X。

『娼婦論』 李幸子、日本文芸社、2002年。ISBN 4-537-25127-1。

『日韓大討論』 西尾幹二、扶桑社、2003年。ISBN 4-594-03994-4。

『日韓「禁断の歴史」』 小学館、2003年。ISBN 4-09-389651-8。

『親日派のための弁明2 英雄の虚像、日帝の実像』 星野知美、扶桑社、2004年11月27日。ISBN 4-594-04845-5。

『親日派のための弁明』 荒木和博・荒木信子・星野知美、扶桑社〈扶桑社文庫〉、2004年。ISBN 4-594-04833-1。

『親日派のための弁明2 英雄の虚像、日帝の実像』 星野知美、扶桑社〈扶桑社文庫〉、2006年。ISBN 4-594-05225-8。

訳書

『物理学の進歩』(著者・アルベルト・アインシュタイン)

金完燮 (キム・ワンソプ)…ウィキペディアから。②

2012年08月28日 09時23分01秒 | 日記
主張と論争

慰安婦

日本は海外遠征のときに慰安婦を送ることによって軍人と現地住民に配慮しており、侵略軍ではなく解放軍により近い証拠であり、日本軍のヒューマニズムを象徴する証拠として再評価されなければならないと述べている。

これに対し、ソウル中央地裁から日本軍慰安婦被害者6人にそれぞれ600万ウォン払うよう命じられる。

閔妃 (明成皇后)

明成皇后は朝鮮を滅ぼした亡国の元凶であり、西太后と肩を並べる人物と述べている。

これに対し、ソウル中央地裁から明成皇后遺族らにそれぞれ1000万ウォン払うよう命じられる。

安重根・金九

安重根は守旧反動派の凶悪犯であり、日本人が伊藤博文を日本の国父と考えず、安重根を仇とすら考えていないことが理解できないと述べ、金九については生まれつきの殺人鬼だと思わずにはいられないと述べている。

安重根と金九について、韓国の異常な反日教育が作りだした偽の偉人に思えてならないと述べている。

これに対し、ソウル高等検察庁は、虚偽の事実を流布し金九の名誉を毀損したとして起訴した。

竹島問題

「良心のない大韓民国! 独島(竹島)は日本に返してやれ」というコラムをインターネット上に掲載した。

また、コラムに対して脅迫するコメントなどを書き込んだ1000人以上を訴えるが、ソウル中央地方検察庁は、金完燮が社会通念を逸脱する内容の文章を掲載し、自ら中傷や非難を誘発した面があり、それに対する書き込みは脅迫でなく叱責と解釈されるとし、不起訴処分とした。

安全保障

日本は再武装して、日韓台・ASEANによる東アジア安保同盟の創設をするべきだと提言している。

金完燮 (キム・ワンソプ)…ウィキペディアから。

2012年08月28日 09時17分37秒 | 日記
金完燮(김완섭、キム・ワンソプ、1963年 - )韓国人評論家・作家・教育家・言論人。光州生まれ。サレジオ高校-ソウル大学中退。光州事件の市民軍に参加した。

来歴

1980年‐光州民主化運動(→光州事件)に市民軍として参加し、全羅道庁に篭城。のちに、国家偉功者として顕彰される。

1982年‐ソウル大学物理学部に入学。

1989年‐雑誌編集記者になる。

1995年‐「娼婦論」出版、韓国でベストセラーとなる。

1996年‐オーストラリアに移住して、以後対日観が変わる[2]。

1998年‐韓国に帰国。『コスタク新聞』を創刊、編集主幹になる。

1999年‐親日関連著作で名誉毀損罪で有罪となる。

2002年‐日本で『親日派のための弁明』が出版される。

2003年2月14日‐「日帝の韓国支配と明成皇后暗殺を美化する本を書き、インターネットに関連の文章を掲載した」容疑でソウル高等裁判所から700万ウォンの罰金刑を命じられる。

2003年11月‐過去史真相究明のための国会公聴会に参加するが傍聴人から暴行される。

2004年7月27日‐金九の名誉を毀損したとしてソウル高等検察庁に起訴される。

2004年10月‐親日著作をめぐる裁判の出廷時に殺人犯朴から暴行を受け負傷。

2005年2月22日 - 2月15日に金完燮がインターネット上に載せた文章を読んだ金乙東(「青山
里戦闘」の金佐鎮の孫)に、名誉毀損罪で告訴される。

2005年9月2日 -慰安婦や歴史上の人物を評論したことにより子孫の名誉を毀損したなどとして9600万ウォンの賠償をソウル中央地裁から命じられる。

2006年5月31日 -金完燮への誹謗中傷は「独島は日本に返してやれ」などと自ら誘発させたものであるから不起訴処分とする、とソウル中央地方検察庁が発表。

それに比べて日帝下の1940年は60%だった。…ウィキペディアから。

2012年08月28日 09時05分39秒 | 日記

http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/folder/1576591.htmlから。

上記は李 栄薫ソウル大学教授の論文を紹介しているサイトです。

そこに、私が認識している事実と重なる証明が在った。
文中黒字化は私。

…前略。

しかし、最近の多くの研究は、その時代が虚無と無成果の時代だけではなかったことを、微弱ではあっても創造と生産の芽が芽生えた時代でもあったことを明確にしている。

その時代の最大の制約は、市場の欠如だった。

60年代以後のように国際的に広く自由に開かれた市場がその時代には無かった。

援助によって成立した貿易を除けば、50年代末の韓国経済の開放率は10%にもならなかった。

それに比べて日帝下の1940年は60%だった。

人々に仕事を提供して所得をもたらす市場が閉ざされているから、どんな才幹があっても使いようのない時代だった。

…後略。