私は、この重要と言う以上に重要な論文を読んだ後に、以下の様な事も確信的に思ったのである。朝日新聞の論説主幹を務めた若宮敬文を私が初めて知ったのは、私が朝日新聞と同様に、長い間、視聴していたテレビ朝日の「報道ステーション」にゲストコメンテーターとして登場した時だった。その表情の異様さと、司会者の質問と全く関係がなかった、田中角栄の名前をだした時の異様さが、あまりにも強烈で、
漏れ聞こえていた、朝日新聞の偏向記事の代表者との評が、全く正しい事を確信した。それほどに表情と言動が異常だったのである。痴呆症にでもかかっているのかと思わせるほどに。だが、あの表情は、最後に書く、この章の主題が正しい事を告げていたに違いない事を暗示していたのではなかろうか。
いうまでもない事だが、この番組とTBSのニュース23は、今は全くと言って良い程、観ないのだが、昨夜、米国大統領選挙の情報を得ようと、本当に久しぶりにニュース23をちょっと観ただけで、本当に呆れた。昨夜においても、沖縄での土人発言について、結構な時間を割いて報道していたからである。私は、TBSと中国の情報機関の関係を日本国として調査すべき時はとうに来ていると確信する。
若宮敬文について、私が最後に本当に驚かされたのが、彼が中国訪問中に北京のホテルで死んでいるのが発見されたという報道である。私が、このニュースを聞いた瞬間に、これはただ事ではないぞと思った事は既述のとおり。
中国共産党は、毎日新聞の記者だった浅海一男が「100人斬り」という、(中国が日本を攻撃するための無数の出鱈目なプロパガンダの中で、これだけは日本製だった事を、高山は教えてくれたわけだが、)捏造記事について、嘘である事を白状しそうな状況に在った時、家族全員を北京に住まわせ(豪華待遇で)、娘は北京大学に入学させた。そこまでするのが中国共産党である。
若宮は、晩年は自分の言論が様々な人たちから広く批判され出して極めて居心地が悪い状況であったようだ。彼は自伝の執筆を始めていたか、書きだそうとしていたのではないだろうか。それは当然ながら中国共産党にとっては、これ以上ない不都合な真実の暴露になる。だから彼は消された。そう感じた私の推測が荒唐無稽なものだと誰が言えようか?
以下は前章の続きである。
「昭和十三年五月(ママ。正しくは七月)高宗武来朝の節、軍人にあらずして面会したるもの左の如し、松本重治、西園寺公一、尾崎秀実、犬養健(案内者二名略)。右のうち尾崎は西園寺の友人なるを似て列席したりと陳述し置きたり。これは影佐(禎昭・中西補)中将の迷惑となるべきを恐れたるなり。何となればかかる極秘の特使と面会し得る者は当然当時の参謀本部又は陸軍省の認可承諾を要したる筈なればなり」
当時の尾崎は一民間人に過ぎなかった。
尾崎が朝日新聞を辞めて内閣嘱託となるのは、高らが日本に滞在中(昭和十三年七月五~九日)の七月八日である。
そんな人物が、陸軍が取り仕切る中国側密使との極秘交渉の場に同席していたのである。
汪兆銘側のこの動きは蒋介石にも秘されていた。
犬養がわざわざ「西園寺の友人」と断って尾崎を同席させていたのだから、嘱託就任前からこの極秘の会合に参加していたのだろう。
そもそもこの嘱託就任の日付自体に、一民間人が秘密会合に参加していたという“不祥事”を隠蔽しようとした意図も感じられる。
極めて隠密裏に、国の命運をも左右する機微なやりとりがなされた場に、少なく言ってソ連のスパイエ作員である尾崎の同席を許したのは誰なのか。
しかも犬養は、尾崎が和平について「支那問題では絶望的に考えて」いたと指摘しており、隠に陽に和平に反対していたことも明言している。
犬養の証言では、当時の近衛内閣あるいは日本政府部内において、尾崎の意見は日支和平問題でも常に尊重されていたという。
そんな尾崎が極秘の和平交渉の場に同席し、近衛声明の文案の起草まで命ぜられて、従事していたのだ。
このことにこそ、汪兆銘工作や近衛声明の隠された本質が示されているのである。
このように、第二次・第三次近衛声明は「相手とせず」の第一次声明以上に、実に深刻な意味を持っていた。
そして、ルーズベルトはこのころから、日本を追い詰め、最初の一発を日本に撃たせて、ドイツとの戦いに持ち込んでいくことを考え始めた。
もちろん日本はその余力で簡単に粉砕してしまえると考えていた。
たとえば、声明の一ヶ月後、ルーズベルト政権は蒋介石政権に二千五百万ドルの巨額支援を決定し日本への徹底抗戦を促した。
さらに、翌年一月三十一日にはルーズベルトは多くの上院議員を前にして、日本はナチス・ドイツと同じ野蛮な侵略主義の代表となったとし今やドイツの実質的な軍事同盟国として東アジアから世界に脅威を及ぼす存在となった、とまで論じた(DavidReynolds, From Munich to Pearl Harbor, Chicago, 2001)。
これ以後、日米開戦に至るまでのその後の日本の動きは、この三八年の後半に生じた歴史の大きなうねりへの、いわばレスポンスでしかなかったのである。
この稿続く