文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

Top 10 real-time searches 2021/10/06, 23:51

2021年10月06日 23時51分49秒 | 全般

1

Top 10 real-time searches 2021/10/06, 19:17

2

「私はマルキストだった」と自著で告白した森恭三氏(のち論説主幹)らが素顔で表に出てきて、理論武装を支えた

3

左翼と朝日は互いに影響し合って動いている…では、互いに共鳴しあう左翼とは何だろうか

4

戦後民主主義が左翼に牛耳られ、歪められてきたことを考えると、朝日新聞とは日本のいわゆる左翼社会の鏡でもある

5

革新派とは当時の民政局や社会教育畑に多かった…彼らは容共的社会主義者…共産党とそう変わらない

6

朝日に赤い旗が立った最初…占領政策を推し進めたGHQにも革新派…これと呼応して朝日の左傾路線が始まった

7

秋岡氏の中国べったりのくだらない原稿をトップにしろとか、そういう指示が判断なしで罷り通るようになった。

8

戦争中に抑圧された連中を表に出し、新聞を先兵にして、日本のいわゆる民主化を進めていく

9

一転してレッドパージに…追放者が最も多かったのはNHKの119人、次いで朝日の104人

10

とくにひどかった盛岡支局などは、社内でも「朝日新聞の赤旗県版」と呼ばれるぐらいの左傾県版を

 

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秋岡氏の中国べったりのくだらない原稿をトップにしろとか、そういう指示が判断なしで罷り通るようになった。

2021年10月06日 22時34分47秒 | 全般

以下は前章の続きである。
整理部の裁量を抑制し、職人集団に
稲垣 
さっき広岡氏以前は非常にリベラルな雰囲気があったと言ったでしょう。
左も右もいたしね。それから、自由にものをけっこう言えた。
組合は組合でそれなりのことをやってたけど、縛るようなことはなかった。
本郷 
私が入社した年の暮れに「九六スト」があった。
このとき、編集局のカナメである整理部が、経営側の期待に反してストに加わったものだから、紙面の出来ばえが無惨になった。
整理出身の専務だった信夫さんには、痛手だったはずです。
ところが、広岡さんが政権を取って、まずやったのが整理部の奪権です。
それまで朝日新聞の大幹部になる人は、みんな整理の経験があった。
緒方さんも美土路一さんも、信夫さんも長いこと整理をやっていたし、木村さんもそうだった。
朝日の中では、整理をやらないと幹部になれないという不文律があったくらいでね。
なぜかというと、整理部門は編集局にありながら、号外をいつ出すとか、特別版をどう作るとか、こんな広告は載せられないとか、要するに社業全体を見渡していないとできない。
その上、読者のニーズを理解しながら、これが今日の一面トップだとか、これは10行に削っちゃえというふうな仕事をやるのが整理部なんです。
だから、整理を経験した人は、社業全般に通じることになる。
ところが、広岡さんには整理の経験がない。
森さんも渡邉さんにもない。
広岡知男さん以後の社長にも、整理経験者はほとんどいない。
逆に、整理部を煙たがって弱体化した。
稲垣 
私は整理に入ったときに「おまえらは、まずまっさきにニュース価値の客観的判断をする義務があるんだよ」と言われた。
これはトップに値するのかどうか。あるいは3段にするかという判断をまずおまえらが判断せよと言われて、それで張りきったことがある。
そうした気概や矜恃は今なくなってしまっている。
本郷 
変わって、上から指示がくるようになった。
稲垣 
そう、上から指示がくる。
とくに広岡氏、秋岡家栄北京特派員の時代はひどくてね。
秋岡氏の中国べったりのくだらない原稿をトップにしろとか、そういう指示が判断なしで罷り通るようになった。
だから、見映えよく見えればいいという、整理職人になっちゃった。
石川 
権限を失っちゃったんですね。
稲垣 
私なんか生意気だったからね、大阪の整理部時代、森氏の感想文みたいなくだらない原稿を削って怒られたことがある(笑)。
本郷 
それが東京だと、とんでもない事件に膨れてしまうんだよね。
森氏が主幹になってからは、論説の原稿は事実の間違いがあっても、誤字や脱字があっても、整理部は手を入れられなくなった。
整理部を職人集団にしていった。これは非常に大きな変化だな。
言論の一元統制。左翼の常套手段だ。
たとえば、広岡氏が政権を取ったあとの昭和41年だったかな。
蒋介石の写真を使っちゃいけない、というお触れが出た。
稲垣 
ああ、そういうことあったねえ。
本郷 
理由の説明もなく、蒋介石の顔写真はダメとなった。
整理部には、連絡事項を記した引継帳があり、毎日の業務の前に、必ずそれを見た上で仕事に入るのですが、そのお触れを呼んで、おいおい、馬鹿なこと言うなと思った。
蒋介石は「徳をもって怨みに報いる」と言って、日本の兵隊を無事に返してくれた恩人じゃないか。
まさか死んだときも顔写真を扱わないのかと、私が社内で大きな声を出したら「おい、おまえ、ダメダメダメ」とデスクに制止された。
稲垣 
大阪の整理で経験したのは、文革時代に、毛沢東のマンガを載せちゃいかんと言われたことだったなあ。
私も頭に来た。でっかい声で怒鳴ったら、みんな、顔を上向けている。
ヒラメだってわれわれは言ったんだ。
上ばっかり見てるやつがえらくなっていくんだ。
段々、デスクにはなっても、何段に扱っていいかわからないような整理記者が偉くなる。
そういう滑稽な時代が到来したわけですよ。

 

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ああいう記者を平然と入れているわけです。だから、事件が絶えないわけです

2021年10月06日 22時30分54秒 | 全般

以下は前章の続きである。
転機となった村山騒動
本郷 
というより「信夫・永井」の時代。
だから終戦直後、いったん左翼が乗っ取ったけど、それはひっくり返された。
その連中は元の現場に戻ったわけです。
でもね、戦後の企業に共通した悩みとして、能力の高い人ほど多く戦争で失っているわけですね。
だから、現場に戻された左翼でも、現場を握る強さで、どんどん出世の階段を上っていくわけですよ。
石川 
それが広岡さんであり、森さんであり、渡邉誠毅さんだということですね。
本郷 
森さんも渡邉氏も、それで現場から上がっていった。
それに本社の編集局といっても、当時は非常に人も少なかった。
そして、昭和34年の暮れ、96時間のストライキ「九六スト」がある。
「60年安保」の前年ですからね。
この前後から、社内で再び左翼が跳梁跋扈し始めるわけです。
現実に、30年代の初めから、紙面がひどく左傾化していった。
とくにひどかった盛岡支局などは、社内でも「朝日新聞の赤旗県版」と呼ばれるぐらいの左傾県版を作っていました。
のちの北朝鮮報道で有名な岩垂弘記者たちがいたころです。
稲垣 
社会党の岩垂寿喜男元衆議院議員の弟かな。
本郷 
「長野の秀才兄弟」なんて言われていたが、彼の報道は、北朝鮮べったりだった。
ところが「九六スト」の直後に、専務の信夫さんがスパっと辞めるわけです。
自分で役員定年制を決めた手前もあったが、左を抑え切れなかった責任を取ったようなものだった。
そして、「自分でやってみたい」と意欲を燃やした村山長挙社長が親政を始め、まず左翼征伐をやろうとした。
そのとき東京編集局長に起用したのが、編集局次長だった木村照彦氏でした。
九六スト、それからそのすぐ後の「60年安保」のときに、広岡氏はヒラ取締役で東京編集局長だった。
村山社長は、その広岡氏を快く思わず、紙面の左傾を問うて九州に飛ばした。
当時は西部本社担当と言ったが、この人事について、森氏は『私の朝日新聞社史』という回想録の中で、「広岡氏が西部に追われて、社に暗黒時代がやってきた」と書いている。
暗黒時代とは村山親政を指し、それに付き随った木村氏についても悪口を書いている。
木村氏は、かねてから右翼系政治結社黒龍会と関係があり、思想的にはむしろ中道右派だった。
ところが、村山親政で致命的な失政が起こってしまった。
村山社主家に、公私の別をわきまえぬ行為が重なったのです。
そうして、昭和38年から、お家騒動が始まる。
すったもんだのあげく、九州に流されていた広岡氏が、39年1月20日の取締役会で村山社長解任の動議を出し、それが通ってしまう。
彼はヒラ取締役から一足飛びに専務になり、その翌日、大阪経済部時代からの刎頸の友、森氏を論説主幹に据えるわけです。
ここからずっと左翼路線が固まっていく。
稲垣 
この「村山騒動」が、一つの転機になったんだ。
確かにそれまでの朝日新聞は、左旋回してはいたけれども、それは社会全体が左がかってたから、その反映でもあった。
そのころの朝日の社内は、言論はかなり自由だった。
実際、社内にはいろんな人間がいたのです。
森氏のような左翼的な連中がまだ人事権まで握っていなかったから、採用で、いろんな人間を入れていた。
だから、当然意見も違うし、お互いに論争する場面もあった。
ところが、村山騒動後、いわゆる広岡体制になると一変するのです。
というのも広岡氏の権力基盤は極めて脆弱だった。
支配株は50%に満たない。
それで組合員の持ってる株券を一所懸命かき集めたりした。
本郷 
株式受託委員会ですね。
これは、実は法的な資格を持っていなかったのです。
法人格もなく、株だけかき集めるという体裁上の組織でしてね。
しばしば職権まで使って株を広岡政権に集め゛翼賛体制″を作った。
ところが、出世願望の上役が、中間管理職に「おまえの部下に、まだ株を信託しないやつがいる。早く信託させろ」などと言ってくる。
私などが、「冗談じゃない、なんで私有権を侵害できるのか。株集めなどは、職制を使ってやることじゃないでしょう」と言うと、「おまえ、そんなこと言ってたら将来ないぞ」なんて言われた。
そういう時代がずっと続いた。
広岡氏が政権を取る以前は、社内に、非上場ながら朝日株の取引市場があり、「ある方がお辞めになるので、300株出ますよ」といった掲示が出てね。
みんなが入札で買ったんですよ。
ところがそれを、広岡氏らが全部潰して、職権を使って集めてこいとなった。
はなはだしいのは、通夜の晩に担当者が行って「亡くなったご主人、1000株持っていたはずだけど、すいませんが社のほうに」と言って集めたりした。
稲垣 
組合のボスを通じても集めたんだよ。
そこで組合との腐れ縁ができたわけだ。
本郷 
そのとおりです。
稲垣 
つまり、そういうことで、広岡体制になってから、人事も連中が完全に握ったもんだから、左がかったやつばかり入れるようになった。
つまり、明々白々の共産党員であると、親父もそうだし、共産党一家みたいなやつの子弟を入れたり、NHKの番組改変問題で話題となった本田氏のような記者も入れているわけですよ。
石川 
ああ、
本田雅和さん。
稲垣 
ああいう記者を平然と入れているわけです。だから、事件が絶えないわけです。
この稿続く。

 

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とくにひどかった盛岡支局などは、社内でも「朝日新聞の赤旗県版」と呼ばれるぐらいの左傾県版を

2021年10月06日 22時28分05秒 | 全般

以下は前章の続きである。
転機となった村山騒動
本郷 
というより「信夫・永井」の時代。
だから終戦直後、いったん左翼が乗っ取ったけど、それはひっくり返された。
その連中は元の現場に戻ったわけです。
でもね、戦後の企業に共通した悩みとして、能力の高い人ほど多く戦争で失っているわけですね。
だから、現場に戻された左翼でも、現場を握る強さで、どんどん出世の階段を上っていくわけですよ。
石川 
それが広岡さんであり、森さんであり、渡邉誠毅さんだということですね。
本郷 
森さんも渡邉氏も、それで現場から上がっていった。
それに本社の編集局といっても、当時は非常に人も少なかった。
そして、昭和34年の暮れ、96時間のストライキ「九六スト」がある。
「60年安保」の前年ですからね。
この前後から、社内で再び左翼が跳梁跋扈し始めるわけです。
現実に、30年代の初めから、紙面がひどく左傾化していった。
とくにひどかった盛岡支局などは、社内でも「朝日新聞の赤旗県版」と呼ばれるぐらいの左傾県版を作っていました。
のちの北朝鮮報道で有名な岩垂弘記者たちがいたころです。
稲垣 
社会党の岩垂寿喜男元衆議院議員の弟かな。
本郷 
「長野の秀才兄弟」なんて言われていたが、彼の報道は、北朝鮮べったりだった。
ところが「九六スト」の直後に、専務の信夫さんがスパっと辞めるわけです。
自分で役員定年制を決めた手前もあったが、左を抑え切れなかった責任を取ったようなものだった。
そして、「自分でやってみたい」と意欲を燃やした村山長挙社長が親政を始め、まず左翼征伐をやろうとした。
そのとき東京編集局長に起用したのが、編集局次長だった木村照彦氏でした。
九六スト、それからそのすぐ後の「60年安保」のときに、広岡氏はヒラ取締役で東京編集局長だった。
村山社長は、その広岡氏を快く思わず、紙面の左傾を問うて九州に飛ばした。
当時は西部本社担当と言ったが、この人事について、森氏は『私の朝日新聞社史』という回想録の中で、「広岡氏が西部に追われて、社に暗黒時代がやってきた」と書いている。
暗黒時代とは村山親政を指し、それに付き随った木村氏についても悪口を書いている。
木村氏は、かねてから右翼系政治結社黒龍会と関係があり、思想的にはむしろ中道右派だった。
ところが、村山親政で致命的な失政が起こってしまった。
村山社主家に、公私の別をわきまえぬ行為が重なったのです。
そうして、昭和38年から、お家騒動が始まる。
すったもんだのあげく、九州に流されていた広岡氏が、39年1月20日の取締役会で村山社長解任の動議を出し、それが通ってしまう。
彼はヒラ取締役から一足飛びに専務になり、その翌日、大阪経済部時代からの刎頸の友、森氏を論説主幹に据えるわけです。
ここからずっと左翼路線が固まっていく。
稲垣 
この「村山騒動」が、一つの転機になったんだ。
確かにそれまでの朝日新聞は、左旋回してはいたけれども、それは社会全体が左がかってたから、その反映でもあった。
そのころの朝日の社内は、言論はかなり自由だった。
実際、社内にはいろんな人間がいたのです。
森氏のような左翼的な連中がまだ人事権まで握っていなかったから、採用で、いろんな人間を入れていた。
だから、当然意見も違うし、お互いに論争する場面もあった。
ところが、村山騒動後、いわゆる広岡体制になると一変するのです。
というのも広岡氏の権力基盤は極めて脆弱だった。
支配株は50%に満たない。
それで組合員の持ってる株券を一所懸命かき集めたりした。
本郷 
株式受託委員会ですね。
これは、実は法的な資格を持っていなかったのです。
法人格もなく、株だけかき集めるという体裁上の組織でしてね。
しばしば職権まで使って株を広岡政権に集め゛翼賛体制″を作った。
ところが、出世願望の上役が、中間管理職に「おまえの部下に、まだ株を信託しないやつがいる。早く信託させろ」などと言ってくる。
私などが、「冗談じゃない、なんで私有権を侵害できるのか。株集めなどは、職制を使ってやることじゃないでしょう」と言うと、「おまえ、そんなこと言ってたら将来ないぞ」なんて言われた。
そういう時代がずっと続いた。
広岡氏が政権を取る以前は、社内に、非上場ながら朝日株の取引市場があり、「ある方がお辞めになるので、300株出ますよ」といった掲示が出てね。
みんなが入札で買ったんですよ。
ところがそれを、広岡氏らが全部潰して、職権を使って集めてこいとなった。
はなはだしいのは、通夜の晩に担当者が行って「亡くなったご主人、1000株持っていたはずだけど、すいませんが社のほうに」と言って集めたりした。
稲垣 
組合のボスを通じても集めたんだよ。
そこで組合との腐れ縁ができたわけだ。
本郷 
そのとおりです。
稲垣 
つまり、そういうことで、広岡体制になってから、人事も連中が完全に握ったもんだから、左がかったやつばかり入れるようになった。
つまり、明々白々の共産党員であると、親父もそうだし、共産党一家みたいなやつの子弟を入れたり、NHKの番組改変問題で話題となった本田氏のような記者も入れているわけですよ。
石川 
ああ、
本田雅和さん。
稲垣 
ああいう記者を平然と入れているわけです。だから、事件が絶えないわけです。
この稿続く。

 

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一転してレッドパージに…追放者が最も多かったのはNHKの119人、次いで朝日の104人

2021年10月06日 22時10分32秒 | 全般

GHQに「やらないと朝日新聞を潰す」とまで強要されるわけです。彼が最も懸命に守ったのは笠信太郎氏(論説主幹)だったと言われています。と題して、2019年07月14日に発信した章である。
googleの検索結果に罹らないようにするための攻撃が加えられていたので、段落等を修正しながら、再発信する。
日本国民のみならず世界中の人たちが必読。

さっき、ネットで以下の記事を発見した。
私が、今、日本と世界に紹介している高山正之の最新刊を事実として裏付けている箇所が幾つもあるし、朝日新聞の社員と言うのは単なる受験優等生であって日本の最優秀選手なんかでは全くないと私が言及し続けている事が、そっくり、そのまま、証言されている箇所もある。
1934年生まれで要職にあったから戦後の社内に精通している元朝日新聞社員二人の対談集からである。
見出し以外の文中強調は私。

≪徹底討論≫OBが語る なぜ朝日の偏向報道はやまないのか
『月刊正論』 2008年11月号
稲垣 武(元「週刊朝日」副編集長)/本郷美則(元朝日新聞研修所長)/聞き手 石川瑞穂(元産経新聞論説委員)

朝日は戦後左翼社会の鏡だった

稲垣 
いつも言っているのだが、朝日新聞は戦後民主主義の守護神であることを自任しているわけです。
その戦後民主主義がもたらした歪みはどこからどう来たのか。
それはそっくり朝日の論調に反映されているといっていいと思うのです。
マスコミとは社会の鏡だという言い方がされます。
しかし、戦後民主主義が左翼に牛耳られ、歪められてきたことを考えると、朝日新聞とは日本のいわゆる左翼社会の鏡でもある。
左翼と朝日は互いに影響し合って動いているともいえる。
では、互いに共鳴しあう左翼とは何だろうか。
容共ではあっても、必ずしも共産党ではないのです。
共産党のようにがっちりと構築された理論を持っているわけではない。
むしろ、ムードに基づくもので、その方が格好いいと考えるモードと言っても良い。
つまり一種の心情左翼的なところがあるね。
本郷 
朝日が最初に左翼的なカラーを明確に出すのは終戦直後です。
昭和20年10月、朝日社内では10月革命と言っているのですが、要するにそれまで地下に隠れていた聴涛克己氏(のち日本共産党中央委員)や、後年、「私はマルキストだった」と自著で告白した森恭三氏(のち論説主幹)らが素顔で表に出てきて、理論武装を支えた。
稲垣 
渡邉誠毅氏(のち社長)もそうだよね。
本郷 
彼は、たしか横浜事件で辞めた。
稲垣 
いや会社を辞めたのに、戦後復帰したんですよ。
本郷 
田中慎次郎氏も復職してくる。
のちに出版局長として『朝日ジャーナル』を創刊した人物です。
稲垣 
彼はゾルゲ事件に連座したんですよね。
本郷 
そう。彼はゾルゲ事件のときに政経部長だった。
不思議にもゾルゲ事件で起訴されてはいないが、大阪経済部の出身ですよね。
田中氏は広岡知男氏や森恭三氏と一緒に大阪経済部の出身でした。
大阪編集局というのは、権力中枢の東京から遠く、戦前からいささか反体制的な雰囲気があったようです。
昭和11年に、当時の東証で朝日記者が絡んだ不祥事が起こり、東京の経済部改革が迫られたときに、大阪から田中氏が広岡氏やらを率いて東京へ転じているのです。
そのころの東京本社には、尾崎秀実もいました。
彼は、その後、社を辞めて満鉄で働いているときに、ゾルゲ事件を起こすわけですが、尾崎に「御前会議」の最高機密「南進」を耳打ちしたのが、部下から情報を仕入れた田中でした。
そういう人たちが戦争中は社内に潜んでおり、終戦を機に一斉に表に出てきた。
GHQの公職追放令は21年だったが、その前年、朝日は独自に当時の編集幹部や村山家、上野家の当主たちを追い出して、21年春に重役を公選するわけです。
これは組合が選挙して選ぶということです。
社長には、まだ編集局次長だった長谷部忠氏が就任するわけですが、一種の組合管理に近い形になった。
これが、朝日に赤い旗が立った最初だと思う。
だけど、重要なことは、こうした流れの底流は、戦前からあったということですよ。
そして占領政策を推し進めたGHQにも革新派がいて、これと呼応して朝日の左傾路線が始まったというわけです。
稲垣 
革新派とは当時の民政局や社会教育畑に多かったみたいですね。
本郷 
そう。中にはニューディール政策を進めた連中もいたわけですよ。
稲垣 
ニューディール派でもニューディール左派だから。
本郷 
アメリカで夢が叶わなかった連中といっていい。
稲垣 
もともと彼らは容共的社会主義者なんだよ。
共産党とそう変わらない。
共産主義というとアメリカ国民には生理的な嫌悪感があるでしょう。
だから「リベラル」などとごまかして、それでいろんな政府機関に潜りこんだわけで、なかでも相当に過激な連中が日本へなだれ込んできた。
マッカーサー司令部の社会教育畑に潜りこんでいたわけです。
本郷 
それでこの連中は、日本の民主化に新聞を使おうと目論んだ。
戦争中に抑圧された連中を表に出し、新聞を先兵にして、日本のいわゆる民主化を進めていくわけです。
読売は読売で激しい争議があった。
あれは鈴木東民氏に率いられたけど、鈴木自身も戦争中は朝日の在欧通信員です。
ところが世界情勢は劇的に変わっていく。
昭和21年3月には、早くもチャーチルが「鉄のカーテン演説」をし、中共が蒋介石をどんどん負かしていく。
さらに朝鮮戦争が兆す。
そうすると、米国はガラッと占領政策を変えるわけです。
それまで戦前戦中の指導者を公職追放で斥けていたのに、一転してレッドパージに乗り出す。
その際、教育界の次に狙ったのが新聞業界だった。
追放者が最も多かったのはNHKの119人、次いで朝日の104人だった。
手法としては、職場内の密告を推し進めた。
長谷部社長は苦汁を飲まされ、GHQに「やらないと朝日新聞を潰す」とまで強要されるわけです。
彼が最も懸命に守ったのは笠信太郎氏(論説主幹)だったと言われています。
いったん表舞台に現れて、労組を母体に花形となった広岡氏、田中氏、森氏といった連中も、ここで本来の職場に戻されてしまう。
そして、公職追放令が解除され上野精一氏も村山長挙氏も社に復帰してくる。
もっとも、二人とも社主家の二代目で「よきにはからえ」の体質は否めなかった。
稲垣 
正力氏(松太郎・読売社長・第一次岸改造内閣で科学技術庁長官)のような指導力がなかったんだよなあ。
本郷 
もともと長挙さんは、子爵をもらっていた殿様の三男坊だからね。精一さんも「敵前逃亡のDNAがある」といわれるくらい(笑)おとなしい。
それで結局、戦中から生き残った、比較的若く経営能力のある連中が、昭和23、24年から先、戦後の新聞ブームを築いていくわけです。
業務系は永井大三氏(のち常務)という大物、編集系統は信夫韓一郎氏(のち専務)が両輪になり、昭和30年代の初めまで戦後の黄金時代を築いていくわけです。
石川 
村山さんの時代ですね。
この稿続く。

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戦争中に抑圧された連中を表に出し、新聞を先兵にして、日本のいわゆる民主化を進めていく

2021年10月06日 22時05分32秒 | 全般

GHQに「やらないと朝日新聞を潰す」とまで強要されるわけです。彼が最も懸命に守ったのは笠信太郎氏(論説主幹)だったと言われています。と題して、2019年07月14日に発信した章である。
googleの検索結果に罹らないようにするための攻撃が加えられていたので、段落等を修正しながら、再発信する。
日本国民のみならず世界中の人たちが必読。

さっき、ネットで以下の記事を発見した。
私が、今、日本と世界に紹介している高山正之の最新刊を事実として裏付けている箇所が幾つもあるし、朝日新聞の社員と言うのは単なる受験優等生であって日本の最優秀選手なんかでは全くないと私が言及し続けている事が、そっくり、そのまま、証言されている箇所もある。
1934年生まれで要職にあったから戦後の社内に精通している元朝日新聞社員二人の対談集からである。
見出し以外の文中強調は私。

≪徹底討論≫OBが語る なぜ朝日の偏向報道はやまないのか
『月刊正論』 2008年11月号
稲垣 武(元「週刊朝日」副編集長)/本郷美則(元朝日新聞研修所長)/聞き手 石川瑞穂(元産経新聞論説委員)

朝日は戦後左翼社会の鏡だった

稲垣 
いつも言っているのだが、朝日新聞は戦後民主主義の守護神であることを自任しているわけです。
その戦後民主主義がもたらした歪みはどこからどう来たのか。
それはそっくり朝日の論調に反映されているといっていいと思うのです。
マスコミとは社会の鏡だという言い方がされます。
しかし、戦後民主主義が左翼に牛耳られ、歪められてきたことを考えると、朝日新聞とは日本のいわゆる左翼社会の鏡でもある。
左翼と朝日は互いに影響し合って動いているともいえる。
では、互いに共鳴しあう左翼とは何だろうか。
容共ではあっても、必ずしも共産党ではないのです。
共産党のようにがっちりと構築された理論を持っているわけではない。
むしろ、ムードに基づくもので、その方が格好いいと考えるモードと言っても良い。
つまり一種の心情左翼的なところがあるね。
本郷 
朝日が最初に左翼的なカラーを明確に出すのは終戦直後です。
昭和20年10月、朝日社内では10月革命と言っているのですが、要するにそれまで地下に隠れていた聴涛克己氏(のち日本共産党中央委員)や、後年、「私はマルキストだった」と自著で告白した森恭三氏(のち論説主幹)らが素顔で表に出てきて、理論武装を支えた。
稲垣 
渡邉誠毅氏(のち社長)もそうだよね。
本郷 
彼は、たしか横浜事件で辞めた。
稲垣 
いや会社を辞めたのに、戦後復帰したんですよ。
本郷 
田中慎次郎氏も復職してくる。
のちに出版局長として『朝日ジャーナル』を創刊した人物です。
稲垣 
彼はゾルゲ事件に連座したんですよね。
本郷 
そう。彼はゾルゲ事件のときに政経部長だった。
不思議にもゾルゲ事件で起訴されてはいないが、大阪経済部の出身ですよね。
田中氏は広岡知男氏や森恭三氏と一緒に大阪経済部の出身でした。
大阪編集局というのは、権力中枢の東京から遠く、戦前からいささか反体制的な雰囲気があったようです。
昭和11年に、当時の東証で朝日記者が絡んだ不祥事が起こり、東京の経済部改革が迫られたときに、大阪から田中氏が広岡氏やらを率いて東京へ転じているのです。
そのころの東京本社には、尾崎秀実もいました。
彼は、その後、社を辞めて満鉄で働いているときに、ゾルゲ事件を起こすわけですが、尾崎に「御前会議」の最高機密「南進」を耳打ちしたのが、部下から情報を仕入れた田中でした。
そういう人たちが戦争中は社内に潜んでおり、終戦を機に一斉に表に出てきた。
GHQの公職追放令は21年だったが、その前年、朝日は独自に当時の編集幹部や村山家、上野家の当主たちを追い出して、21年春に重役を公選するわけです。
これは組合が選挙して選ぶということです。
社長には、まだ編集局次長だった長谷部忠氏が就任するわけですが、一種の組合管理に近い形になった。
これが、朝日に赤い旗が立った最初だと思う。
だけど、重要なことは、こうした流れの底流は、戦前からあったということですよ。
そして占領政策を推し進めたGHQにも革新派がいて、これと呼応して朝日の左傾路線が始まったというわけです。
稲垣 
革新派とは当時の民政局や社会教育畑に多かったみたいですね。
本郷 
そう。中にはニューディール政策を進めた連中もいたわけですよ。
稲垣 
ニューディール派でもニューディール左派だから。
本郷 
アメリカで夢が叶わなかった連中といっていい。
稲垣 
もともと彼らは容共的社会主義者なんだよ。
共産党とそう変わらない。
共産主義というとアメリカ国民には生理的な嫌悪感があるでしょう。
だから「リベラル」などとごまかして、それでいろんな政府機関に潜りこんだわけで、なかでも相当に過激な連中が日本へなだれ込んできた。
マッカーサー司令部の社会教育畑に潜りこんでいたわけです。
本郷 
それでこの連中は、日本の民主化に新聞を使おうと目論んだ。
戦争中に抑圧された連中を表に出し、新聞を先兵にして、日本のいわゆる民主化を進めていくわけです。
読売は読売で激しい争議があった。
あれは鈴木東民氏に率いられたけど、鈴木自身も戦争中は朝日の在欧通信員です。
ところが世界情勢は劇的に変わっていく。
昭和21年3月には、早くもチャーチルが「鉄のカーテン演説」をし、中共が蒋介石をどんどん負かしていく。
さらに朝鮮戦争が兆す。
そうすると、米国はガラッと占領政策を変えるわけです。
それまで戦前戦中の指導者を公職追放で斥けていたのに、一転してレッドパージに乗り出す。
その際、教育界の次に狙ったのが新聞業界だった。
追放者が最も多かったのはNHKの119人、次いで朝日の104人だった。
手法としては、職場内の密告を推し進めた。
長谷部社長は苦汁を飲まされ、GHQに「やらないと朝日新聞を潰す」とまで強要されるわけです。
彼が最も懸命に守ったのは笠信太郎氏(論説主幹)だったと言われています。
いったん表舞台に現れて、労組を母体に花形となった広岡氏、田中氏、森氏といった連中も、ここで本来の職場に戻されてしまう。
そして、公職追放令が解除され上野精一氏も村山長挙氏も社に復帰してくる。
もっとも、二人とも社主家の二代目で「よきにはからえ」の体質は否めなかった。
稲垣 
正力氏(松太郎・読売社長・第一次岸改造内閣で科学技術庁長官)のような指導力がなかったんだよなあ。
本郷 
もともと長挙さんは、子爵をもらっていた殿様の三男坊だからね。精一さんも「敵前逃亡のDNAがある」といわれるくらい(笑)おとなしい。
それで結局、戦中から生き残った、比較的若く経営能力のある連中が、昭和23、24年から先、戦後の新聞ブームを築いていくわけです。
業務系は永井大三氏(のち常務)という大物、編集系統は信夫韓一郎氏(のち専務)が両輪になり、昭和30年代の初めまで戦後の黄金時代を築いていくわけです。
石川 
村山さんの時代ですね。
この稿続く。

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革新派とは当時の民政局や社会教育畑に多かった…彼らは容共的社会主義者…共産党とそう変わらない

2021年10月06日 21時59分22秒 | 全般

GHQに「やらないと朝日新聞を潰す」とまで強要されるわけです。彼が最も懸命に守ったのは笠信太郎氏(論説主幹)だったと言われています。と題して、2019年07月14日に発信した章である。
googleの検索結果に罹らないようにするための攻撃が加えられていたので、段落等を修正しながら、再発信する。
日本国民のみならず世界中の人たちが必読。

さっき、ネットで以下の記事を発見した。
私が、今、日本と世界に紹介している高山正之の最新刊を事実として裏付けている箇所が幾つもあるし、朝日新聞の社員と言うのは単なる受験優等生であって日本の最優秀選手なんかでは全くないと私が言及し続けている事が、そっくり、そのまま、証言されている箇所もある。
1934年生まれで要職にあったから戦後の社内に精通している元朝日新聞社員二人の対談集からである。
見出し以外の文中強調は私。

≪徹底討論≫OBが語る なぜ朝日の偏向報道はやまないのか
『月刊正論』 2008年11月号
稲垣 武(元「週刊朝日」副編集長)/本郷美則(元朝日新聞研修所長)/聞き手 石川瑞穂(元産経新聞論説委員)

朝日は戦後左翼社会の鏡だった

稲垣 
いつも言っているのだが、朝日新聞は戦後民主主義の守護神であることを自任しているわけです。
その戦後民主主義がもたらした歪みはどこからどう来たのか。
それはそっくり朝日の論調に反映されているといっていいと思うのです。
マスコミとは社会の鏡だという言い方がされます。
しかし、戦後民主主義が左翼に牛耳られ、歪められてきたことを考えると、朝日新聞とは日本のいわゆる左翼社会の鏡でもある。
左翼と朝日は互いに影響し合って動いているともいえる。
では、互いに共鳴しあう左翼とは何だろうか。
容共ではあっても、必ずしも共産党ではないのです。
共産党のようにがっちりと構築された理論を持っているわけではない。
むしろ、ムードに基づくもので、その方が格好いいと考えるモードと言っても良い。
つまり一種の心情左翼的なところがあるね。
本郷 
朝日が最初に左翼的なカラーを明確に出すのは終戦直後です。
昭和20年10月、朝日社内では10月革命と言っているのですが、要するにそれまで地下に隠れていた聴涛克己氏(のち日本共産党中央委員)や、後年、「私はマルキストだった」と自著で告白した森恭三氏(のち論説主幹)らが素顔で表に出てきて、理論武装を支えた。
稲垣 
渡邉誠毅氏(のち社長)もそうだよね。
本郷 
彼は、たしか横浜事件で辞めた。
稲垣 
いや会社を辞めたのに、戦後復帰したんですよ。
本郷 
田中慎次郎氏も復職してくる。
のちに出版局長として『朝日ジャーナル』を創刊した人物です。
稲垣 
彼はゾルゲ事件に連座したんですよね。
本郷 
そう。彼はゾルゲ事件のときに政経部長だった。
不思議にもゾルゲ事件で起訴されてはいないが、大阪経済部の出身ですよね。
田中氏は広岡知男氏や森恭三氏と一緒に大阪経済部の出身でした。
大阪編集局というのは、権力中枢の東京から遠く、戦前からいささか反体制的な雰囲気があったようです。
昭和11年に、当時の東証で朝日記者が絡んだ不祥事が起こり、東京の経済部改革が迫られたときに、大阪から田中氏が広岡氏やらを率いて東京へ転じているのです。
そのころの東京本社には、尾崎秀実もいました。
彼は、その後、社を辞めて満鉄で働いているときに、ゾルゲ事件を起こすわけですが、尾崎に「御前会議」の最高機密「南進」を耳打ちしたのが、部下から情報を仕入れた田中でした。
そういう人たちが戦争中は社内に潜んでおり、終戦を機に一斉に表に出てきた。
GHQの公職追放令は21年だったが、その前年、朝日は独自に当時の編集幹部や村山家、上野家の当主たちを追い出して、21年春に重役を公選するわけです。
これは組合が選挙して選ぶということです。
社長には、まだ編集局次長だった長谷部忠氏が就任するわけですが、一種の組合管理に近い形になった。
これが、朝日に赤い旗が立った最初だと思う。
だけど、重要なことは、こうした流れの底流は、戦前からあったということですよ。
そして占領政策を推し進めたGHQにも革新派がいて、これと呼応して朝日の左傾路線が始まったというわけです。
稲垣 
革新派とは当時の民政局や社会教育畑に多かったみたいですね。
本郷 
そう。中にはニューディール政策を進めた連中もいたわけですよ。
稲垣 
ニューディール派でもニューディール左派だから。
本郷 
アメリカで夢が叶わなかった連中といっていい。
稲垣 
もともと彼らは容共的社会主義者なんだよ。
共産党とそう変わらない。
共産主義というとアメリカ国民には生理的な嫌悪感があるでしょう。
だから「リベラル」などとごまかして、それでいろんな政府機関に潜りこんだわけで、なかでも相当に過激な連中が日本へなだれ込んできた。
マッカーサー司令部の社会教育畑に潜りこんでいたわけです。
本郷 
それでこの連中は、日本の民主化に新聞を使おうと目論んだ。
戦争中に抑圧された連中を表に出し、新聞を先兵にして、日本のいわゆる民主化を進めていくわけです。
読売は読売で激しい争議があった。
あれは鈴木東民氏に率いられたけど、鈴木自身も戦争中は朝日の在欧通信員です。
ところが世界情勢は劇的に変わっていく。
昭和21年3月には、早くもチャーチルが「鉄のカーテン演説」をし、中共が蒋介石をどんどん負かしていく。
さらに朝鮮戦争が兆す。
そうすると、米国はガラッと占領政策を変えるわけです。
それまで戦前戦中の指導者を公職追放で斥けていたのに、一転してレッドパージに乗り出す。
その際、教育界の次に狙ったのが新聞業界だった。
追放者が最も多かったのはNHKの119人、次いで朝日の104人だった。
手法としては、職場内の密告を推し進めた。
長谷部社長は苦汁を飲まされ、GHQに「やらないと朝日新聞を潰す」とまで強要されるわけです。
彼が最も懸命に守ったのは笠信太郎氏(論説主幹)だったと言われています。
いったん表舞台に現れて、労組を母体に花形となった広岡氏、田中氏、森氏といった連中も、ここで本来の職場に戻されてしまう。
そして、公職追放令が解除され上野精一氏も村山長挙氏も社に復帰してくる。
もっとも、二人とも社主家の二代目で「よきにはからえ」の体質は否めなかった。
稲垣 
正力氏(松太郎・読売社長・第一次岸改造内閣で科学技術庁長官)のような指導力がなかったんだよなあ。
本郷 
もともと長挙さんは、子爵をもらっていた殿様の三男坊だからね。精一さんも「敵前逃亡のDNAがある」といわれるくらい(笑)おとなしい。
それで結局、戦中から生き残った、比較的若く経営能力のある連中が、昭和23、24年から先、戦後の新聞ブームを築いていくわけです。
業務系は永井大三氏(のち常務)という大物、編集系統は信夫韓一郎氏(のち専務)が両輪になり、昭和30年代の初めまで戦後の黄金時代を築いていくわけです。
石川 
村山さんの時代ですね。
この稿続く。

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朝日に赤い旗が立った最初…占領政策を推し進めたGHQにも革新派…これと呼応して朝日の左傾路線が始まった

2021年10月06日 21時52分53秒 | 全般

GHQに「やらないと朝日新聞を潰す」とまで強要されるわけです。彼が最も懸命に守ったのは笠信太郎氏(論説主幹)だったと言われています。と題して、2019年07月14日に発信した章である。
googleの検索結果に罹らないようにするための攻撃が加えられていたので、段落等を修正しながら、再発信する。
日本国民のみならず世界中の人たちが必読。

さっき、ネットで以下の記事を発見した。
私が、今、日本と世界に紹介している高山正之の最新刊を事実として裏付けている箇所が幾つもあるし、朝日新聞の社員と言うのは単なる受験優等生であって日本の最優秀選手なんかでは全くないと私が言及し続けている事が、そっくり、そのまま、証言されている箇所もある。
1934年生まれで要職にあったから戦後の社内に精通している元朝日新聞社員二人の対談集からである。
見出し以外の文中強調は私。

≪徹底討論≫OBが語る なぜ朝日の偏向報道はやまないのか
『月刊正論』 2008年11月号
稲垣 武(元「週刊朝日」副編集長)/本郷美則(元朝日新聞研修所長)/聞き手 石川瑞穂(元産経新聞論説委員)

朝日は戦後左翼社会の鏡だった

稲垣 
いつも言っているのだが、朝日新聞は戦後民主主義の守護神であることを自任しているわけです。
その戦後民主主義がもたらした歪みはどこからどう来たのか。
それはそっくり朝日の論調に反映されているといっていいと思うのです。
マスコミとは社会の鏡だという言い方がされます。
しかし、戦後民主主義が左翼に牛耳られ、歪められてきたことを考えると、朝日新聞とは日本のいわゆる左翼社会の鏡でもある。
左翼と朝日は互いに影響し合って動いているともいえる。
では、互いに共鳴しあう左翼とは何だろうか。
容共ではあっても、必ずしも共産党ではないのです。
共産党のようにがっちりと構築された理論を持っているわけではない。
むしろ、ムードに基づくもので、その方が格好いいと考えるモードと言っても良い。
つまり一種の心情左翼的なところがあるね。
本郷 
朝日が最初に左翼的なカラーを明確に出すのは終戦直後です。
昭和20年10月、朝日社内では10月革命と言っているのですが、要するにそれまで地下に隠れていた聴涛克己氏(のち日本共産党中央委員)や、後年、「私はマルキストだった」と自著で告白した森恭三氏(のち論説主幹)らが素顔で表に出てきて、理論武装を支えた。
稲垣 
渡邉誠毅氏(のち社長)もそうだよね。
本郷 
彼は、たしか横浜事件で辞めた。
稲垣 
いや会社を辞めたのに、戦後復帰したんですよ。
本郷 
田中慎次郎氏も復職してくる。
のちに出版局長として『朝日ジャーナル』を創刊した人物です。
稲垣 
彼はゾルゲ事件に連座したんですよね。
本郷 
そう。彼はゾルゲ事件のときに政経部長だった。
不思議にもゾルゲ事件で起訴されてはいないが、大阪経済部の出身ですよね。
田中氏は広岡知男氏や森恭三氏と一緒に大阪経済部の出身でした。
大阪編集局というのは、権力中枢の東京から遠く、戦前からいささか反体制的な雰囲気があったようです。
昭和11年に、当時の東証で朝日記者が絡んだ不祥事が起こり、東京の経済部改革が迫られたときに、大阪から田中氏が広岡氏やらを率いて東京へ転じているのです。
そのころの東京本社には、尾崎秀実もいました。
彼は、その後、社を辞めて満鉄で働いているときに、ゾルゲ事件を起こすわけですが、尾崎に「御前会議」の最高機密「南進」を耳打ちしたのが、部下から情報を仕入れた田中でした。
そういう人たちが戦争中は社内に潜んでおり、終戦を機に一斉に表に出てきた。
GHQの公職追放令は21年だったが、その前年、朝日は独自に当時の編集幹部や村山家、上野家の当主たちを追い出して、21年春に重役を公選するわけです。
これは組合が選挙して選ぶということです。
社長には、まだ編集局次長だった長谷部忠氏が就任するわけですが、一種の組合管理に近い形になった。
これが、朝日に赤い旗が立った最初だと思う。
だけど、重要なことは、こうした流れの底流は、戦前からあったということですよ。
そして占領政策を推し進めたGHQにも革新派がいて、これと呼応して朝日の左傾路線が始まったというわけです。
稲垣 
革新派とは当時の民政局や社会教育畑に多かったみたいですね。
本郷 
そう。中にはニューディール政策を進めた連中もいたわけですよ。
稲垣 
ニューディール派でもニューディール左派だから。
本郷 
アメリカで夢が叶わなかった連中といっていい。
稲垣 
もともと彼らは容共的社会主義者なんだよ。
共産党とそう変わらない。
共産主義というとアメリカ国民には生理的な嫌悪感があるでしょう。
だから「リベラル」などとごまかして、それでいろんな政府機関に潜りこんだわけで、なかでも相当に過激な連中が日本へなだれ込んできた。
マッカーサー司令部の社会教育畑に潜りこんでいたわけです。
本郷 
それでこの連中は、日本の民主化に新聞を使おうと目論んだ。
戦争中に抑圧された連中を表に出し、新聞を先兵にして、日本のいわゆる民主化を進めていくわけです。
読売は読売で激しい争議があった。
あれは鈴木東民氏に率いられたけど、鈴木自身も戦争中は朝日の在欧通信員です。
ところが世界情勢は劇的に変わっていく。
昭和21年3月には、早くもチャーチルが「鉄のカーテン演説」をし、中共が蒋介石をどんどん負かしていく。
さらに朝鮮戦争が兆す。
そうすると、米国はガラッと占領政策を変えるわけです。
それまで戦前戦中の指導者を公職追放で斥けていたのに、一転してレッドパージに乗り出す。
その際、教育界の次に狙ったのが新聞業界だった。
追放者が最も多かったのはNHKの119人、次いで朝日の104人だった。
手法としては、職場内の密告を推し進めた。
長谷部社長は苦汁を飲まされ、GHQに「やらないと朝日新聞を潰す」とまで強要されるわけです。
彼が最も懸命に守ったのは笠信太郎氏(論説主幹)だったと言われています。
いったん表舞台に現れて、労組を母体に花形となった広岡氏、田中氏、森氏といった連中も、ここで本来の職場に戻されてしまう。
そして、公職追放令が解除され上野精一氏も村山長挙氏も社に復帰してくる。
もっとも、二人とも社主家の二代目で「よきにはからえ」の体質は否めなかった。
稲垣 
正力氏(松太郎・読売社長・第一次岸改造内閣で科学技術庁長官)のような指導力がなかったんだよなあ。
本郷 
もともと長挙さんは、子爵をもらっていた殿様の三男坊だからね。精一さんも「敵前逃亡のDNAがある」といわれるくらい(笑)おとなしい。
それで結局、戦中から生き残った、比較的若く経営能力のある連中が、昭和23、24年から先、戦後の新聞ブームを築いていくわけです。
業務系は永井大三氏(のち常務)という大物、編集系統は信夫韓一郎氏(のち専務)が両輪になり、昭和30年代の初めまで戦後の黄金時代を築いていくわけです。
石川 
村山さんの時代ですね。
この稿続く。

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「私はマルキストだった」と自著で告白した森恭三氏(のち論説主幹)らが素顔で表に出てきて、理論武装を支えた

2021年10月06日 21時48分07秒 | 全般

GHQに「やらないと朝日新聞を潰す」とまで強要されるわけです。彼が最も懸命に守ったのは笠信太郎氏(論説主幹)だったと言われています。と題して、2019年07月14日に発信した章である。
googleの検索結果に罹らないようにするための攻撃が加えられていたので、段落等を修正しながら、再発信する。
日本国民のみならず世界中の人たちが必読。

さっき、ネットで以下の記事を発見した。
私が、今、日本と世界に紹介している高山正之の最新刊を事実として裏付けている箇所が幾つもあるし、朝日新聞の社員と言うのは単なる受験優等生であって日本の最優秀選手なんかでは全くないと私が言及し続けている事が、そっくり、そのまま、証言されている箇所もある。
1934年生まれで要職にあったから戦後の社内に精通している元朝日新聞社員二人の対談集からである。
見出し以外の文中強調は私。

≪徹底討論≫OBが語る なぜ朝日の偏向報道はやまないのか
『月刊正論』 2008年11月号
稲垣 武(元「週刊朝日」副編集長)/本郷美則(元朝日新聞研修所長)/聞き手 石川瑞穂(元産経新聞論説委員)

朝日は戦後左翼社会の鏡だった

稲垣 
いつも言っているのだが、朝日新聞は戦後民主主義の守護神であることを自任しているわけです。
その戦後民主主義がもたらした歪みはどこからどう来たのか。
それはそっくり朝日の論調に反映されているといっていいと思うのです。
マスコミとは社会の鏡だという言い方がされます。
しかし、戦後民主主義が左翼に牛耳られ、歪められてきたことを考えると、朝日新聞とは日本のいわゆる左翼社会の鏡でもある。
左翼と朝日は互いに影響し合って動いているともいえる。
では、互いに共鳴しあう左翼とは何だろうか。
容共ではあっても、必ずしも共産党ではないのです。
共産党のようにがっちりと構築された理論を持っているわけではない。
むしろ、ムードに基づくもので、その方が格好いいと考えるモードと言っても良い。
つまり一種の心情左翼的なところがあるね。
本郷 
朝日が最初に左翼的なカラーを明確に出すのは終戦直後です。
昭和20年10月、朝日社内では10月革命と言っているのですが、要するにそれまで地下に隠れていた聴涛克己氏(のち日本共産党中央委員)や、後年、「私はマルキストだった」と自著で告白した森恭三氏(のち論説主幹)らが素顔で表に出てきて、理論武装を支えた。
稲垣 
渡邉誠毅氏(のち社長)もそうだよね。
本郷 
彼は、たしか横浜事件で辞めた。
稲垣 
いや会社を辞めたのに、戦後復帰したんですよ。
本郷 
田中慎次郎氏も復職してくる。
のちに出版局長として『朝日ジャーナル』を創刊した人物です。
稲垣 
彼はゾルゲ事件に連座したんですよね。
本郷 
そう。彼はゾルゲ事件のときに政経部長だった。
不思議にもゾルゲ事件で起訴されてはいないが、大阪経済部の出身ですよね。
田中氏は広岡知男氏や森恭三氏と一緒に大阪経済部の出身でした。
大阪編集局というのは、権力中枢の東京から遠く、戦前からいささか反体制的な雰囲気があったようです。
昭和11年に、当時の東証で朝日記者が絡んだ不祥事が起こり、東京の経済部改革が迫られたときに、大阪から田中氏が広岡氏やらを率いて東京へ転じているのです。
そのころの東京本社には、尾崎秀実もいました。
彼は、その後、社を辞めて満鉄で働いているときに、ゾルゲ事件を起こすわけですが、尾崎に「御前会議」の最高機密「南進」を耳打ちしたのが、部下から情報を仕入れた田中でした。
そういう人たちが戦争中は社内に潜んでおり、終戦を機に一斉に表に出てきた。
GHQの公職追放令は21年だったが、その前年、朝日は独自に当時の編集幹部や村山家、上野家の当主たちを追い出して、21年春に重役を公選するわけです。
これは組合が選挙して選ぶということです。
社長には、まだ編集局次長だった長谷部忠氏が就任するわけですが、一種の組合管理に近い形になった。
これが、朝日に赤い旗が立った最初だと思う。
だけど、重要なことは、こうした流れの底流は、戦前からあったということですよ。
そして占領政策を推し進めたGHQにも革新派がいて、これと呼応して朝日の左傾路線が始まったというわけです。
稲垣 
革新派とは当時の民政局や社会教育畑に多かったみたいですね。
本郷 
そう。中にはニューディール政策を進めた連中もいたわけですよ。
稲垣 
ニューディール派でもニューディール左派だから。
本郷 
アメリカで夢が叶わなかった連中といっていい。
稲垣 
もともと彼らは容共的社会主義者なんだよ。
共産党とそう変わらない。
共産主義というとアメリカ国民には生理的な嫌悪感があるでしょう。
だから「リベラル」などとごまかして、それでいろんな政府機関に潜りこんだわけで、なかでも相当に過激な連中が日本へなだれ込んできた。
マッカーサー司令部の社会教育畑に潜りこんでいたわけです。
本郷 
それでこの連中は、日本の民主化に新聞を使おうと目論んだ。
戦争中に抑圧された連中を表に出し、新聞を先兵にして、日本のいわゆる民主化を進めていくわけです。
読売は読売で激しい争議があった。
あれは鈴木東民氏に率いられたけど、鈴木自身も戦争中は朝日の在欧通信員です。
ところが世界情勢は劇的に変わっていく。
昭和21年3月には、早くもチャーチルが「鉄のカーテン演説」をし、中共が蒋介石をどんどん負かしていく。
さらに朝鮮戦争が兆す。
そうすると、米国はガラッと占領政策を変えるわけです。
それまで戦前戦中の指導者を公職追放で斥けていたのに、一転してレッドパージに乗り出す。
その際、教育界の次に狙ったのが新聞業界だった。
追放者が最も多かったのはNHKの119人、次いで朝日の104人だった。
手法としては、職場内の密告を推し進めた。
長谷部社長は苦汁を飲まされ、GHQに「やらないと朝日新聞を潰す」とまで強要されるわけです。
彼が最も懸命に守ったのは笠信太郎氏(論説主幹)だったと言われています。
いったん表舞台に現れて、労組を母体に花形となった広岡氏、田中氏、森氏といった連中も、ここで本来の職場に戻されてしまう。
そして、公職追放令が解除され上野精一氏も村山長挙氏も社に復帰してくる。
もっとも、二人とも社主家の二代目で「よきにはからえ」の体質は否めなかった。
稲垣 
正力氏(松太郎・読売社長・第一次岸改造内閣で科学技術庁長官)のような指導力がなかったんだよなあ。
本郷 
もともと長挙さんは、子爵をもらっていた殿様の三男坊だからね。精一さんも「敵前逃亡のDNAがある」といわれるくらい(笑)おとなしい。
それで結局、戦中から生き残った、比較的若く経営能力のある連中が、昭和23、24年から先、戦後の新聞ブームを築いていくわけです。
業務系は永井大三氏(のち常務)という大物、編集系統は信夫韓一郎氏(のち専務)が両輪になり、昭和30年代の初めまで戦後の黄金時代を築いていくわけです。
石川 
村山さんの時代ですね。
この稿続く。

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左翼と朝日は互いに影響し合って動いている…では、互いに共鳴しあう左翼とは何だろうか

2021年10月06日 21時44分12秒 | 全般

GHQに「やらないと朝日新聞を潰す」とまで強要されるわけです。彼が最も懸命に守ったのは笠信太郎氏(論説主幹)だったと言われています。と題して、2019年07月14日に発信した章である。
googleの検索結果に罹らないようにするための攻撃が加えられていたので、段落等を修正しながら、再発信する。
日本国民のみならず世界中の人たちが必読。

さっき、ネットで以下の記事を発見した。
私が、今、日本と世界に紹介している高山正之の最新刊を事実として裏付けている箇所が幾つもあるし、朝日新聞の社員と言うのは単なる受験優等生であって日本の最優秀選手なんかでは全くないと私が言及し続けている事が、そっくり、そのまま、証言されている箇所もある。
1934年生まれで要職にあったから戦後の社内に精通している元朝日新聞社員二人の対談集からである。
見出し以外の文中強調は私。

≪徹底討論≫OBが語る なぜ朝日の偏向報道はやまないのか
『月刊正論』 2008年11月号
稲垣 武(元「週刊朝日」副編集長)/本郷美則(元朝日新聞研修所長)/聞き手 石川瑞穂(元産経新聞論説委員)

朝日は戦後左翼社会の鏡だった

稲垣 
いつも言っているのだが、朝日新聞は戦後民主主義の守護神であることを自任しているわけです。
その戦後民主主義がもたらした歪みはどこからどう来たのか。
それはそっくり朝日の論調に反映されているといっていいと思うのです。
マスコミとは社会の鏡だという言い方がされます。
しかし、戦後民主主義が左翼に牛耳られ、歪められてきたことを考えると、朝日新聞とは日本のいわゆる左翼社会の鏡でもある。
左翼と朝日は互いに影響し合って動いているともいえる。
では、互いに共鳴しあう左翼とは何だろうか。
容共ではあっても、必ずしも共産党ではないのです。
共産党のようにがっちりと構築された理論を持っているわけではない。
むしろ、ムードに基づくもので、その方が格好いいと考えるモードと言っても良い。
つまり一種の心情左翼的なところがあるね。
本郷 
朝日が最初に左翼的なカラーを明確に出すのは終戦直後です。
昭和20年10月、朝日社内では10月革命と言っているのですが、要するにそれまで地下に隠れていた聴涛克己氏(のち日本共産党中央委員)や、後年、「私はマルキストだった」と自著で告白した森恭三氏(のち論説主幹)らが素顔で表に出てきて、理論武装を支えた。
稲垣 
渡邉誠毅氏(のち社長)もそうだよね。
本郷 
彼は、たしか横浜事件で辞めた。
稲垣 
いや会社を辞めたのに、戦後復帰したんですよ。
本郷 
田中慎次郎氏も復職してくる。
のちに出版局長として『朝日ジャーナル』を創刊した人物です。
稲垣 
彼はゾルゲ事件に連座したんですよね。
本郷 
そう。彼はゾルゲ事件のときに政経部長だった。
不思議にもゾルゲ事件で起訴されてはいないが、大阪経済部の出身ですよね。
田中氏は広岡知男氏や森恭三氏と一緒に大阪経済部の出身でした。大阪編集局というのは、権力中枢の東京から遠く、戦前からいささか反体制的な雰囲気があったようです。
昭和11年に、当時の東証で朝日記者が絡んだ不祥事が起こり、東京の経済部改革が迫られたときに、大阪から田中氏が広岡氏やらを率いて東京へ転じているのです。
そのころの東京本社には、尾崎秀実もいました。
彼は、その後、社を辞めて満鉄で働いているときに、ゾルゲ事件を起こすわけですが、尾崎に「御前会議」の最高機密「南進」を耳打ちしたのが、部下から情報を仕入れた田中でした。
そういう人たちが戦争中は社内に潜んでおり、終戦を機に一斉に表に出てきた。
GHQの公職追放令は21年だったが、その前年、朝日は独自に当時の編集幹部や村山家、上野家の当主たちを追い出して、21年春に重役を公選するわけです。
これは組合が選挙して選ぶということです。
社長には、まだ編集局次長だった長谷部忠氏が就任するわけですが、一種の組合管理に近い形になった。
これが、朝日に赤い旗が立った最初だと思う。
だけど、重要なことは、こうした流れの底流は、戦前からあったということですよ。
そして占領政策を推し進めたGHQにも革新派がいて、これと呼応して朝日の左傾路線が始まったというわけです。
稲垣 
革新派とは当時の民政局や社会教育畑に多かったみたいですね。
本郷 
そう。中にはニューディール政策を進めた連中もいたわけですよ。
稲垣 
ニューディール派でもニューディール左派だから。
本郷 
アメリカで夢が叶わなかった連中といっていい。
稲垣 
もともと彼らは容共的社会主義者なんだよ。
共産党とそう変わらない。
共産主義というとアメリカ国民には生理的な嫌悪感があるでしょう。
だから「リベラル」などとごまかして、それでいろんな政府機関に潜りこんだわけで、なかでも相当に過激な連中が日本へなだれ込んできた。
マッカーサー司令部の社会教育畑に潜りこんでいたわけです。
本郷 
それでこの連中は、日本の民主化に新聞を使おうと目論んだ。
戦争中に抑圧された連中を表に出し、新聞を先兵にして、日本のいわゆる民主化を進めていくわけです。
読売は読売で激しい争議があった。
あれは鈴木東民氏に率いられたけど、鈴木自身も戦争中は朝日の在欧通信員です。
ところが世界情勢は劇的に変わっていく。
昭和21年3月には、早くもチャーチルが「鉄のカーテン演説」をし、中共が蒋介石をどんどん負かしていく。
さらに朝鮮戦争が兆す。
そうすると、米国はガラッと占領政策を変えるわけです。
それまで戦前戦中の指導者を公職追放で斥けていたのに、一転してレッドパージに乗り出す。
その際、教育界の次に狙ったのが新聞業界だった。
追放者が最も多かったのはNHKの119人、次いで朝日の104人だった。
手法としては、職場内の密告を推し進めた。
長谷部社長は苦汁を飲まされ、GHQに「やらないと朝日新聞を潰す」とまで強要されるわけです。
彼が最も懸命に守ったのは笠信太郎氏(論説主幹)だったと言われています。
いったん表舞台に現れて、労組を母体に花形となった広岡氏、田中氏、森氏といった連中も、ここで本来の職場に戻されてしまう。
そして、公職追放令が解除され上野精一氏も村山長挙氏も社に復帰してくる。
もっとも、二人とも社主家の二代目で「よきにはからえ」の体質は否めなかった。
稲垣 
正力氏(松太郎・読売社長・第一次岸改造内閣で科学技術庁長官)のような指導力がなかったんだよなあ。
本郷 
もともと長挙さんは、子爵をもらっていた殿様の三男坊だからね。精一さんも「敵前逃亡のDNAがある」といわれるくらい(笑)おとなしい。
それで結局、戦中から生き残った、比較的若く経営能力のある連中が、昭和23、24年から先、戦後の新聞ブームを築いていくわけです。
業務系は永井大三氏(のち常務)という大物、編集系統は信夫韓一郎氏(のち専務)が両輪になり、昭和30年代の初めまで戦後の黄金時代を築いていくわけです。
石川 
村山さんの時代ですね。
この稿続く。

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戦後民主主義が左翼に牛耳られ、歪められてきたことを考えると、朝日新聞とは日本のいわゆる左翼社会の鏡でもある

2021年10月06日 21時40分32秒 | 全般

GHQに「やらないと朝日新聞を潰す」とまで強要されるわけです。彼が最も懸命に守ったのは笠信太郎氏(論説主幹)だったと言われています。と題して、2019年07月14日に発信した章である。
googleの検索結果に罹らないようにするための攻撃が加えられていたので、段落等を修正しながら、再発信する。
日本国民のみならず世界中の人たちが必読。

さっき、ネットで以下の記事を発見した。
私が、今、日本と世界に紹介している高山正之の最新刊を事実として裏付けている箇所が幾つもあるし、朝日新聞の社員と言うのは単なる受験優等生であって日本の最優秀選手なんかでは全くないと私が言及し続けている事が、そっくり、そのまま、証言されている箇所もある。
1934年生まれで要職にあったから戦後の社内に精通している元朝日新聞社員二人の対談集からである。
見出し以外の文中強調は私。

≪徹底討論≫OBが語る なぜ朝日の偏向報道はやまないのか
『月刊正論』 2008年11月号
稲垣 武(元「週刊朝日」副編集長)/本郷美則(元朝日新聞研修所長)/聞き手 石川瑞穂(元産経新聞論説委員)

朝日は戦後左翼社会の鏡だった

稲垣 
いつも言っているのだが、朝日新聞は戦後民主主義の守護神であることを自任しているわけです。
その戦後民主主義がもたらした歪みはどこからどう来たのか。
それはそっくり朝日の論調に反映されているといっていいと思うのです。
マスコミとは社会の鏡だという言い方がされます。
しかし、戦後民主主義が左翼に牛耳られ、歪められてきたことを考えると、朝日新聞とは日本のいわゆる左翼社会の鏡でもある。
左翼と朝日は互いに影響し合って動いているともいえる。
では、互いに共鳴しあう左翼とは何だろうか。
容共ではあっても、必ずしも共産党ではないのです。
共産党のようにがっちりと構築された理論を持っているわけではない。
むしろ、ムードに基づくもので、その方が格好いいと考えるモードと言っても良い。
つまり一種の心情左翼的なところがあるね。
本郷 
朝日が最初に左翼的なカラーを明確に出すのは終戦直後です。
昭和20年10月、朝日社内では10月革命と言っているのですが、要するにそれまで地下に隠れていた聴涛克己氏(のち日本共産党中央委員)や、後年、「私はマルキストだった」と自著で告白した森恭三氏(のち論説主幹)らが素顔で表に出てきて、理論武装を支えた。
稲垣 
渡邉誠毅氏(のち社長)もそうだよね。
本郷 
彼は、たしか横浜事件で辞めた。
稲垣 
いや会社を辞めたのに、戦後復帰したんですよ。
本郷 
田中慎次郎氏も復職してくる。
のちに出版局長として『朝日ジャーナル』を創刊した人物です。
稲垣 
彼はゾルゲ事件に連座したんですよね。
本郷 
そう。彼はゾルゲ事件のときに政経部長だった。
不思議にもゾルゲ事件で起訴されてはいないが、大阪経済部の出身ですよね。
田中氏は広岡知男氏や森恭三氏と一緒に大阪経済部の出身でした。大阪編集局というのは、権力中枢の東京から遠く、戦前からいささか反体制的な雰囲気があったようです。
昭和11年に、当時の東証で朝日記者が絡んだ不祥事が起こり、東京の経済部改革が迫られたときに、大阪から田中氏が広岡氏やらを率いて東京へ転じているのです。
そのころの東京本社には、尾崎秀実もいました。
彼は、その後、社を辞めて満鉄で働いているときに、ゾルゲ事件を起こすわけですが、尾崎に「御前会議」の最高機密「南進」を耳打ちしたのが、部下から情報を仕入れた田中でした。
そういう人たちが戦争中は社内に潜んでおり、終戦を機に一斉に表に出てきた。
GHQの公職追放令は21年だったが、その前年、朝日は独自に当時の編集幹部や村山家、上野家の当主たちを追い出して、21年春に重役を公選するわけです。
これは組合が選挙して選ぶということです。
社長には、まだ編集局次長だった長谷部忠氏が就任するわけですが、一種の組合管理に近い形になった。
これが、朝日に赤い旗が立った最初だと思う。
だけど、重要なことは、こうした流れの底流は、戦前からあったということですよ。
そして占領政策を推し進めたGHQにも革新派がいて、これと呼応して朝日の左傾路線が始まったというわけです。
稲垣 
革新派とは当時の民政局や社会教育畑に多かったみたいですね。
本郷 
そう。中にはニューディール政策を進めた連中もいたわけですよ。
稲垣 
ニューディール派でもニューディール左派だから。
本郷 
アメリカで夢が叶わなかった連中といっていい。
稲垣 
もともと彼らは容共的社会主義者なんだよ。
共産党とそう変わらない。
共産主義というとアメリカ国民には生理的な嫌悪感があるでしょう。
だから「リベラル」などとごまかして、それでいろんな政府機関に潜りこんだわけで、なかでも相当に過激な連中が日本へなだれ込んできた。
マッカーサー司令部の社会教育畑に潜りこんでいたわけです。
本郷 
それでこの連中は、日本の民主化に新聞を使おうと目論んだ。
戦争中に抑圧された連中を表に出し、新聞を先兵にして、日本のいわゆる民主化を進めていくわけです。
読売は読売で激しい争議があった。
あれは鈴木東民氏に率いられたけど、鈴木自身も戦争中は朝日の在欧通信員です。
ところが世界情勢は劇的に変わっていく。
昭和21年3月には、早くもチャーチルが「鉄のカーテン演説」をし、中共が蒋介石をどんどん負かしていく。
さらに朝鮮戦争が兆す。
そうすると、米国はガラッと占領政策を変えるわけです。
それまで戦前戦中の指導者を公職追放で斥けていたのに、一転してレッドパージに乗り出す。
その際、教育界の次に狙ったのが新聞業界だった。
追放者が最も多かったのはNHKの119人、次いで朝日の104人だった。
手法としては、職場内の密告を推し進めた。
長谷部社長は苦汁を飲まされ、GHQに「やらないと朝日新聞を潰す」とまで強要されるわけです。
彼が最も懸命に守ったのは笠信太郎氏(論説主幹)だったと言われています。
いったん表舞台に現れて、労組を母体に花形となった広岡氏、田中氏、森氏といった連中も、ここで本来の職場に戻されてしまう。
そして、公職追放令が解除され上野精一氏も村山長挙氏も社に復帰してくる。
もっとも、二人とも社主家の二代目で「よきにはからえ」の体質は否めなかった。
稲垣 
正力氏(松太郎・読売社長・第一次岸改造内閣で科学技術庁長官)のような指導力がなかったんだよなあ。
本郷 
もともと長挙さんは、子爵をもらっていた殿様の三男坊だからね。精一さんも「敵前逃亡のDNAがある」といわれるくらい(笑)おとなしい。
それで結局、戦中から生き残った、比較的若く経営能力のある連中が、昭和23、24年から先、戦後の新聞ブームを築いていくわけです。
業務系は永井大三氏(のち常務)という大物、編集系統は信夫韓一郎氏(のち専務)が両輪になり、昭和30年代の初めまで戦後の黄金時代を築いていくわけです。
石川 
村山さんの時代ですね。
この稿続く。

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Top 10 real-time searches 2021/10/06, 19:17

2021年10月06日 19時17分11秒 | 全般

1

トップページ

2

2050年の近未来、西日本が「中国東海省」に、東日本が「日本自治区」に編入された極東の地図が、まことしやかに中国のネット上で取りあげられている

3

大学の作りすぎで…学生の確保に苦労…中国人留学生に依存する体質になってしまっている

4

特に伊丹空港の敷地内に食い込んだ中村地区の住民が、空港に押しかけ、日航と全日空のカウンター前で騒いだ

5

この前後から、社内で再び左翼が跳梁跋扈し始めるわけです。現実に、30年代の初めから、紙面がひどく左傾化していった。とくにひどかった盛岡支局などは、

6

所有者の代理人は反原発運動で社民党の福島瑞穂氏らと共闘してきた河合弘之弁護士だ。

7

サンゴ事件の僅か2年後、一柳の後任の中江利忠が植村隆に「慰安婦金学順」の嘘をもう書かせていた

8

トランプ前大統領は「武漢コロナ」とはっきり呼び、「責任を取らせる」とした。ところがバイデン政権になると、この呼称を大統領令で禁止した。

9

タイ工場再開、トヨタ40日の戦い…日経新聞11月22日9面より

10

こういった事実は評論家の加藤恭子さんが16年前の『文藝春秋』や著書『昭和天皇と田島道治と吉田茂』などで既に明らかにしていることです。

 

 

 

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Endast ett fåtal länder, som Tyskland, går framåt för att eliminera kärnkraften

2021年10月06日 10時49分49秒 | 全般

Följande är från en artikel av Taishi Sugiyama, forskningsdirektör för Canon Institute for Global Studies, som publicerades i avsnittet Sound Argument i dagens Sankei Shimbun.
Han har skrivit en serie artiklar som avslöjar lögnerna i den kinesiska fällan med avkolning och E.V.s.
Han är en av de verkliga intellektuella, en skatt för Japan och världen.
Den här uppsatsen är en måste-läsning för folket i Japan och människorna i världen.
Kina, landet med "avgrundsdugligt onda" och "troliga lögner", har satt en fälla för den utvecklade världen: avkolning och E.V.s.
Som jag redan har nämnt lider de nu av otroligt allvarlig strömbrist, som om Gud straffar dem.
(Betoning i texten, förutom rubriken, är min.
Vi måste korrigera politiken med överbetoning på förnybar energi.
Taro Kono förlorade presidentvalet i LDP, medan Sanae Takaichi gjorde en bra kamp.
En av faktorerna var att energipolitiken att "prioritera förnybar energi" som främjades under administrationen av Yoshihide Suga sågs som problematisk.
Det nuvarande utkastet till den grundläggande energiplanen bör inte godkännas av regeringen och bör ses över.
Låt oss titta på några viktiga punkter.
Vad är lärdomarna av gaskrisen i Europa?
Den förhastade avkolningspolitiken har misslyckats.
I Europa har el- och gaspriserna skjutit i höjden och är rekordhöga.
Europa har infört en stor mängd vindkraft samtidigt som kolkraftproduktionen minskat.
Dessutom, trots upptäckten av skiffergas i Storbritannien och Tyskland, har gruvdrift av denna gas faktiskt förbjudits som en miljökatastrof.
Som ett resultat har de blivit beroende av importerad naturgas.
Men i somras var vinden svag och vindkraftsproduktionen var trög.
Naturgas användes för kraftproduktion för att täcka detta, och lagren sjönk drastiskt.
Samtidigt slog en orkan in i USA: s Gulf Coast, vilket orsakade en försening av gasimporten.
Som ett resultat steg gaspriserna och elpriserna steg.
Tio energibolag gick i konkurs enbart i augusti och september, vilket tvingade många kunder att söka nya leverantörer.
Dessutom tvingades två gödningsanläggningar som använder naturgas som råvara stängas av på grund av olönsamhet.
Nu hotas europeiska hushåll av massiva höjningar av elräkningarna med 20-40%.
Regeringarna strävar efter att tillhandahålla lättnadsåtgärder som tillfälliga skattebefrielser och förmåner.
Det är resultatet av att prioritera förnybar energi och försumma en stabil försörjning.
Japan får inte göra samma misstag.
Är södra Mongoliet "grönt"?
Det nuvarande utkastet till den grundläggande energiplanen kräver att massintroduktion av "grön" teknik, till exempel elfordon och förnybar energi, avkolar.
Men i stället för att konsumera fossila bränslen kommer det att kräva stora mängder mineralresurser. Och detta kommer att öka beroendet av Kina.
När det gäller solpaneler, i Xinxi Uyghur Autonomous Region, som står för hälften av världens tillverkning, har förhållandet till folkmord kommit att ses som ett problem.
Hur är det med elfordon och vindkraft?
Magneter av neodym, sällsynt jord, används i stora mängder.
De flesta av världens sällsynta jordhögar produceras dock i Inre Mongoliets autonoma region (södra Mongoliet).
Där sker förtryck av mänskliga rättigheter mot mongoliska invånare. Det inkluderar kulturellt folkmord, till exempel att förbjuda utbildning på det mongoliska språket och undertrycka dem som protesterar mot det.
Hälsoproblem uppstår också på grund av förorening som orsakas av produktion av sällsynta jordartsmetaller.
I Japan lanserades södra mongoliska parlamentariska unionen, under ledning av Sanae Takaichi, i april för att hantera problemet.
Antag att elfordon och vindkraftgeneratorer kommer att införas i stort antal under de kommande åren. I så fall måste de sällsynta jordhögarna som används i dem främst levereras från Kina, även från södra Mongoliet, som har problem med mänskliga rättigheter.
USA har redan börjat studera de säkerhetsmässiga konsekvenserna av beroende av Kina för sällsynta jordhögar.
Även Japan måste göra en omfattande översyn av sin leveranskedja med avseende på mänskliga rättigheter och säkerhet.
Människor som köper elbilar måste tro att de gör miljön en tjänst.
Om de får reda på att de bidrar till det kulturella folkmordet i södra Mongoliet kommer de inte att vara i fred.
Det bör undvika att den gröna tekniken snabbt antas.
Först och främst bör vi bygga om det sällsynta jordartssystemet som har koncentrerats till södra Mongoliet.

Löfte att inte ålägga en ekonomisk börda
Stora länder som USA, Storbritannien, Frankrike, Ryssland och Kina använder stor kärnkraft.
Endast ett fåtal länder, som Tyskland, går framåt för att eliminera kärnkraften.
Men trots sin höga teknik har Japan inte ens kunnat starta om befintliga kärnkraftverk.
Det är inget annat än Japans låga styrförmåga.
Nu är det dags för politiskt ledarskap.
Japan måste förklara sin avsikt att främja kärnkraft och tydligt visa sin beslutsamhet.
Kärnkraft är världens trend. Förnybar energi är inte en global trend.
I USA är storskalig reglering av CO₂ inte möjlig på grund av motstånd från det republikanska partiet och olje- och gasproducerande stater.
Både Kina och Indien fortsätter att öka sin förbrukning av fossila bränslen.
Som nämnts har Europas avkolningspolitik misslyckats, och det kommer oundvikligen att bli en skakning.
Dessutom har numeriska mål som "noll C0₂ år 2050" och "halvering av C02 år 2030" en mycket liten vetenskaplig grund.
Det finns inget som heter en katastrofal katastrof, och framtida prognoser är osäkra. Vi måste analysera vad som är ett faktum lugnt.
Samtidigt som man fastställer hänsynslösa numeriska mål säger det nuvarande utkastet till den grundläggande energiplanen att det kommer att uppnås genom en "dygdig kretslopp mellan miljö och ekonomi.
Det är möjligt i den mån kärnkraft används.
Men om vi försöker minska C0₂ med förnybar energi avsevärt kommer vi att tvingas bära en betydande ekonomisk börda.
Det är en handling att lura allmänheten.
I det kommande allmänna valet bör politikerna lova att inte påföra nya ekonomiska bördor för folket genom avkolningspolitiken.
Den grundläggande energiplanen bör innehålla en mekanism för att dämpa den ekonomiska bördan.

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只有少數國家,如德國,正在推進消除核電

2021年10月06日 10時48分44秒 | 全般

以下來自佳能全球研究所研究所長杉山太史的文章,該文章出現在今天的產經新聞的聲音爭論部分。
他一直在撰寫一系列文章,揭露中國脫碳陷阱和電動汽車的謊言。
他是真正的知識分子之一,是日本乃至世界的財富。
這篇論文是日本人民和世界人民的必讀之書。
中國這個“深惡不絕”和“似是而非的謊言”的土地,給發達國家設置了陷阱:脫碳和電動汽車。
正如我已經提到的,他們現在正遭受著難以置信的嚴重電力短缺,就好像上帝在懲罰他們一樣。
(正文中的重點,除了標題,都是我的。
我們必須糾正過分強調可再生能源的政策。
河野太郎在自民黨總統選舉中落敗,而早苗高一則奮力拼搏。
原因之一是菅義偉執政期間推行的“優先考慮可再生能源”的能源政策被視為有問題。
目前的基本能源計劃草案不應獲得內閣批准,而應進行大修。
讓我們來看看一些關鍵點。
歐洲天然氣危機的教訓是什麼?
倉促的脫碳政策已經失敗。
在歐洲,電力和天然氣價格飆升並創下歷史新高。
歐洲在減少燃煤發電的同時大量引進風電。
此外,儘管在英國和德國發現了頁岩氣,但開採這種天然氣已被作為環境災難有效禁止。
結果,他們變得依賴進口天然氣。
然而,今年夏天,風力微弱,風力發電不暢。
天然氣被用於發電來彌補這一點,庫存急劇下降。
與此同時,一場颶風襲擊了美國墨西哥灣沿岸,導致天然氣進口延遲。
結果,天然氣價格飆升,電價上漲。
僅 8 月和 9 月就有 10 家能源公司破產,迫使許多客戶尋找新的供應商。
此外,兩家以天然氣為原料的化肥廠因無利可圖而被迫關停。
現在,歐洲家庭受到水電費大幅上漲 20-40% 的威脅。
各國政府正爭先恐後地提供救濟措施,例如臨時免稅和福利。
這是優先考慮可再生能源而忽視穩定供應的結果。
日本絕不能犯同樣的錯誤。
南蒙古“綠”了嗎?
目前的基本能源計劃草案呼籲大規模引入“綠色”技術,如電動汽車和可再生能源,以實現脫碳。
但它不是消耗化石燃料,而是需要大量的礦產資源。這將增加對中國的依賴。
至於太陽能電池板,在佔世界製造業一半的新西維吾爾自治區,與種族滅絕的關係已被視為一個問題。
電動汽車和風力發電呢?
由釹、稀土製成的磁鐵被大量使用。
然而,世界上大部分稀有的樁土產於內蒙古自治區(南蒙古)。
在那裡,正在發生針對蒙古居民的人權壓迫。它包括文化種族滅絕,例如禁止使用蒙古語進行教育並鎮壓抗議者。
由於稀土生產造成的污染,健康問題也在發生。
在日本,由早苗高一擔任主席的南蒙古議會聯盟於 4 月成立,以應對這一問題。
假設未來幾年將大量引入電動汽車和風力發電機。那樣的話,它們所使用的稀有土堆將主要來自中國,甚至來自存在人權問題的南蒙古。
美國已經開始研究依賴中國對稀有土堆的安全影響。
日本也需要從人權和安全方面對其供應鏈進行全面審查。
購買電動汽車的人一定認為他們是在幫助環境。
如果他們發現他們在為南蒙古的文化種族滅絕做貢獻,他們將不會安寧。
它應該避免草率地大規模採用綠色技術。
首先,要重建一直集中在南蒙古的稀土供應體系。

承諾不強加經濟負擔
美、英、法、俄、中等大國都在大力利用核電。
只有少數國家,如德國,正在推進消除核電。
然而,儘管其技術水平很高,日本甚至無法重新啟動現有的核電站。
無非是日本執政能力低下。
現在是政治領導的時候了。
日本必須宣布其促進核能的意圖,並明確表明其決心。
核電是世界潮流。可再生能源不是全球趨勢。
在美國,由於共和黨和石油和天然氣生產州的反對,無法對二氧化碳進行大規模監管。
中國和印度都在繼續增加化石燃料的消費。
如前所述,歐洲的脫碳政策已經失敗,難免會出現人事變動。
此外,“2050 年二氧化碳為零”、“2030 年二氧化碳減半”等數字化目標的科學依據也很少。
沒有災難性的災難,未來的預測也不確定。我們需要冷靜地分析什麼是事實。
在設定不計後果的數字目標的同時,當前的基本能源計劃草案表示,它將通過“環境與經濟之間的良性循環”來實現。
使用核能的程度是可能的。
但是,如果我們嘗試使用可再生能源大幅減少二氧化碳排放,我們將被迫承擔沉重的經濟負擔。
這是一種欺騙公眾的行為。
在即將到來的大選中,政客們應該承諾不會通過脫碳政策給人民帶來新的經濟負擔。
基本能源計劃應包括抑制經濟負擔的機制。

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只有少数国家,如德国,正在推进消除核电

2021年10月06日 10時44分30秒 | 全般

以下来自佳能全球研究所研究所长杉山太史的文章,该文章出现在今天的产经新闻的声音争论部分。
他一直在撰写一系列文章,揭露中国脱碳陷阱和电动汽车的谎言。
他是真正的知识分子之一,是日本乃至世界的财富。
这篇论文是日本人民和世界人民的必读之书。
中国这个“深恶不绝”和“似是而非的谎言”的土地,给发达国家设置了陷阱:脱碳和电动汽车。
正如我已经提到的,他们现在正遭受着难以置信的严重电力短缺,就好像上帝在惩罚他们一样。
(正文中的重点,除了标题,都是我的。
我们必须纠正过分强调可再生能源的政策。
河野太郎在自民党总统选举中落败,而早苗高一则奋力拼搏。
原因之一是菅义伟执政期间推行的“可再生能源优先”的能源政策被视为有问题。
目前的基本能源计划草案不应获得内阁批准,而应进行大修。
让我们来看看一些关键点。
欧洲天然气危机的教训是什么?
仓促的脱碳政策已经失败。
在欧洲,电力和天然气价格飙升并创下历史新高。
欧洲在减少燃煤发电的同时大量​​引进风电。
此外,尽管在英国和德国发现了页岩气,但开采这种天然气已被作为环境灾难有效禁止。
结果,他们变得依赖进口天然气。
然而,今年夏天,风力微弱,风力发电不畅。
天然气被用于发电来弥补这一点,库存急剧下降。
与此同时,一场飓风袭击了美国墨西哥湾沿岸,导致天然气进口延迟。
结果,天然气价格飙升,电价上涨。
仅 8 月和 9 月就有 10 家能源公司破产,迫使许多客户寻找新的供应商。
此外,两家以天然气为原料的化肥厂因无利可图而被迫关停。
现在,欧洲家庭受到水电费大幅上涨 20-40% 的威胁。
各国政府正争先恐后地提供救济措施,例如临时免税和福利。
这是优先考虑可再生能源而忽视稳定供应的结果。
日本绝不能犯同样的错误。
南蒙古“绿”了吗?
目前的基本能源计划草案呼吁大规模引入“绿色”技术,如电动汽车和可再生能源,以实现脱碳。
但它不是消耗化石燃料,而是需要大量的矿产资源。这将增加对中国的依赖。
至于太阳能电池板,在占世界制造业一半的新西维吾尔自治区,与种族灭绝的关系已被视为一个问题。
电动汽车和风力发电呢?
由钕、稀土制成的磁铁被大量使用。
然而,世界上大部分稀有的桩土产于内蒙古自治区(南蒙古)。
在那里,正在发生针对蒙古居民的人权压迫。它包括文化种族灭绝,例如禁止使用蒙古语进行教育并镇压抗议者。
由于稀土生产造成的污染,健康问题也在发生。
在日本,由早苗高一担任主席的南蒙古议会联盟于 4 月成立,以应对这一问题。
假设未来几年将大量引入电动汽车和风力发电机。那样的话,它们所使用的稀有土堆将主要来自中国,甚至来自存在人权问题的南蒙古。
美国已经开始研究依赖中国对稀有土堆的安全影响。
日本也需要从人权和安全方面对其供应链进行全面审查。
购买电动汽车的人一定认为他们是在帮助环境。
如果他们发现他们在为南蒙古的文化种族灭绝做贡献,他们将不会安宁。
它应该避免草率地大规模采用绿色技术。
首先,要重建一直集中在南蒙古的稀土供应体系。

承诺不强加经济负担
美、英、法、俄、中等大国都在大力利用核电。
只有少数国家,如德国,正在推进消除核电。
然而,尽管其技术水平很高,日本甚至无法重新启动现有的核电站。
无非是日本执政能力低下。
现在是政治领导的时候了。
日本必须宣布其促进核能的意图,并明确表明其决心。
核电是世界潮流。可再生能源不是全球趋势。
在美国,由于共和党和石油和天然气生产州的反对,无法对二氧化碳进行大规模监管。
中国和印度都在继续增加化石燃料的消费。
如前所述,欧洲的脱碳政策已经失败,难免会出现人事变动。
此外,“2050 年二氧化碳为零”、“2030 年二氧化碳减半”等数字化目标的科学依据也很少。
没有灾难性的灾难,未来的预测也不确定。我们需要冷静地分析什么是事实。
在设定不计后果的数字目标的同时,当前的基本能源计划草案表示,它将通过“环境与经济之间的良性循环”来实现。
使用核能的程度是可能的。
但是,如果我们尝试使用可再生能源大幅减少二氧化碳排放,我们将被迫承担沉重的经济负担。
这是一种欺骗公众的行为。
在即将到来的大选中,政客们应该承诺不会通过脱碳政策给人民带来新的经济负担。
基本能源计划应包括抑制经济负担的机制。

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