文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

言論の信用毀損について、同じく国の機関にすべきか、政権と完全に切り離された機関において中立性を確保すべきかは

2018年04月20日 13時15分44秒 | 日記

以下は前章の続きである。

統計調査機関が必要 

むろん、言論は車に較べても、責務を明確にするのが難しい。

「事実」と「捏造」を法的制裁で切り分けるのは、「爆発する車」を禁じるのとは較ぶべくもない難事だ。 

だからこそ、言論においては自責、自制、自浄の良識と高潔さが求められ、市場の「信用」という原理による淘汰が本来はふさわしいのである。 

だが、マスコミに良識と自浄を期待できない以上、「見出し」「事実報道」「印象操作」「繰り返しによる輿論誘導」などについて、まず、国民的負託を受けた客観的な統計調査機関を立ち上げるなどして、現状の統計的把握、問題点の把握と国民への周知が急務だ。 

マスコミの正常化を非力な民間ではできない。

言論と並び、信用毀損が社会に致命傷を与える金融に関しては、自由主義市場であるにもかかわらず、金融庁の厳しい監督がある。 

言論の信用毀損について、同じく国の機関にすべきか、政権と完全に切り離された機関において中立性を確保すべきかは議論の余地があるが、日本の現状では監督機関の設置は不可欠だ。 

安倍政権は、逆に放送の政治的中立や事実に則って報道するなどを定めた放送法四条の撤廃と電波の自由化を提唱しているが、私は無原則なままの自由化には反対である。

こうしたメディアの自由競争化は先進国規準だが、日本のメディアや有識者は、残念ながら後進国水準であり、自由に伴う責務、自由を守るための戦いを全く理解していない。

自由競争の原理を導入すれば、中国、北朝鮮、ロシアをはじめ、あらゆる工作意図によって、日本のメディア状況は壊滅的な混乱を呈するに違いない。 

日本が輝ける文明から後進国へと急激に後退してしまったことを自覚し、受け入れるところからしか、言論の自由の再建は不可能だというのが、一年二ヵ月の愚劣な騒動を止め得なかった非力な一言論人としての、私の率直な結論である。 

森友・加計騒動からそれを学ばないなら、日本の「自由」に本当に明日はない。


国民的負託を受けた客観的な統計調査機関を立ち上げるなどして、現状の統計的把握、問題点の把握と国民への周知が急務だ

2018年04月20日 13時14分32秒 | 日記

以下は前章の続きである。

統計調査機関が必要 

むろん、言論は車に較べても、責務を明確にするのが難しい。

「事実」と「捏造」を法的制裁で切り分けるのは、「爆発する車」を禁じるのとは較ぶべくもない難事だ。 

だからこそ、言論においては自責、自制、自浄の良識と高潔さが求められ、市場の「信用」という原理による淘汰が本来はふさわしいのである。 

だが、マスコミに良識と自浄を期待できない以上、「見出し」「事実報道」「印象操作」「繰り返しによる輿論誘導」などについて、まず、国民的負託を受けた客観的な統計調査機関を立ち上げるなどして、現状の統計的把握、問題点の把握と国民への周知が急務だ。 

マスコミの正常化を非力な民間ではできない。

言論と並び、信用毀損が社会に致命傷を与える金融に関しては、自由主義市場であるにもかかわらず、金融庁の厳しい監督がある。 

言論の信用毀損について、同じく国の機関にすべきか、政権と完全に切り離された機関において中立性を確保すべきかは議論の余地があるが、日本の現状では監督機関の設置は不可欠だ。 

安倍政権は、逆に放送の政治的中立や事実に則って報道するなどを定めた放送法四条の撤廃と電波の自由化を提唱しているが、私は無原則なままの自由化には反対である。

こうしたメディアの自由競争化は先進国規準だが、日本のメディアや有識者は、残念ながら後進国水準であり、自由に伴う責務、自由を守るための戦いを全く理解していない。

自由競争の原理を導入すれば、中国、北朝鮮、ロシアをはじめ、あらゆる工作意図によって、日本のメディア状況は壊滅的な混乱を呈するに違いない。 

日本が輝ける文明から後進国へと急激に後退してしまったことを自覚し、受け入れるところからしか、言論の自由の再建は不可能だというのが、一年二ヵ月の愚劣な騒動を止め得なかった非力な一言論人としての、私の率直な結論である。 

森友・加計騒動からそれを学ばないなら、日本の「自由」に本当に明日はない。


だが、マスコミに良識と自浄を期待できない以上、「見出し」「事実報道」「印象操作」「繰り返しによる輿論誘導」などについて、まず

2018年04月20日 13時13分41秒 | 日記

以下は前章の続きである。

統計調査機関が必要 

むろん、言論は車に較べても、責務を明確にするのが難しい。

「事実」と「捏造」を法的制裁で切り分けるのは、「爆発する車」を禁じるのとは較ぶべくもない難事だ。 

だからこそ、言論においては自責、自制、自浄の良識と高潔さが求められ、市場の「信用」という原理による淘汰が本来はふさわしいのである。 

だが、マスコミに良識と自浄を期待できない以上、「見出し」「事実報道」「印象操作」「繰り返しによる輿論誘導」などについて、まず、国民的負託を受けた客観的な統計調査機関を立ち上げるなどして、現状の統計的把握、問題点の把握と国民への周知が急務だ。 

マスコミの正常化を非力な民間ではできない。

言論と並び、信用毀損が社会に致命傷を与える金融に関しては、自由主義市場であるにもかかわらず、金融庁の厳しい監督がある。 

言論の信用毀損について、同じく国の機関にすべきか、政権と完全に切り離された機関において中立性を確保すべきかは議論の余地があるが、日本の現状では監督機関の設置は不可欠だ。 

安倍政権は、逆に放送の政治的中立や事実に則って報道するなどを定めた放送法四条の撤廃と電波の自由化を提唱しているが、私は無原則なままの自由化には反対である。

こうしたメディアの自由競争化は先進国規準だが、日本のメディアや有識者は、残念ながら後進国水準であり、自由に伴う責務、自由を守るための戦いを全く理解していない。

自由競争の原理を導入すれば、中国、北朝鮮、ロシアをはじめ、あらゆる工作意図によって、日本のメディア状況は壊滅的な混乱を呈するに違いない。 

日本が輝ける文明から後進国へと急激に後退してしまったことを自覚し、受け入れるところからしか、言論の自由の再建は不可能だというのが、一年二ヵ月の愚劣な騒動を止め得なかった非力な一言論人としての、私の率直な結論である。 

森友・加計騒動からそれを学ばないなら、日本の「自由」に本当に明日はない。


言論と並び、信用毀損が社会に致命傷を与える金融に関しては、自由主義市場であるにもかかわらず、金融庁の厳しい監督がある

2018年04月20日 13時11分35秒 | 日記

以下は前章の続きである。

統計調査機関が必要 

むろん、言論は車に較べても、責務を明確にするのが難しい。

「事実」と「捏造」を法的制裁で切り分けるのは、「爆発する車」を禁じるのとは較ぶべくもない難事だ。 

だからこそ、言論においては自責、自制、自浄の良識と高潔さが求められ、市場の「信用」という原理による淘汰が本来はふさわしいのである。 

だが、マスコミに良識と自浄を期待できない以上、「見出し」「事実報道」「印象操作」「繰り返しによる輿論誘導」などについて、まず、国民的負託を受けた客観的な統計調査機関を立ち上げるなどして、現状の統計的把握、問題点の把握と国民への周知が急務だ。 

マスコミの正常化を非力な民間ではできない。

言論と並び、信用毀損が社会に致命傷を与える金融に関しては、自由主義市場であるにもかかわらず、金融庁の厳しい監督がある。 

言論の信用毀損について、同じく国の機関にすべきか、政権と完全に切り離された機関において中立性を確保すべきかは議論の余地があるが、日本の現状では監督機関の設置は不可欠だ。 

安倍政権は、逆に放送の政治的中立や事実に則って報道するなどを定めた放送法四条の撤廃と電波の自由化を提唱しているが、私は無原則なままの自由化には反対である。

こうしたメディアの自由競争化は先進国規準だが、日本のメディアや有識者は、残念ながら後進国水準であり、自由に伴う責務、自由を守るための戦いを全く理解していない。

自由競争の原理を導入すれば、中国、北朝鮮、ロシアをはじめ、あらゆる工作意図によって、日本のメディア状況は壊滅的な混乱を呈するに違いない。 

日本が輝ける文明から後進国へと急激に後退してしまったことを自覚し、受け入れるところからしか、言論の自由の再建は不可能だというのが、一年二ヵ月の愚劣な騒動を止め得なかった非力な一言論人としての、私の率直な結論である。 

森友・加計騒動からそれを学ばないなら、日本の「自由」に本当に明日はない。


だからこそ、言論においては自責、自制、自浄の良識と高潔さが求められ、市場の「信用」という原理による淘汰が本来は

2018年04月20日 13時09分37秒 | 日記

以下は前章の続きである。

統計調査機関が必要 

むろん、言論は車に較べても、責務を明確にするのが難しい。

「事実」と「捏造」を法的制裁で切り分けるのは、「爆発する車」を禁じるのとは較ぶべくもない難事だ。 

だからこそ、言論においては自責、自制、自浄の良識と高潔さが求められ、市場の「信用」という原理による淘汰が本来はふさわしいのである。 

だが、マスコミに良識と自浄を期待できない以上、「見出し」「事実報道」「印象操作」「繰り返しによる輿論誘導」などについて、まず、国民的負託を受けた客観的な統計調査機関を立ち上げるなどして、現状の統計的把握、問題点の把握と国民への周知が急務だ。 

マスコミの正常化を非力な民間ではできない。

言論と並び、信用毀損が社会に致命傷を与える金融に関しては、自由主義市場であるにもかかわらず、金融庁の厳しい監督がある。 

言論の信用毀損について、同じく国の機関にすべきか、政権と完全に切り離された機関において中立性を確保すべきかは議論の余地があるが、日本の現状では監督機関の設置は不可欠だ。 

安倍政権は、逆に放送の政治的中立や事実に則って報道するなどを定めた放送法四条の撤廃と電波の自由化を提唱しているが、私は無原則なままの自由化には反対である。

こうしたメディアの自由競争化は先進国規準だが、日本のメディアや有識者は、残念ながら後進国水準であり、自由に伴う責務、自由を守るための戦いを全く理解していない。

自由競争の原理を導入すれば、中国、北朝鮮、ロシアをはじめ、あらゆる工作意図によって、日本のメディア状況は壊滅的な混乱を呈するに違いない。 

日本が輝ける文明から後進国へと急激に後退してしまったことを自覚し、受け入れるところからしか、言論の自由の再建は不可能だというのが、一年二ヵ月の愚劣な騒動を止め得なかった非力な一言論人としての、私の率直な結論である。 

森友・加計騒動からそれを学ばないなら、日本の「自由」に本当に明日はない。


「事実」と「捏造」を法的制裁で切り分けるのは、「爆発する車」を禁じるのとは較ぶべくもない難事だ。 

2018年04月20日 13時07分35秒 | 日記

以下は前章の続きである。

統計調査機関が必要 

むろん、言論は車に較べても、責務を明確にするのが難しい。

「事実」と「捏造」を法的制裁で切り分けるのは、「爆発する車」を禁じるのとは較ぶべくもない難事だ。 

だからこそ、言論においては自責、自制、自浄の良識と高潔さが求められ、市場の「信用」という原理による淘汰が本来はふさわしいのである。 

だが、マスコミに良識と自浄を期待できない以上、「見出し」「事実報道」「印象操作」「繰り返しによる輿論誘導」などについて、まず、国民的負託を受けた客観的な統計調査機関を立ち上げるなどして、現状の統計的把握、問題点の把握と国民への周知が急務だ。 

マスコミの正常化を非力な民間ではできない。

言論と並び、信用毀損が社会に致命傷を与える金融に関しては、自由主義市場であるにもかかわらず、金融庁の厳しい監督がある。 

言論の信用毀損について、同じく国の機関にすべきか、政権と完全に切り離された機関において中立性を確保すべきかは議論の余地があるが、日本の現状では監督機関の設置は不可欠だ。 

安倍政権は、逆に放送の政治的中立や事実に則って報道するなどを定めた放送法四条の撤廃と電波の自由化を提唱しているが、私は無原則なままの自由化には反対である。

こうしたメディアの自由競争化は先進国規準だが、日本のメディアや有識者は、残念ながら後進国水準であり、自由に伴う責務、自由を守るための戦いを全く理解していない。

自由競争の原理を導入すれば、中国、北朝鮮、ロシアをはじめ、あらゆる工作意図によって、日本のメディア状況は壊滅的な混乱を呈するに違いない。 

日本が輝ける文明から後進国へと急激に後退してしまったことを自覚し、受け入れるところからしか、言論の自由の再建は不可能だというのが、一年二ヵ月の愚劣な騒動を止め得なかった非力な一言論人としての、私の率直な結論である。 

森友・加計騒動からそれを学ばないなら、日本の「自由」に本当に明日はない。


理屈上、他の手段がないのだから、言論の自由を守るために、このマイクを独占している嘘つきと戦う以外、私たち日本人には、いま、道はない。

2018年04月20日 12時42分06秒 | 日記

以下は前章の続きである。

「事実」と「意見」 

だから、あえて私は言う、マスコミには言論の自由はない、「社会正義の実現」という目標を達成する責務―職責があるだけだ、と。 

では、マスコミの責務とは何か。 

マスコミとは、様々な「事実」と「意見」を載せる媒体である。 

「媒体」としてそこに載せる「事実」と「意見」の妥当性に対する責任の所在を明確にし、妥当性がなければ社会的な断罪を甘んじて受ける良心と制度を担保することこそが、マスコミの責務に他ならない。

「事実」が妥当なバランスと質量で伝達され、「意見」の多様性と専門性を確保し、充分に発言の機会を与えているか否かが、責務の基本である。 

トヨタや日産には車を製造する自由があり、売る自由がある。

様々な車のデザインを創り出す自由がある。

販売代理店を日本で展開する自由がある。

しかし、運転すると爆発する車を作る自由はない。

ハンドルが回らない車を作る自由もない。

言うまでもないことである。 

我々の人間社会は、わざわざ言語化したり、ましてや法律にしない様々な無数の常識―共通了解―で成り立っている。

「運転すると爆発する車」をトヨタや日産が作らないのは、法規制があるからではない。

車は乗っている人を爆殺する道具ではなく、速やかに移動するための道具である。

ハンドルはオブジェではなく、車の方向を変える道具である。

だからそんなことを問題にもせず、契約書にも法律にも書きこまない。 

日本人の常識では、大手マスコミが記事を捏造したり、極端な印象操作を繰り返して、国民を誤誘導するということは想定されていない。 

しかし、拙著『徹底検証「森友・加計事件」-朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪』で論証したように、政変レベルの「虚報」を主導した朝日他の主流マスコミは、恒常的に、しかも業界横断的に繰り返したのである。 

マスコミは嘘をつかないという常識が完全に裏切られていることを、国民に知らせるそのマイク自体を、彼らが占拠している。

マイクを嘘つき集団が独占してしまっている。

それならば、強制的にマイクを取り上げるか、嘘をやめさせるかしかない。

理屈上、他の手段がないのだから、言論の自由を守るために、このマイクを独占している嘘つきと戦う以外、私たち日本人には、いま、道はない。

この稿続く。


マスコミは嘘をつかないという常識が完全に裏切られていることを、国民に知らせるそのマイク自体を、彼らが占拠している

2018年04月20日 12時40分49秒 | 日記

以下は前章の続きである。

「事実」と「意見」 

だから、あえて私は言う、マスコミには言論の自由はない、「社会正義の実現」という目標を達成する責務―職責があるだけだ、と。 

では、マスコミの責務とは何か。 

マスコミとは、様々な「事実」と「意見」を載せる媒体である。 

「媒体」としてそこに載せる「事実」と「意見」の妥当性に対する責任の所在を明確にし、妥当性がなければ社会的な断罪を甘んじて受ける良心と制度を担保することこそが、マスコミの責務に他ならない。

「事実」が妥当なバランスと質量で伝達され、「意見」の多様性と専門性を確保し、充分に発言の機会を与えているか否かが、責務の基本である。 

トヨタや日産には車を製造する自由があり、売る自由がある。

様々な車のデザインを創り出す自由がある。

販売代理店を日本で展開する自由がある。

しかし、運転すると爆発する車を作る自由はない。

ハンドルが回らない車を作る自由もない。

言うまでもないことである。 

我々の人間社会は、わざわざ言語化したり、ましてや法律にしない様々な無数の常識―共通了解―で成り立っている。

「運転すると爆発する車」をトヨタや日産が作らないのは、法規制があるからではない。

車は乗っている人を爆殺する道具ではなく、速やかに移動するための道具である。

ハンドルはオブジェではなく、車の方向を変える道具である。

だからそんなことを問題にもせず、契約書にも法律にも書きこまない。 

日本人の常識では、大手マスコミが記事を捏造したり、極端な印象操作を繰り返して、国民を誤誘導するということは想定されていない。 

しかし、拙著『徹底検証「森友・加計事件」-朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪』で論証したように、政変レベルの「虚報」を主導した朝日他の主流マスコミは、恒常的に、しかも業界横断的に繰り返したのである。 

マスコミは嘘をつかないという常識が完全に裏切られていることを、国民に知らせるそのマイク自体を、彼らが占拠している。

マイクを嘘つき集団が独占してしまっている。

それならば、強制的にマイクを取り上げるか、嘘をやめさせるかしかない。

理屈上、他の手段がないのだから、言論の自由を守るために、このマイクを独占している嘘つきと戦う以外、私たち日本人には、いま、道はない。

この稿続く。


日本人の常識では、大手マスコミが記事を捏造したり、極端な印象操作を繰り返して、国民を誤誘導するということは想定されていない

2018年04月20日 12時39分42秒 | 日記

以下は前章の続きである。

「事実」と「意見」 

だから、あえて私は言う、マスコミには言論の自由はない、「社会正義の実現」という目標を達成する責務―職責があるだけだ、と。 

では、マスコミの責務とは何か。 

マスコミとは、様々な「事実」と「意見」を載せる媒体である。 

「媒体」としてそこに載せる「事実」と「意見」の妥当性に対する責任の所在を明確にし、妥当性がなければ社会的な断罪を甘んじて受ける良心と制度を担保することこそが、マスコミの責務に他ならない。

「事実」が妥当なバランスと質量で伝達され、「意見」の多様性と専門性を確保し、充分に発言の機会を与えているか否かが、責務の基本である。 

トヨタや日産には車を製造する自由があり、売る自由がある。

様々な車のデザインを創り出す自由がある。

販売代理店を日本で展開する自由がある。

しかし、運転すると爆発する車を作る自由はない。

ハンドルが回らない車を作る自由もない。

言うまでもないことである。 

我々の人間社会は、わざわざ言語化したり、ましてや法律にしない様々な無数の常識―共通了解―で成り立っている。

「運転すると爆発する車」をトヨタや日産が作らないのは、法規制があるからではない。

車は乗っている人を爆殺する道具ではなく、速やかに移動するための道具である。

ハンドルはオブジェではなく、車の方向を変える道具である。

だからそんなことを問題にもせず、契約書にも法律にも書きこまない。 

日本人の常識では、大手マスコミが記事を捏造したり、極端な印象操作を繰り返して、国民を誤誘導するということは想定されていない。 

しかし、拙著『徹底検証「森友・加計事件」-朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪』で論証したように、政変レベルの「虚報」を主導した朝日他の主流マスコミは、恒常的に、しかも業界横断的に繰り返したのである。 

マスコミは嘘をつかないという常識が完全に裏切られていることを、国民に知らせるそのマイク自体を、彼らが占拠している。

マイクを嘘つき集団が独占してしまっている。

それならば、強制的にマイクを取り上げるか、嘘をやめさせるかしかない。

理屈上、他の手段がないのだから、言論の自由を守るために、このマイクを独占している嘘つきと戦う以外、私たち日本人には、いま、道はない。

この稿続く。


政変レベルの「虚報」を主導した朝日他の主流マスコミは、恒常的に、しかも業界横断的に繰り返したのである

2018年04月20日 12時38分07秒 | 日記

以下は前章の続きである。

「事実」と「意見」 

だから、あえて私は言う、マスコミには言論の自由はない、「社会正義の実現」という目標を達成する責務―職責があるだけだ、と。 

では、マスコミの責務とは何か。 

マスコミとは、様々な「事実」と「意見」を載せる媒体である。 

「媒体」としてそこに載せる「事実」と「意見」の妥当性に対する責任の所在を明確にし、妥当性がなければ社会的な断罪を甘んじて受ける良心と制度を担保することこそが、マスコミの責務に他ならない。

「事実」が妥当なバランスと質量で伝達され、「意見」の多様性と専門性を確保し、充分に発言の機会を与えているか否かが、責務の基本である。 

トヨタや日産には車を製造する自由があり、売る自由がある。

様々な車のデザインを創り出す自由がある。

販売代理店を日本で展開する自由がある。

しかし、運転すると爆発する車を作る自由はない。

ハンドルが回らない車を作る自由もない。

言うまでもないことである。 

我々の人間社会は、わざわざ言語化したり、ましてや法律にしない様々な無数の常識―共通了解―で成り立っている。

「運転すると爆発する車」をトヨタや日産が作らないのは、法規制があるからではない。

車は乗っている人を爆殺する道具ではなく、速やかに移動するための道具である。

ハンドルはオブジェではなく、車の方向を変える道具である。

だからそんなことを問題にもせず、契約書にも法律にも書きこまない。 

日本人の常識では、大手マスコミが記事を捏造したり、極端な印象操作を繰り返して、国民を誤誘導するということは想定されていない。 

しかし、拙著『徹底検証「森友・加計事件」-朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪』で論証したように、政変レベルの「虚報」を主導した朝日他の主流マスコミは、恒常的に、しかも業界横断的に繰り返したのである。 

マスコミは嘘をつかないという常識が完全に裏切られていることを、国民に知らせるそのマイク自体を、彼らが占拠している。

マイクを嘘つき集団が独占してしまっている。

それならば、強制的にマイクを取り上げるか、嘘をやめさせるかしかない。

理屈上、他の手段がないのだから、言論の自由を守るために、このマイクを独占している嘘つきと戦う以外、私たち日本人には、いま、道はない。

この稿続く。


「事実」が妥当なバランスと質量で伝達され、「意見」の多様性と専門性を確保し、充分に発言の機会を与えているか否かが、責務の基本

2018年04月20日 12時36分19秒 | 日記

以下は前章の続きである。

「事実」と「意見」 

だから、あえて私は言う、マスコミには言論の自由はない、「社会正義の実現」という目標を達成する責務―職責があるだけだ、と。 

では、マスコミの責務とは何か。 

マスコミとは、様々な「事実」と「意見」を載せる媒体である。 

「媒体」としてそこに載せる「事実」と「意見」の妥当性に対する責任の所在を明確にし、妥当性がなければ社会的な断罪を甘んじて受ける良心と制度を担保することこそが、マスコミの責務に他ならない。

「事実」が妥当なバランスと質量で伝達され、「意見」の多様性と専門性を確保し、充分に発言の機会を与えているか否かが、責務の基本である。 

トヨタや日産には車を製造する自由があり、売る自由がある。

様々な車のデザインを創り出す自由がある。

販売代理店を日本で展開する自由がある。

しかし、運転すると爆発する車を作る自由はない。

ハンドルが回らない車を作る自由もない。

言うまでもないことである。 

我々の人間社会は、わざわざ言語化したり、ましてや法律にしない様々な無数の常識―共通了解―で成り立っている。

「運転すると爆発する車」をトヨタや日産が作らないのは、法規制があるからではない。

車は乗っている人を爆殺する道具ではなく、速やかに移動するための道具である。

ハンドルはオブジェではなく、車の方向を変える道具である。

だからそんなことを問題にもせず、契約書にも法律にも書きこまない。 

日本人の常識では、大手マスコミが記事を捏造したり、極端な印象操作を繰り返して、国民を誤誘導するということは想定されていない。 しかし、拙著『徹底検証「森友・加計事件」-朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪』で論証したように、政変レベルの「虚報」を主導した朝日他の主流マスコミは、恒常的に、しかも業界横断的に繰り返したのである。 

マスコミは嘘をつかないという常識が完全に裏切られていることを、国民に知らせるそのマイク自体を、彼らが占拠している。

マイクを嘘つき集団が独占してしまっている。

それならば、強制的にマイクを取り上げるか、嘘をやめさせるかしかない。

理屈上、他の手段がないのだから、言論の自由を守るために、このマイクを独占している嘘つきと戦う以外、私たち日本人には、いま、道はない。

この稿続く。


妥当性がなければ社会的な断罪を甘んじて受ける良心と制度を担保することこそが、マスコミの責務に他ならない

2018年04月20日 12時34分41秒 | 日記

以下は前章の続きである。

「事実」と「意見」 

だから、あえて私は言う、マスコミには言論の自由はない、「社会正義の実現」という目標を達成する責務―職責があるだけだ、と。 

では、マスコミの責務とは何か。 

マスコミとは、様々な「事実」と「意見」を載せる媒体である。 

「媒体」としてそこに載せる「事実」と「意見」の妥当性に対する責任の所在を明確にし、妥当性がなければ社会的な断罪を甘んじて受ける良心と制度を担保することこそが、マスコミの責務に他ならない。

「事実」が妥当なバランスと質量で伝達され、「意見」の多様性と専門性を確保し、充分に発言の機会を与えているか否かが、責務の基本である。 

トヨタや日産には車を製造する自由があり、売る自由がある。

様々な車のデザインを創り出す自由がある。

販売代理店を日本で展開する自由がある。

しかし、運転すると爆発する車を作る自由はない。

ハンドルが回らない車を作る自由もない。

言うまでもないことである。 

我々の人間社会は、わざわざ言語化したり、ましてや法律にしない様々な無数の常識―共通了解―で成り立っている。

「運転すると爆発する車」をトヨタや日産が作らないのは、法規制があるからではない。

車は乗っている人を爆殺する道具ではなく、速やかに移動するための道具である。

ハンドルはオブジェではなく、車の方向を変える道具である。

だからそんなことを問題にもせず、契約書にも法律にも書きこまない。 

日本人の常識では、大手マスコミが記事を捏造したり、極端な印象操作を繰り返して、国民を誤誘導するということは想定されていない。 しかし、拙著『徹底検証「森友・加計事件」-朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪』で論証したように、政変レベルの「虚報」を主導した朝日他の主流マスコミは、恒常的に、しかも業界横断的に繰り返したのである。 

マスコミは嘘をつかないという常識が完全に裏切られていることを、国民に知らせるそのマイク自体を、彼らが占拠している。

マイクを嘘つき集団が独占してしまっている。

それならば、強制的にマイクを取り上げるか、嘘をやめさせるかしかない。

理屈上、他の手段がないのだから、言論の自由を守るために、このマイクを独占している嘘つきと戦う以外、私たち日本人には、いま、道はない。

この稿続く。


だから、あえて私は言う、マスコミには言論の自由はない、「社会正義の実現」という目標を達成する責務―職責があるだけだ、と。

2018年04月20日 12時33分06秒 | 日記

以下は前章の続きである。

「事実」と「意見」 

だから、あえて私は言う、マスコミには言論の自由はない、「社会正義の実現」という目標を達成する責務―職責があるだけだ、と。 

では、マスコミの責務とは何か。 

マスコミとは、様々な「事実」と「意見」を載せる媒体である。 

「媒体」としてそこに載せる「事実」と「意見」の妥当性に対する責任の所在を明確にし、妥当性がなければ社会的な断罪を甘んじて受ける良心と制度を担保することこそが、マスコミの責務に他ならない。

「事実」が妥当なバランスと質量で伝達され、「意見」の多様性と専門性を確保し、充分に発言の機会を与えているか否かが、責務の基本である。 

トヨタや日産には車を製造する自由があり、売る自由がある。

様々な車のデザインを創り出す自由がある。

販売代理店を日本で展開する自由がある。

しかし、運転すると爆発する車を作る自由はない。

ハンドルが回らない車を作る自由もない。

言うまでもないことである。 

我々の人間社会は、わざわざ言語化したり、ましてや法律にしない様々な無数の常識―共通了解―で成り立っている。

「運転すると爆発する車」をトヨタや日産が作らないのは、法規制があるからではない。

車は乗っている人を爆殺する道具ではなく、速やかに移動するための道具である。

ハンドルはオブジェではなく、車の方向を変える道具である。

だからそんなことを問題にもせず、契約書にも法律にも書きこまない。 

日本人の常識では、大手マスコミが記事を捏造したり、極端な印象操作を繰り返して、国民を誤誘導するということは想定されていない。 しかし、拙著『徹底検証「森友・加計事件」-朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪』で論証したように、政変レベルの「虚報」を主導した朝日他の主流マスコミは、恒常的に、しかも業界横断的に繰り返したのである。 

マスコミは嘘をつかないという常識が完全に裏切られていることを、国民に知らせるそのマイク自体を、彼らが占拠している。

マイクを嘘つき集団が独占してしまっている。

それならば、強制的にマイクを取り上げるか、嘘をやめさせるかしかない。

理屈上、他の手段がないのだから、言論の自由を守るために、このマイクを独占している嘘つきと戦う以外、私たち日本人には、いま、道はない。

この稿続く。


「魔女狩り」に雄叫びを上げ、自分たちが批判されれば弾圧だ、誹謗中傷だと喚く。

2018年04月20日 12時27分39秒 | 日記

以下は前章の続きである。

最大の敵はマスコミ 

「言論の自由」とはそもそも何か。

近代イデオロギーにおいて言論の自由が重視されるのは、なぜか。 

生命、財産と並び、「言論」こそが人間としてのレゾンデートルであるとともに、社会正義を実現するうえで、「事実」の告知と自由な「意見」の発表による「言論」が必要不可欠だからに他ならない。

言うまでもなく、言論の自由が保障するのは、「嘘」や「洗脳」ではない。 

教科書どおりに言えば、こうした言論の自由は不断の努力、それを蹂躙しようとする圧力を絶えず跳ね返し、防ぐことによってしか守り抜くことはできない。

事実、近隣の中国、北朝鮮、ロシアは、言論の自由が制約された社会である。

そういう社会での自由な言論はしばしば拷問、死に繋がる。 

逆に言えば、そうした近隣諸国の専制と弾圧が日本社会に流入するのを、我々は強い決意で防がねばならない。

日本が言論の自由を失うことなどあり得ないという根拠のない自信ほど、言論の自由を確保し続けるうえで邪魔になる臆断はない。

そして、言論の自由を制限するのが「政権」だけだという根拠のない決め付けも。 

事実、いま日本の言論の自由の敵は、政権や霞が関ではない。

総務省も文科省も、言論に圧力をかけている形跡はない。 

政権が反安倍言説を封じ込めた話も聞いたことがない。 

安倍夫妻のバッシングは深刻な人権侵害のレベルに達しているが、ほとんど快を貪るように安倍叩きが多くのメディアや言説で続いている。

ここまで総理夫妻の人権を守れない政権に、言論の自由を制約するパワーがあるとは信じられない。 

現在の日本で、自由社会最大の敵は、責任を回収する意思も能力も制度もないマスコミという、巨大な政治的影響力だと言っていい。 

法的、社会的制限がなく、自制する良識と制度がないまま、洗脳による政治的影響力を行使しているマスコミは、本来、「言論の自由」が目指していたはずの社会正義の実現を妨げる、いまや最大の要素となってしまっているからである。

「事実」を隠蔽し、別のストーリーを「捏造」し、臆面もなく開き直り、「魔女狩り」に雄叫びを上げ、自分たちが批判されれば弾圧だ、誹謗中傷だと喚く。

彼らの「言論の自由」を担保することで殺され続けているのは、まさに「社会正義」そのものである。


本来、「言論の自由」が目指していたはずの社会正義の実現を妨げる、いまや最大の要素となってしまっているからである

2018年04月20日 12時25分48秒 | 日記

以下は前章の続きである。

最大の敵はマスコミ 

「言論の自由」とはそもそも何か。

近代イデオロギーにおいて言論の自由が重視されるのは、なぜか。 

生命、財産と並び、「言論」こそが人間としてのレゾンデートルであるとともに、社会正義を実現するうえで、「事実」の告知と自由な「意見」の発表による「言論」が必要不可欠だからに他ならない。

言うまでもなく、言論の自由が保障するのは、「嘘」や「洗脳」ではない。 

教科書どおりに言えば、こうした言論の自由は不断の努力、それを蹂躙しようとする圧力を絶えず跳ね返し、防ぐことによってしか守り抜くことはできない。

事実、近隣の中国、北朝鮮、ロシアは、言論の自由が制約された社会である。

そういう社会での自由な言論はしばしば拷問、死に繋がる。 

逆に言えば、そうした近隣諸国の専制と弾圧が日本社会に流入するのを、我々は強い決意で防がねばならない。

日本が言論の自由を失うことなどあり得ないという根拠のない自信ほど、言論の自由を確保し続けるうえで邪魔になる臆断はない。

そして、言論の自由を制限するのが「政権」だけだという根拠のない決め付けも。 

事実、いま日本の言論の自由の敵は、政権や霞が関ではない。

総務省も文科省も、言論に圧力をかけている形跡はない。 

政権が反安倍言説を封じ込めた話も聞いたことがない。 

安倍夫妻のバッシングは深刻な人権侵害のレベルに達しているが、ほとんど快を貪るように安倍叩きが多くのメディアや言説で続いている。

ここまで総理夫妻の人権を守れない政権に、言論の自由を制約するパワーがあるとは信じられない。 

現在の日本で、自由社会最大の敵は、責任を回収する意思も能力も制度もないマスコミという、巨大な政治的影響力だと言っていい。 

法的、社会的制限がなく、自制する良識と制度がないまま、洗脳による政治的影響力を行使しているマスコミは、本来、「言論の自由」が目指していたはずの社会正義の実現を妨げる、いまや最大の要素となってしまっているからである。

「事実」を隠蔽し、別のストーリーを「捏造」し、臆面もなく開き直り、「魔女狩り」に雄叫びを上げ、自分たちが批判されれば弾圧だ、誹謗中傷だと喚く。

彼らの「言論の自由」を担保することで殺され続けているのは、まさに「社会正義」そのものである。