「馬盥」とは、馬に水をのませる桶である。
春永(←織田信長)が光秀(←明智光秀)に、馬盥で酒をのませるところがあるので、俗にこの芝居を『馬盥』という。
春永の光秀に対する態度はサディストめいているが、それだけに後の光秀の謀叛が引立つのである。
どんな世界でも、どこの会社にも、天性気の合わない人間同士はいるものだ。
この芝居の春永と光秀もそうであった。
春永は光秀をいじめぬく。それをジッと耐えている光秀。
ひと口でいえば、そんなお芝居である。
光秀には、当たり役にしている吉右衛門。春永には染五郎の代役で歌六。
光秀が愛宕山で二人の上使を斬って刀をぐっと見る凄味。圧巻である。
さすがに大歌舞伎をみた迫力である。
本能寺での幕切れ、花道七三で「魚の水を失い、鳥がねぐらを焼かれし如く」のせりふ回しのうまさは抜群。
それに『馬盥』といえば「この切髪は越路にて」の名セリフをたっぷり聞かせて堪能させてくれる。
吉右衛門という役者のスケールの大きさが演舞場という劇場(こや)の寸法にぴたりと収まった感がしてならない。
対する春永の歌六も染五郎の代役といえども、その力強さ、その明晰さ、堂々とした大きさは立派に本役である。
立派さは買うものの、もう少し男の色気がほしい。小姓に森蘭丸(←歌昇)、森力丸(←種之助)という前髪の美少年の色子がいるではないか。
完璧な出来も味がないというか面白くないものである。
世の中に明智光秀を嫌う人は数多い。
あの山本周五郎もそのひとりだった。生涯に一度も「明智光秀」だけは書かなかった。
鶴屋南北はこの『馬盥』で信長光秀確執の稗史を歌舞伎に書いた。
わたしは先に”気の合わぬ奴”が世の中にいるものだといった。もっとも性格の違い、考え方の違いもあるだろう。
春永と光秀はおそらく後者だと思う。
つまり春永にとっては、天下は自分個人のもの、光秀は万人のものだと思っている。
とすれば、この芝居は現在にも通じる古典劇にもなりうるのではないだろうか。
魁春(画像/右)の皐月は、座頭吉右衛門を向うにまわして力演である。
ことにあまり動きのない場面の出場ではあるが、スキを見せない時代物らしい生彩があって存在感が十分。
「貞女とも褒められる行いがかえって夫の難儀を招く、その無念さを出したい!!」とは魁春さんの弁。
芝雀(画像/左)の桔梗は持ち役。この人の芸域の広さに驚く。女形さんのほとんどいない播磨屋さんでは、貴重な欠かせない存在でもある。
「世の中で一番好きな人は?」の質問に、「うちの女房です!!」と即答してくれました。
切りが七世芝翫さんを偲んで『娘道成寺』。
思えば昨年の9月。同じこの新橋演舞場で淀君を演じたのが芝翫さん最後の舞台となった。
今回は長男の福助が白拍子花子である。道行はカットして、押戻がつく。
「恋の手習い・・・」の手踊りで使った手ぬぐい(←画像)を観客に投げるのが慣例なんです。
12人も出ている「聞いたか坊主(所化)」たちも袖から手ぬぐいを出して観客になげてくれる。
甲子園球場でヒーロー選手がサインボウルを観客に投げるのと同じ光景である。
その所化のなかに知った役者さんが出ていて、しかも前から5列目の私の席めがけて2本も投げてくれた。もちろん2本とも命中した。
ところが私の後席のおばちゃんが「わたしに1本戴けません?」とのお声が。失礼な!!
こういう交歓が歌舞伎の本質なのである。
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