すずしろ日誌

介護をテーマにした詩集(じいとんばあ)と、天然な母を題材にしたエッセイ(うちのキヨちゃん)です。ひとりごとも・・・。

キヨちゃんとの珍道中記2

2015-04-08 20:51:33 | うちのキヨちゃん
 キヨちゃんの家の墓参りを済ませた後、古い知り合いを探しに行った。それは、亡くなったキヨちゃんのお姉さんが、生前お世話になった人であり、キヨちゃんにとっても幼馴染や古い知り合いである。長く故郷に帰っておらず、生家は既になく、伯母の子供たちも県外なので、キヨちゃんとしてはどうしてもお礼を言っておきたかったらしい。
 キヨちゃんの記憶の中で、一緒に娘時代焼き物工場で働いていた人やご近所、大体7~8人を探す予定だった。
 親戚の人の機転で、他人の良く集まる散髪屋さんを訪ねることにした。この店で集まった人がカラオケをする事もあったようで、伯母も生前よく歌いに行っていたという。その人なら顔も広く情報が得られるのではと言うのだ。
 まず、その店を訪ねたのだが、雨の勢いは衰えておらず、車からの出入りや荷物の出し入れなどの度に人も車もびしょ濡れになる状態で、本当に親戚の人には気の毒をした。
 さて店に立ち寄ってみると、店のある時の他に雨で足止めを食っていた90過ぎのお婆ちゃんがいた。実はこのお婆ちゃんと言うのは、キヨちゃんの一番上のお姉さんの同級生だったという偶然。お陰で一気にふたりにめぐり会う事が出来た。
 その店でもう一人の情報を得る事が出来、揃って訪ねてみると、その方にも会う事が出来た。実に50年ぶりの再会に、どの人も驚きと喜びでいっぱいとなり、キヨちゃんと抱き合って泣いた。私にも色々と話しかけてくださったが、ネイティブな鹿児島弁は全く理解できず、最初の、
 「え!キヨちゃんね?」
以外は全く外国語だった。
 次に尋ねた家は電気も付いており鍵も開いていたが人の気配が無かった。風呂にでも入っているのかもしれないと、翌日に訪ねることに。そこからは道が分からないので、90過ぎのお婆ちゃんをナビに雇い、一緒に行動した。
 次の家は民生委員などをしていた方で、お婆ちゃんのナビですぐ分かった。ここでも暖かく歓迎してくれ、帰りに干しシイタケまで持たせてくれた。
 時間が時間になったので、この日の捜索は打ち切った。予定の内半分には会えたわけだ。
 夜は親戚の人が温泉施設に連れて行ってくれ、家で自家製のお漬物や煮物で夕飯をいただいた。とても手マメな方で、お漬物、お餅、灰汁巻き(鹿児島独特のちまき)など色々な物を作っていた。どれもとても美味しく、お腹一杯食べた。可愛いお孫ちゃんたちもいて、キヨちゃんは終始ニコニコだった。
 翌日8時半出発で、新幹線の時間まで残りの捜索と親戚の墓参りをした。幸い4日はかなり小雨で、傘が要らないほどだった。
 まず、昨日いなかったお家を訪ねた。すると今度は息子さんがいて、事情を話すと、
 「実はつい2~3日前に調子が悪くなって救急車で運んだんです。今は入院中で。」
との事だった。時間があれば是非お見舞いをしたいところだったが、キヨちゃんが訪ねた事を手土産と一緒にことづけた。
 「おばさんお元気で、是非また来てやってください。」
息子さんはそう言ってくださった。
 次にキヨちゃんの記憶を頼りに家を訪ねた。すると、違う若い方が住んでいて、家を売って息子さん家族と暮らしているとの事だった。幸い家は近いというので、教えていただいてその家に向かった。
 その方は探している中で唯一男性。2世帯住宅の片方に奥さまといらっしゃった。突然の訪問にも関わらず、しかも泣きながら肩を抱き合って喜ぶキヨちゃんを、奥さまは気持ちよく迎えてくれ、お茶まで出そうとしてくださったが、時間が無いのでと遠慮した。
 「是非住所を・・・。」
と言われたので、
 「またお写真を託ます。」
と伝えた。
 その次は一人暮らしの方で、運よく出先から戻っていたので会う事が出来た。遠くから来た娘さんを飛行場まで車で送ってきたという。キヨちゃんくらいの年齢で、女性で運転が現役と言うのは素晴らしいと思った。
 その後、親戚の墓参りを済ませて、新水俣の駅まで送ってもらい博多に向かう。次はキヨちゃんの姉の家を福岡に訪ねる旅である。博多からは篠栗鉄道で飯塚まで行くのだが、博多まで従兄の奥さんが迎えに来てくれ、更に飯塚からは従兄が車で送ってくれる事になっていた。
 続きはまた明日。

*旅の間もリハビリをするキヨちゃん。
    

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コメント
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