「・・・・・・また新しい歌舞伎座でいっぱい夢を見せて貰いましょうよね。・・・・・それではしばしの間、
歌舞伎座とはさようなら・・・エヘン」
勘三郎さんが歌舞伎座さようなら公演の最終月、第3部『助六由縁江戸櫻』の通暁という通人に出たときのセリフである。
勘三郎にとって、これが歌舞伎座での最後の舞台となった。
平成9年から続いた「さようなら公演」は盛況だった。わけても最終月の演目『助六』の千穐楽は、チケットが早くから完売だった。
有楽町の金券ショップで、1等席が20万で売り出されているとの噂もあった。
私は松竹の関係者に「そこをなんとか・・・」と嘆願して、千穐楽の3日前にチケットを入手した。
歌舞伎座建て替えの最後の夜に、超満員の客席で「勘三郎」を見られたことを幸せに思っている。
「まだお若いのに」
誰もが口にするあまりにも若すぎる旅立ちであった。
満席の客を残し、早すぎる幕であった。
歌舞伎界のパイオニアと呼ばれ、時代に呼応した歌舞伎を夢見て走り続けた勘三郎だった。
夜中の2時に、松竹の永山会長宅に押し掛け「こんぴらで歌舞伎をやらせてくれ!!」と直訴した。
前永山会長はパンツ一つで玄関口に出てきたそうだ。
今日のように陽春4月には、四国こんぴら歌舞伎大芝居が慣例になっているが、これを再興させたのも、この時の勘三郎さんのおかげである。
また串田和実さんと組んで、若者の街渋谷コクーンで、「コクーン歌舞伎」を定着させた。
さらに仮設劇場の「平成中村座」を立ち上げた。「平成中村屋」の旗はニューヨーク、ニューギニアの海外にまではためいた。
安芸の宮島で、またあるときは鳥も通わぬ鹿児島の孤島で『俊寛』を上演するという快挙もあった。
勘三郎は交友関係も広い。銀座のバーで、ある時は浅草の居酒屋で―。
「ねえ、ねえ 歌舞伎のホン(台本のこと)書いてよ!!」 勘三郎さんの口癖だった。
「書いてくれる!? 書いてくんないの!?」
「書いてくれるんなら ビールもう一本!!」
現在演劇の牽引役である野田秀樹、三谷幸喜、渡辺えり、宮藤官太郎らに脚本を依頼して、時代の変化に対応する歌舞伎づくりを目指していた。
なかでも成功させたのが、野田秀樹さんという演劇界の奇才と組んで、最高傑作と誉れの高い『野田版 研辰の討たれ』である。
この作品こそ歌舞伎の演目として”古典”になりうるだろう。
このあたりで少々余談を。
歌舞伎に「白化け」ということばがあります。つまりあけすけに正体や真相を暴露するという意味である。
野田秀樹の『研辰の討たれ』にその「白化け」がいくつかあった。
主人公の研辰(勘三郎)が道場にいわわせた武士才次郎「(←当時勘太郎、現勘九郎)をからかう場面の一コマである。
研辰「坊ちゃま、坊っちゃまの事はわたくし、なぜかお兄様よりよっく存じております。あなた、お小さい時夜明けにタバコをた
べたことがあるんですよ。
この子はバカじゃないかと思いました(才次郎キッとなる)いや、それで私はびっくりして口の中からタバコを取り出してさしあげ
ようとしたら、あなた、私の手を噛んだんだ。しょうがないから私、逆さにして洗面所でふってあげたんだ。そのまま水に浸けて
殺しちまえばよかったんだ。そんな小さい時から知っているあなた方が私を殺す? 冗談おっしゃっちゃいけませんよ」
(注)この時の兄貴の九市郎は「阿修羅」で稼ぎまくっていたころの染五郎である。
勘三郎の”夢”はまだまだあったようだ。
一つは新しく出来上がった歌舞伎座で、親子、そして孫、中村屋三代で何か演りたい。
それと、中村屋総勢で『助六』をやってみたい。
「ギリシャ悲劇」を歌舞伎でやってみたい。
残念ながら、それらのの”夢”はかなわなかったけれど・・・・・。 残念無念はわれわれとて同じこと・・・・・。
でも、あの『研辰の討たれ』のように、歌舞伎座の二階席のうしろから―
「ばあァ・・・・・こんちわ」
と、出てくるような気がしてならない。
中村勘三郎って、そんな役者であった。
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