顔見世や櫓の月も十五日
水原秋桜子さんの句である。
四条大橋のほとりにある南座には、出演俳優の連名がずらりと掲示される。
俗に「まねき」と呼ばれる。
顔見世のまねきがあがると、師走だなと、みんなが思うのである。
今では葵祭や祇園祭と同じくらい、日本中が知っている、京の季題である。
この興業は、次の年の顔見世だから、翌年の十二支を書く。
ですから今年のそれは、「當る卯歳」としてあった。
今年は「市川海老蔵」と書かれたまねきが、いまだ掲っているとのデマがとんだ。
私が行ったのは中日を過ぎたころだから、その看板はとっくにおろされていた。
一年を締めくくる東西大顔合わせに、開幕直前に負傷、休演した海老蔵の代役も加わり、異例の「顔見世」となった。
「羽衣」
「羽衣」は長唄の舞踊。
孝太郎の天人が、前半テンポがゆったりしていて長唄の踊りらしくない。
最後の天上へのぼるさまは、装置に新工夫をこらしているが、舞自体が体から流れ出るものがない。
対する愛之助の漁師も平凡。
「寺子屋」
スケール感に人間味を重ねた吉右衛門の松王丸。
私は当代一の松王役者だと思っている。
大いに期待して行ったが、サラサラと淡彩で格別面白いところがなかった。
さすがというところは、首実検に立つところで、ジッと首桶を見るところが父親の哀愁を肚で見せたのは無類のうまさ。
それと、後半「この身替り・・・」というところの思い入れもどことなく哀しみがにじみ出ている。
対する梅玉の源蔵は、「源蔵戻り」で七三でおこついてとまってフッと本舞台の家に気がつくところはさすがにうまい。
そのわりに芝居全体が盛り上がってこない。やはりこれも淡彩なのである。
千代の魁春は、源蔵に切かかれようとした時の、あの子が死んだなという思い入れは手慣れていて上出来。
しかし全体的に散漫。熱気に乏しい。10月の新橋演舞場の『盛綱陣屋』の篝火では大成駒を思わせる芝居を見せただけに惜しい気がする。
今回の『寺子屋』で一番感心したのは、涎くりの種太郎(←歌昇の長男、20歳)。
幕開きから、ひたすら墨をするという動作からはじまる。
つまり、これからの「ワルだくみ」を予感させる。先人のだれもがやらなかった新工夫である。しかも、古典などお構いなく現代の若者風に演じているのが見ていて面白かった。
園生の前は扇雀。「顔見世」ならではの御馳走役。
品と格が備わって丁寧に演じていた。
山三=仁左衛門 阿国=玉三郎
「阿国歌舞伎夢華」
阿国の玉三郎、山三に海老蔵代役で仁左衛門。
女歌舞伎には、春猿をはじめ猿之助一門の美形の女形が花を添える。
装置、衣装が美しいが、その美しさだけのもの。
名古屋山三は阿国の恋人といわれた実在の人物。
舞台では”幻影の人”として描かれているが、『先代萩』の仁木弾正ではあるまいし花道のスッポンからの“出”はおかしい。
歌舞伎座では本舞台の大セリからだった。
平作=我當 お米=秀太郎 十兵衛=仁左衛門
「沼津」
十七回忌の先代仁左衛門を偲び、平作の我當、お米の秀太郎、十兵衛の当代仁左衛門の松嶋屋3兄弟が揃ったのは初めてだそうだ。
3兄弟の個性が際立って、武士の勝手な論理が庶民の家族を殺すーというテーマを浮き彫りにした、いい『沼津』だった。
(2010年12月17日 昼の部 南座で所見)