以下は前章の続きである。
統計調査機関が必要
むろん、言論は車に較べても、責務を明確にするのが難しい。
「事実」と「捏造」を法的制裁で切り分けるのは、「爆発する車」を禁じるのとは較ぶべくもない難事だ。
だからこそ、言論においては自責、自制、自浄の良識と高潔さが求められ、市場の「信用」という原理による淘汰が本来はふさわしいのである。
だが、マスコミに良識と自浄を期待できない以上、「見出し」「事実報道」「印象操作」「繰り返しによる輿論誘導」などについて、まず、国民的負託を受けた客観的な統計調査機関を立ち上げるなどして、現状の統計的把握、問題点の把握と国民への周知が急務だ。
マスコミの正常化を非力な民間ではできない。
言論と並び、信用毀損が社会に致命傷を与える金融に関しては、自由主義市場であるにもかかわらず、金融庁の厳しい監督がある。
言論の信用毀損について、同じく国の機関にすべきか、政権と完全に切り離された機関において中立性を確保すべきかは議論の余地があるが、日本の現状では監督機関の設置は不可欠だ。
安倍政権は、逆に放送の政治的中立や事実に則って報道するなどを定めた放送法四条の撤廃と電波の自由化を提唱しているが、私は無原則なままの自由化には反対である。
こうしたメディアの自由競争化は先進国規準だが、日本のメディアや有識者は、残念ながら後進国水準であり、自由に伴う責務、自由を守るための戦いを全く理解していない。
自由競争の原理を導入すれば、中国、北朝鮮、ロシアをはじめ、あらゆる工作意図によって、日本のメディア状況は壊滅的な混乱を呈するに違いない。
日本が輝ける文明から後進国へと急激に後退してしまったことを自覚し、受け入れるところからしか、言論の自由の再建は不可能だというのが、一年二ヵ月の愚劣な騒動を止め得なかった非力な一言論人としての、私の率直な結論である。
森友・加計騒動からそれを学ばないなら、日本の「自由」に本当に明日はない。