文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

京都に向かっている時、脳裏に流れていたのが♪modern love♪だった。。

2016年11月19日 15時23分23秒 | 日記

大阪を社会人としての生活の舞台として選択した頃、毎週末に京都を訪れた。この頃、祇王寺と滝口寺にも

2016-01-29 

大阪を社会人としての生活の舞台として選択した頃、毎週末に京都を訪れた。この頃、祇王寺と滝口寺にもよく行った。

暫く行くことを止めていた時、石平さんの本を読んで昨秋の紅葉の季節に、久しぶりに再訪した。

今日は、午前中は晴れの予報だったから、一目散に、向かった。だが目的は、鳥たちの写真を撮る為だった。

京都に向かっている時、脳裏に流れていたのが♪modern love♪だった。イヤホンを忘れて行ったから聴けなかったのだが。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私は、彼の言葉もまた、世界中に届く必要があると考えている。そうすれば世界は随分マシなものになる

2016年11月19日 15時22分19秒 | 日記

生まれて初めて、「日本」というものを発見したと同時に、生まれて初めて、わが心の中の

2015-11-27 

以下は石平さんの本に感じてご紹介している章の続きである。

*私は、彼の言葉もまた、世界中に届く必要があると考えている。そうすれば世界は随分マシなものになるからだ。*

日本に来て1ヵ月、私は初めて、本当の「日本」に出会い、日本の心と伝統に触れたのだった。

しかし私にとって、それはまた、単なる海外旅行における、物見遊山ではなかった。

単なる異国の文化との出会いでもなかった。 

この私にとって、日本の心と日本の美学、日本の伝統と日本の文化とのこの最初の出会いは、そのまま、わが祖国の失われた伝統と文化の面影との最初の出会いでもあった。 

一人の懐古的情緒を持つ中国人青年として、心の中でひそかに夢見てきた、わが祖国のあの古き良き時代の厳かにして清らかな信仰と雅の世界との、最初の出会いであった。 

生まれて初めて、「日本」というものを発見したと同時に、生まれて初めて、わが心の中の「祖国」をも発見した。

人生の中で初めて、日本的宗教と美の世界に出会ったと同時に、人生の中で初めて、本当の意味での信仰と雅の世界に触れた。 

それは、1988年5月の、小雨の降る、ある日曜日のことであった。 

この稿続く

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

20歳の頃、ル・クレジオに出会った。ほどなく彼の哲学の書とでも言うべき「物質的恍惚」が出版された。

2016年11月19日 15時19分54秒 | 日記

彼が書いたのだから、私はもう書かなくても良い。良かった、と思った。
2015-11-26 

20歳の頃、ル・クレジオに出会った。
ほどなく彼の哲学の書とでも言うべき「物質的恍惚」が出版された。
私は直ぐに購読した。
驚いた。
もう一人の僕が居る。…
この世界には、もう一人のあなたがいるという…
私は正にその事を強烈に実感したのである。

彼が書いたのだから、私はもう書かなくても良い。
良かった、と思った。
私は私の人生を生きてゆけば良い。

北京大学の哲学科を卒業して日本に学び、日本に帰化した石平さんの心を一番動かしたのが、京都だった事、出会いは嵐山だったこと、
それから彼が京都を歩き続けた時間は、私と全く同様だったと言っても過言ではなく、私は、石平さんも、この世界にいる、もう一人の私でもあったのだと思うほどなのだ。

以下は、先日、まえがきを紹介した、彼の本、私はなぜ「中国」を捨てたのか、のp201からである。

嵐山で言葉を失う

私にとってはたいへん意外なことだったが、1988年の春に日本に来てまもなく、感動的な出会いが私を待っていた。 
日本に来たのはこの年の4月だった。
そして5月のある日曜日、私の日本留学に助力してくれた中国人留学生の親友が日本人の彼女と一緒に、私を京都観光へと案内してくれた。 
日本に来て、初めての物見遊山である。 
今でも鮮明に覚えているが、それは5月の小雨の降る涼しい日であった。
親友が案内してくれたのは、観光名所の嵐山、嵯峨野周辺だった。 
もちろん、その時の自分は「あらしやま」と聞かされても、どういうところかまったく知らなかった。
かの周恩来が、日本留学時代に見物に行って詩を詠んだ場所だと親友が言うので、まあ、多少風光明媚な観光地の一つではなかろうかと、漠然と思いながら案内役の二人に付き従った。 
阪急電車の嵐山駅から歩くこと数分、一本の川(桂川)のほとりにたどり着いた。
そして、一面の景色が目の前に広がったその瞬間、私は息をのんだ。 
新緑に抱かれる山々が、乳いろの山霧にかすんでいる。 
山の麓からは、青く澄んだ川の水がゆったりと流れてくる。 
古風な形をもつ一本の橋が、清流の上に優雅にまたがり、川の向こうには伽藍らしき屋根が幾つか、煙雨の中でかすかに見えている。 
それはそのまま、一幅の水墨画のような恍惚境であった。 
私はしばらく言葉を失い、二人の連れの存在も忘れた。
ただ目を細めて、静かに、心ゆくまでうっとりと、目の前の景色を眺めていた。 
もちろん、それは自分が生まれて初めて目にした、嵐山の5月の小雨の景色である。
しかしどういうわけか、それを見知らぬ異国の風景として眺めている感覚が、まったくなかった。 
いや、むしろ、どこかで見たような、懐かしい思いだった。
夢の中で見たのか、想像の中で見たのかよく分からないが、それは間違いなく、自分の心がごく自然にその中に融け込むような「なじみ」の風景である。 
この稿続く。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

26歳の時に「日本」と出会って経験した、衝撃と喜びいっぱいの「日本発見」の過程と、日本の美学と日本の

2016年11月19日 15時17分44秒 | 日記

私の前半生の到達点とこれからの人生の原点がここにあるのである。 

2015-11-23 

以下は前章の続きである。

26歳の時に「日本」と出会って経験した、衝撃と喜びいっぱいの「日本発見」の過程と、日本の美学と日本のやさしさの中で育まれた私の「日本文化論」が語られている。 

そして、「過去」にではなく「未来」に目を向ける時、この書物はまた、新日本人としての私の人生の再出発宣言であり、今後の言論活動の基軸となる心の誓いの書となるのである。 言ってみれば、本書においてこそ、「石平」というもののすべてがぎゅっと詰められている。

私の前半生の到達点とこれからの人生の原点がここにあるのである。 

このような一冊だから、読者の皆様が時間を割いて本書を読み、私の魂と出会って私のことを分かって下さるならば、著者にとってはそれ以上の喜びはない。

そして、この本を媒体にして皆様と心の絆を結び、日本のために共に頑張っていこうとする同志の輪を広げることが出来れば、それはまた、新日本人である私の本懐であろう。 

最後に、本書の再版に尽力して下さったワック出版の松本道明さんと、編集を担当して下さった素敵な日本人女性の小森明子さんに心からの謝意を申し上げたい。 

そして何よりも、この私を日本との運命的な出会いに導いた天地神明にたいし、感謝の気持ちを込めて合掌したい次第である。

2009年7月吉日 石平

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

その中には、子供の時代から私の魂が辿ってきた苦しみの遍歴と、この遍歴の中で形成された私の「中国観」が

2016年11月19日 15時15分04秒 | 日記

私がどうして、自分の生まれ育った国の中華人民共和国に決別を告げることになったのか

2015-11-23 

以下は前章の続きである。

「私という人間的存在は、一体何処からやってきて、何処へ向かっているのだろうか」と。 

その一方、私のアイデンティティ問題にたいして、多かれ少なかれ疑念を抱く人もいるだろう。

たとえ私の論におおむね賛成している読者の方でも、[石平は一体何者か]と疑ったり不思議がったりする時はあろう。私に何らかの関心を持つ人々が上述のような疑問を持って、「石平」というものの素性や来歴を知りたがっているのも、当然といえば当然のことである。 

このような疑問に真摯に答えるのは私の責務となっているが、実は今から皆様に読んでいただくことになるこの本こそが、そのことを念頭において書かれたものなのである。 

それは、石平である私自身が、自分の来歴や素性やアイデンティティ形成のプロセスを一度深く掘り下げて「総点検」した上で、新日本人となるまでの、自分白身の心の軌跡を忠実に記録したものである。

私がどうして、自分の生まれ育った国の中華人民共和国に決別を告げることになったのか、私がなぜ、言論批判の矛先をもっぱら中国共産党政権に向けているのか、私という中国出身者がなぜ日本の文化に傾倒し、心底日本を愛してやまないのか、といった問いから発したこの「心の記録」は、私に向けられた疑念に対する責任のある回答であると同時に、私の言論活動を支えてくれた多くの人々に提出する自分の「精神的履歴書」でもある。 

その中には、子供の時代から私の魂が辿ってきた苦しみの遍歴と、この遍歴の中で形成された私の「中国観」が綴られている。

この稿続く。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石平さんが嵐山で慟哭したと言う風に私は覚えていた。昨日の嵐山は快晴ではなかったが、望んだとおり、

2016年11月19日 15時11分27秒 | 日記

そのことを余すところなく、以下の本は解き明かしてくれた。

2015-11-23 

一昨年の京都の紅葉は10年に一度の当たり年だったが、去年もとても素晴らしかった。だが今年の京都の紅葉は高温や雨などの影響で外れの年のようなのだが。

一昨日、昨日と、私は我が家の庭でもある嵐山に向かった。一昨日は午後3時ごろに着いたために、ほどなく太陽はかげってしまった。天の配剤と言うべきか昨日も晴天だったから朝早くに嵐山に向かった。列車は嵐山までずっと大変な混雑、特に嵐山線は凄まじい込みようだった。

石平さんが嵐山で慟哭したと言う風に私は覚えていた。昨日の嵐山は快晴ではなかったが、望んだとおり写真撮影に必要な柔らかな陽光は何とか嵐山に降り注いでいた。

嵐山には私が1年に50回以上は撮影している撮影スポットが在るのだが、そこに着いたとき私は石平さんが初めて嵐山を観た時の感動が、そのまま私に乗り移ったように思ったのである。私は慟哭すら感じた。

昨日、私はこれまでの何百回と言う中でも最高の嵐山を撮り天龍寺のベストショットを撮った。我ながら本当に素晴らしい写真である事を確信している。

後日、私の写真についての考えと、例えば、今年亡くなった素晴らしい画家、石本正氏の絵に対する考え方とは全く一緒であることについて書くが。

何故、私が昨日慟哭すら覚えたのか、そのことを余すところなく以下の本は解き明かしてくれた。

「私はなぜ「中国」を捨てたのか」、と題して石平さんがワック株式会社から2009年8月14日に初版を発行した本である。

私は、このまえがきも日本の人たちのみならず世界の人が読むべき文章だと思う。

「新版まえがき」 

いくつかの場面ですでに報告していることだが、私石平は、2007年11月30日付で日本に帰化して、めでたく日本国民の一員となった。 

翌年の2008年1月3日、当時関西在住の私は、新日本人として初めて伊勢神宮に参拝した。

五十鈴川に流れる神の国の聖なる水で体と心を清めた後に本宮にお参りして、日本民族の一員となったことを天照大神に報告した。 

そして2008年3月24日、かねてから尊敬している中條高徳さんに引率される形で、人生初めての靖国神社昇殿参拝を果たした。

日本国のために尊い命を捧げた英霊たちにたいし、彼らの志を継がんと誓ったわけである。 

この二つの「通過儀礼」をもって、私は身も心も日本国民の一員となったつもりであるが、振り返ってみれば、今まで私の歩んできた人生の道は、実に波瀾万丈なものである。

毛沢東を崇拝して「革命の小戦士」になろうと決心していたかつての中国人少年が、今や日本国民の一人として、日本の保守論壇で独自の論陣を張るようになっているのである。

その間における有為転変の激しさは想像のつくものであろう。 

しかも、元中国人、石平の言論活動の大半が、まさに毛沢東共産党と中華人民共和国への痛烈な批判と、中国からの脅威に対する強い警告に費やされているのだから、運命の巡り合わせというのは、いかにも魔訶不思議なものではないのか。 伊勢神宮と靖国神社への参拝以来、新日本人としての自分のアイデンティティを疑ったことはI度もないが、時々今までの自分の人生を振り返ってみて、ある種の詩的な、あるいは哲学的な深い感慨に浸ることもある。

この稿続く。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一体、この放送局は、どこの国の放送局なのだと呆れ果てた、慧眼の士は少なくなかったはずだ。

2016年11月19日 15時05分17秒 | 日記

だから、南シナ海の海底に核ミサイルを発射するための潜水艦の海底基地をつくろうとしている

2015-11-23 

以下は、「これから始まる中国の本当の悪夢」と題して、石平さんと黄文雄さんが対談し、2015年9月30日に徳間書店から出版した本の、p77~p78からである。

*以下の文章と文中強調は私である。

なぜ中国は南シナ海支配を急ぐのか 

黄 

いずれにせよ、新シルクロード構想も、そのバックボーンとなるAIIBも失敗に終わるということは、われわれの一致した結論ですね。 

そこで次に、中国の海洋進出についての話に移りたいと思いますが、ここ数年、中国の南シナ海支配が非常に大きな問題になってきています。 

もちろん、東シナ海の尖閣諸島周辺でも領海侵犯は繰り返されていますし、ガス油田の開発を一方的に進めていることも大きなニュースになりました。 

中国にとって南シナ海と東シナ海のどちらが大事かというと、南シナ海ですね。

逆に、どちらのほうが扱いやすいかというと、東シナ海なのです。 

南シナ海で何かすれば、アメリカはもちろん、フィリピンやベトナムも反発する。

東シナ海は日本だけだからやりやすい。 

しかも、戦略的にも南シナ海のほうが中国にとって重要なのです。

というのも、これは軍事専門家に聞いた話ですが、ここに潜水艦の基地をつくり、海底から核ミサイルが発射できるようにする狙いがあるというのです。

中国本土には200~300発の核ミサイルがあるとされていますが、アメリカがこれを叩けば、10分ですべて破壊できるとも言われています。

そうなると、報復行動がとれない。

だから、南シナ海の海底に核ミサイルを発射するための潜水艦の海底基地をつくろうとしている。 

一方、南シナ海にしても東シナ海にしても、中国は海底資源の掘削を行っていますが、エネルギー開発の専門論文などを読むと、断層が多くて採算が合うようなものではない。

要するに、ダミーなんです。

とくに東シナ海のほうは、南シナ海での支配力を強めるうえでの囮で、騒ぎを起こして、世界の耳目を東シナ海に引きつけておきたいと思っている。 

中国語で言えば、「声東撃西」(東に声して西を撃つ)ですね。 中原(中国)のいちばん最初の主役である夏人は、マレー・ポリネシア系という説が最有力ですが、4000年来、モンゴル人の大元帝国以外は、断続的に海禁(領民が私的に海外渡航したり海外貿易をしたりするのを規制する)をしてきた国です。

海をずっと忌避してきた国が急に海に出る野望を抱いたものだから、その世界戦略は空想や妄想だらけで迷走するばかりです。 

*先般、テレビ朝日の報道ステーションを観ていた時、あのいかにも二流の、朝日新聞を読んで育ち、受験勉強がちょっとだけできたけど、実社会で働く胆力と気力はなく、大学教授となって国民の税金で飯を食いながら、テレビに出演しては、結構毛だらけな出演料を頂いています、の典型である中島が、実に呆れた解説をした場面を、私は即座に思いだした。

この男(と言うよりも、もはや愚かな若造と言うべきだろう)は、地図を逆さまにして南シナ海を中国側から見れば、海に接している面積は中国の方が圧倒的に広い、などという、信じがたいコメントを発していたのである。これに例によって古館はうなずいていたのだが、一体、この放送局は、どこの国の放送局なのだと呆れ果てた、慧眼の士は少なくなかったはずだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この事が一体、何なのかについて、一昨日、ご紹介した石平さん以上の解説をしてくれた新聞記事はない

2016年11月19日 15時02分51秒 | 日記

一般的に「国家安全」とは「外部からの軍事的脅威に対する国家の安全」という意味合いで

2015-10-23 

先日、中国で今年4人目の日本人がスパイ容疑で拘束されているというニュースについて書いた。

この事が一体、何なのかについて、一昨日、ご紹介した石平さん以上の解説をしてくれた新聞記事はない。

10月22日付の産経新聞、石平のChina Watchとして定期掲載されているコーナーからである。

題字以外の黒字強調は私。

「スパイ容疑」の疑心暗鬼

今月11日、日本人女性が「スパイ」の疑いで、中国上海で拘束されていることが新たに分かった。

今年、中国で同じ容疑で拘束されたり、逮捕されたりした日本人の数はこれで4人となった。

かけられた「スパイ容疑」はそれぞれだが、問題はむしろ、今年に入って日本人への「スパイ狩り」が急速に増えた背後に何があったのか、である。 

理由の一つは、昨年11月に中国で「反スパイ法」が成立したことがあろう。 

同法のスパイ行為の定義を定めた38条に「(5)その他のスパイ活動を行うこと」があるが、問題はまさにこれだ。

この場合の「その他」はまったく無制限なもので、いかなる拡大解釈も許してしまう危険な条文だからである。

つまり、中国政府当局が「それがスパイ行為だ」と判定さえすれば、どんなことでも「スパイ行為」だと見なされる可能性がある。 

このようないいかげんな「反スパイ法」が出来上がった背景には、習近平国家主席が昨年4月あたりから唱え始めた「総体的国家安全観」というものがある。 

昨年4月15日に新設された中国中央国家安全委員会の初会議で、委員会のトップにおさまった習主席は「重要講話」を行い、「総体的国家安全観」という耳新しい概念を持ち出した。 

一般的に「国家安全」とは「外部からの軍事的脅威に対する国家の安全」という意味合いで理解されることが多いが、習主席のいう「総体的国家安全」はそれとは異なる。

この稿続く。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

われわれが再び見せつけられるのは、村人と阿Qの心の中に深く根付いている「情けないほどの卑怯さ」と

2016年11月19日 15時00分05秒 | 日記

つまり魯迅から見れば卑怯にして残忍なのは、一部の特別な中国人だけではないということだ。

2015-10-20 

以下は、私が何度か言及してきた優れた月刊誌であるVOICEの今月号、前章でご紹介した石平さんの、大論文の最終回からである。

前章で言及したように、私はこれをサンフランシスコ市の議員たちに贈る。

前文略

返す刀で、何の抵抗力もない一人の若い尼さんを徹底的に侮辱する。そうすることで自分自身の受けた屈辱を忘れて良い気分になるのである。 

そして「酒屋の連中」も、阿Qが弱い者を虐める光景を楽しみ、笑い声をもってそれを奨励する。こうしたなかで「手柄を賞賛された」阿Qはよりいっそう意気高揚して、弱い者虐めに励む。  

結果的には、この村社会で一番弱い立場の尼さんの「半泣き」と引き換えに、村人と阿Qはそれぞれ「九分」と「十分」の満足感を味わって愉快になったのである。 

「孔乙己」で見られたような「人が人を喰う」場面が、ここでも繰り広げられている。

われわれが再び見せつけられるのは、村人と阿Qの心の中に深く根付いている「情けないほどの卑怯さ」と、「恐ろしいほどの残忍さ」である。 

中国人が自己認識を深めた「重要なる他者」とは 
魯迅が「孔乙己」や「阿Q正伝」において「卑怯にして残忍な人間精神」の持ち主として描いたのは、「社会の異端」としてのごろつきや一部の権力者ではなく、普通の労働者や村人であった点はとくに注目すべきであろう。

つまり魯迅から見れば卑怯にして残忍なのは、一部の特別な中国人だけではないということだ。

中国の一般民衆、すなわち中国国民の精神構造の深いところに巣食う、中国人の国民性そのものなのである。

この稿続く。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

だがサンフランシスコ議会の態様や、マグロウヒル社の教科書の記述は、そんなレベルで済まされる話ではない

2016年11月19日 14時57分44秒 | 日記

サンフランシスコの議会関係者には、普通の人間なら誰でも持っている見識や、想像力すらも

2015-10-20 

米国人はいい意味でも悪い意味でも大雑把である。そこは中国人と似ている、と、中国では有名な大学教授を父に持ち、日本の同志社大学を卒業して、日本で就職して働いている人間が、私に言った事を思い出す。

だがサンフランシスコ議会の態様や、マグロウヒル社の教科書の記述は、そんなレベルで済まされる話ではない。

米国の知性のレベル、米国の公正さ、もっと言えば、米国の民主主義の真正さが問われている事態である。

サンフランシスコの議会関係者には、普通の人間なら誰でも持っている見識や、想像力すらもないのだろうか。

20世紀は戦争の世紀だった。黄色人種として初めて列強の中の大国だったロシアを打ち破り、列強の仲間入りした日本を、米国は快く思っていなかった。

何故なら、列強の中では遅れて、中国に権益を拡大したかった米国と、植民地化されていたアジアを解放しようという日本の動きは、衝突することが必然だった。

時は石油の時代の戦争の世紀。米英は、資源のない国である日本に対して、最終的に石油の禁輸を開始した。

つまり日本を経済的に封鎖したのである。

これに対して、鬼畜米英、即刻、これを打つべし、戦争を開始せよと、猛烈に世論を煽り、

当時、圧倒的に世界一の富裕な国だった米国を相手にすることの無謀を知っていた軍部の優秀者たちでも、もはや、後戻りできな状況に追い込んだのが、今、あなたたちが、その新聞(今は左翼やくざのような新聞である)を日本の良心だなどと勘違いしている朝日新聞である。、

あなたたちのGHQに洗脳された思想に、左翼の思想と、似非モラリズムが、ぐちゃぐちゃに混ざって、もはや幼稚園児以下のレベルの低能に在ると言っても全く過言ではない新聞社である。

彼らは、日本国と日本政府を攻撃する格好の題材だとして、嘘をつくために生まれて来たような男の話に飛びついて、この従軍慰安婦という嘘を作り出した。

何回かの大スクープ記事扱いを含めて、16回も掲載して世界に発信したのである。

そのほかにも南京大虐殺30万人などを筆頭にした、数々の嘘を作って来た。

GHQの占領政策が完璧に成功した結果として、元軍人を名乗る人間たちが、吉田清治と同様の嘘を語りだしたのである。

朝日新聞が格好の日本国と日本政府に対する攻撃材料だとして、喜んで飛びついてくることを知っていたからである。

だが、あなたたちには知識も想像力もないのだろうか?

米国の占領軍が、ごくわずかな短期間の間に、膨大な性犯罪を冒し続けていたことを。

史上最高級の独裁者でもあったマッカーサーが、握りつぶして、公表させなかっただけで。

先日の読者欄には、ノルマンディー作戦は、同時に、米兵のフランス女性凌辱の歴史でもあったことを、フランスの専門学者が書いた本の書評があった。

それらのことをさておいても、

如何に、世界最高に規律がとれて、強かった日本軍であっても、軍需物資の全てが途絶えてしまっては、どうにもならず、誰の目にも敗戦は明らかだった戦争末期に、

サンフランシスコの議会関係者よ、

あなたの国は、日本全国の127都市に対して、人道に反する攻撃である無差別爆撃を行ったのである。

この攻撃で、ごくわずかな短期間に約300万人の人間が殺された。

その大半は言うまでもなく非戦闘員。

つまり、女、子供、老人だったのである。

それだけではなく、これまた人道に反する兵器である焼夷弾を用いて、127都市を、焼け野原としたのである。

それでも飽き足らず、あなたの国は、広島と長崎に原爆を落として、この美しい都市を、一瞬の内に、地獄とした。

わたしたちは、貴方たちに何の文句も言わずに、戦後70年を送って来た。

それだけではなく、私も含めて、あなたの国を最も愛して来た国と言っても全く過言ではない。

中国や韓国は、明瞭な嘘を拵え、或は、朝日新聞の嘘に飛びついて、執拗に、世界のいたるところで、日本を誹謗中傷、賠償金を払えとまで言っている。

私たちが、彼らと同様の国民だったら、あなたの国はどうなる?

存続すらできないのではないか。

考えてもみたまえ、

あなたの国が、これ以上、低能と無礼を振り回すのならば、私たちは、上記の2件について、世界に向かって東京裁判を招集しなければないらないだろう。

その結果がもたらすものは、先年のトヨタに対するデタラメと、嘘に拠るバッシングで、トヨタからせしめた賠償金などの額では、到底、収まらず、あなたの国を破産させ、あなたの国が永久に浮かび上がる事はない、人類史上最大級の、人類に対する罪に対する断罪と、損害賠償請求が行われることになるだろう。

あなたたちが全く知らない中国人と日本人の違いについて、北京大学の哲学科を出て、日本の神戸大学で学び、日本に帰化して28年、中国の本当のエリートだった、石平さんが、月刊誌VOICEに連載していた大論文、日本に「近代」を学んだ中国人、の最終回からの、彼の見事な論説を、サンフランシスコの議会の議員たちのために、次章にて、紹介する。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

En plus d'être allergique dans l'histoire des affaires militaires et ainsi de suite,

2016年11月19日 12時37分39秒 | 日記

Ce qui suit est la suite du chapitre précédent.

En passant, c'est la discussion qui est contenue dans la diplomatie, mais même pour cela, le Japon n'est pas bon.

En plus d'être allergique dans l'histoire des affaires militaires et ainsi de suite, les Japonais sont faibles à la négociation chose, aussi.

À l'origine, celui de la négociation est par les bases en étant de base dans la prise de négociations à partir de là, montrant environ 10-15 premiers ouvertement et carrément comme un pays à l'autre endroit si la demande de son propre pays est de 10.

Il ressemble à ce que l'expert dit parfois le premier prix élevé à négocier avec la facture de valeur lorsque les pays asiatiques et Osaka et ainsi de suite sont exactement achetés à.

Cependant, dans cette première étape, la plupart des Japonais sont entrés dans les négociations d'environ 5 en plus de 10 par retenir et timide sur.

Bien sûr, le point de départ qui est gagné dans la négociation qui a commencé avec 5 est devenu 2 ou 3 au plus.

L'être japonais ne doit pas être trop gourmand et ainsi de suite, négligemment en cas de sentiment, il pense qu'il négocie étroitement à 5 - 5 est une attitude d'adulte et ainsi de suite, en disant que le partenaire, aussi, concéder un peu Si cela concède plus tôt? Et ainsi de suite, il tend à avoir pensé optimiste.

Quant à la compétence japonaise de négociation qui est courante seulement parmi ces Japonais, le monde n'est pas moyen.

Cet article continue.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Oltre alla presenza di una allergia nella storia degli affari militari e così via,

2016年11月19日 12時37分09秒 | 日記

Quanto segue è il sequel del capitolo precedente.

Tra l'altro, è la discussione che è contenuto nella diplomazia, ma anche per questa, Giappone non è buona.

Oltre alla presenza di una allergia nella storia degli affari militari e così via, i giapponesi sono deboli la cosa trattativa, anche.

In origine, l'uno di cosa negoziazione è dalle basi in essere di base di avviare i negoziati da lì, che mostra circa 10 - 15 prima apertamente e ad angolo retto come un paese in qualche altro posto se la richiesta del proprio paese è 10.

Assomiglia che l'esperto a volte dice il primo alto prezzo da negoziare con il disegno di legge del valore, quando i paesi asiatici e Osaka e così via sono esattamente guardati al.

Tuttavia, in questa prima fase, la maggior parte dei giapponesi hanno concluso negoziati da circa 5 oltre al 10 per trattenere e evitano così via.

Naturalmente, il venire a patti punto che viene vinto nella trattativa che ha avuto inizio con 5 è diventato 2 o 3 al massimo.

I giapponesi essendo essa non deve essere troppo avidi e così via, con noncuranza in caso di sentimento, si pensa che si sta negoziando da vicino 5-5 è un atteggiamento adulto e così via, inoltre, detto fa il partner, anche, concedere un po ' se questo concede prima? e così via, si tende ad avere pensato di optimist.

Per quanto riguarda l'abilità di negoziazione giapponese che è in corso solo tra tali giapponese, il mondo non è nella media.

Questo articolo continua.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Además de que hay alergia en la historia de los asuntos militares y así sucesivamente,

2016年11月19日 12時36分38秒 | 日記

Lo que sigue es la secuela del capítulo anterior.

Por cierto, es la discusión que está contenida en la diplomacia, pero incluso en cuanto a esto, Japón no es bueno.

Además de que hay alergia en la historia de los asuntos militares y así sucesivamente, los japoneses son débiles en la negociación, también.

Originalmente, el de negociación es por lo básico en ser básico en entrar en las negociaciones desde allí, mostrando alrededor de 10-15 primeramente abierto y cuadrado como un país en el otro lugar si la solicitud de su propio país es de 10.

Se asemeja a que el experto a veces dice que el primer precio alto a ser negociado con la factura de valor cuando los países asiáticos y Osaka y así sucesivamente se compran exactamente en.

Sin embargo, en este primer paso, la mayoría de los japoneses han entrado en las negociaciones de alrededor de 5, además de 10 por retener y tímido sobre.

Por supuesto, el punto de llegar a los términos que se gana en la negociación que comenzó con 5 se ha convertido en 2 o 3 como máximo.

El ser japonés no debe ser demasiado codicioso y así sucesivamente, descuidadamente en caso de sentimiento, piensa que se está negociando de cerca a 5 - 5 es una actitud de adulto y así sucesivamente, diciendo que el socio, también, conceder un poco Si esto concede antes? Y así sucesivamente, tiende a haber pensado en optimista.

En cuanto a la habilidad de negociación japonesa que es actual sólo entre los japoneses, el mundo no es promedio.

Este artículo continúa.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Neben Allergie in der Geschichte der militärischen Angelegenheiten und so weiter,

2016年11月19日 12時36分08秒 | 日記

Das Folgende ist die Fortsetzung des vorhergehenden Kapitels.

Übrigens ist es die Diskussion, die in der Diplomatie enthalten ist, aber auch da ist Japan nicht gut.

Neben der Allergie in der Geschichte der militärischen Angelegenheiten und so weiter, sind die Japaner auch bei der Verhandlungssache schwach.

Ursprünglich war das Verhandlungssache, dass es grundlegend war, von dort aus in die Verhandlungen einzutreten, und zeigte etwa 10 - 15 zuerst offen und quasi wie ein Land an einem anderen Ort, wenn der Antrag des eigenen Landes 10 ist.

Es ähnelt, dass der Experte manchmal sagt der erste Preis hoch, um mit der Wertrechnung verhandelt werden, wenn die asiatischen Länder und Osaka und so weiter genau eingekauft werden.

Doch in diesem ersten Schritt haben die meisten Japaner in die Verhandlungen von etwa 5 zusätzlich zu 10 durch Verweigerung und schüchtern so weiter.

Natürlich, die kommenden Begriffe Punkt, der in der Verhandlung, die mit 5 begann gewonnen hat, werden 2 oder 3 höchstens.

Das japanische Wesen sollte es nicht zu gierig sein und so weiter, nachlässig im Falle des Gefühls, es denkt, dass es bei 5 - 5 ist eine erwachsene Haltung verhandeln und so weiter, darüber hinaus sagt der Partner, auch ein wenig zugeben Wenn dies früher einräumt? Und so weiter, neigt es, Optimisten zu denken.

Was das japanische Verhandlungsgeschick betrifft, das nur unter solchen Japanern gegenwärtig ist, ist die Welt nicht durchschnittlich.

Dieser Artikel geht weiter.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Além de haver alergia na história dos assuntos militares e assim por diante,

2016年11月19日 12時35分37秒 | 日記

O seguinte é a sequela do capítulo precedente.

A propósito, é a discussão que está contida na diplomacia, mas mesmo assim, o Japão não é bom.

Além de haver alergia na história dos assuntos militares e assim por diante, os japoneses são fracos na negociação coisa, também.

Originalmente, o de negociação é pelo básico em ser básico em entrar nas negociações de lá, mostrando cerca de 10-15 primeiro abertamente e em quadrado como um país no outro lugar se o pedido de seu próprio país é 10.

Assemelha-se que o perito diz às vezes que o primeiro preço elevado a ser negociado com pelo valor conta quando os países asiáticos e Osaka e assim por diante são comprados exatamente em.

No entanto, neste primeiro passo, a maioria dos japoneses entraram em negociações de cerca de 5, além de 10 por reter e tímido em.

Naturalmente, o ponto de vinda aos termos que é ganhado na negociação que começou com 5 tornou-se 2 ou 3 no máximo.

O japonês que está não deve ser demasiado ganancioso e assim por diante, negligentemente em caso de sentimento, pensa que está negociando pròxima em 5 - 5 é uma atitude do adulto e assim por diante, além disso, dizendo que o sócio, também, concede um pouco Se isso concede mais cedo? E assim por diante, tende a ter pensado em otimista.

Quanto à habilidade de negociação japonesa que é atual apenas entre tais japoneses, o mundo não é média.

Este artigo continua.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする