読書日記

いろいろな本のレビュー

黒島伝治作品集 紅野謙介編 岩波文庫

2022-06-13 13:49:39 | Weblog
 最近、岩波文庫から明治・大正・昭和期の作家の作品集が出されていて、結構興味が湧く。初めに読んだのが、国木田独歩の『運命』で、その中の「画の悲しみ」は懐かしく読んだ。彼の「少年物」の作品群の代表的なものである。国木田の素朴な表現が、かえって新鮮に心に響く。そして表題の黒島伝治の作品集。これと並行して同じプロレタリア文学の『葉山嘉樹短編集』を読んだ。今なぜプロレタリア文学なのか。おそらく長引く不況の中で、生活苦にあえぐ庶民の心情にフイットする小説を読者に提供することで、為政者に対する批判的な視座を持ってもらいたいという岩波書店のメッセージでは?と思ったが、普通の市民が岩波文庫を手に取るかどうか、少し疑問だ。まして岩波文庫は小さな本屋には置いていないという現実もある。でもこの格差社会を批判的に見るためにもぜひ読んでおきたい作品集である。

 黒島伝治(1898~1943)は香川県小豆島の生まれ。旧制中学に進むことはなく、16歳で内海実業補習学校を卒業して、地元の醤油会社に醸造工として入社。19歳で上京して、一年後編集記者となり、同郷の壷井繁治(壷井栄の夫)と交遊して、早稲田大学高等予科の第二種生として入学するが、招集されてシベリア派遣となる。しかし、胸部疾患の悪化で内地に送還される。その後作家活動にいそしむが、昭和18年45歳で病没した。本書は彼の事跡に沿う形で並べられている。小説11編と随想7編、最後に壷井繁治の「黒島伝治の思い出」が載せられている。

 冒頭の「電報」は、村の貧しい自作農である源作とおきが息子を町の中学校へ行かせて学歴を付けさせようとするが、村会議員や周囲の村人たちの圧力に負けて、県立中学に合格していた息子を電報で呼び返すという話。その文面は「チチビョウキスグカエレ」であった。結局、二人は息子を入学させなかった。「息子は、今、醬油屋の小僧にやられている」という結びの一文が切ない。これは伝治自身の経験が投影しているのだろう。

 次の「老夫婦」は、東京の暮らしになじめない元「百姓」の老夫婦が描かれる。夫婦は東京の会社員である息子清三の誘いを受け、家財を処分して上京するが慣れない生活と都会の喧騒に疲れ、ばあさんは「やっぱり百姓の方がえい」とささやき、じいさんは「なんぼ貧乏しても村に居る方がえい」とため息をつく。息子・清三の妻は園子と言い、「村の旦那の娘で、郵便局の事務員をしていたが、田舎の風物を軽蔑して都会好みをする女だった。同じ村で時々顔を合わすが、近づきがたい女だった。二人は嫁がそばにいると、自分たち同士の間でも自由に口がきけなかった。変な田舎言葉を笑われそうな気がした」とある。この嫁・園子は田舎者のくせに都会人の恰好をつけたがる嫌なタイプである。じいさん・ばあさんはと言えば、「じいさん、うら(私)腹が減ったがの」「そんならなんぞ食うか」「うらあ鮨が食うてみたいんじゃ」のように方言丸出しで、恰好を付けている嫁の園子と接点を見出すことは不可能だ。結局二人は田舎に帰ることになる。なんだか小津安二郎の映画・「東京物語」を髣髴とさせるところがある。都会と田舎の問題、壊れやすい家族の問題等々、テーマは現代にも通じる。黒島の場合、小豆島方言の使い方が絶妙で、作品を身近なものに感じさせる。ある種の安定感がある。「二銭銅貨」「豚群」と田舎の農民の姿を描く作品が続く。これらも良い。その他、シベリアに派遣された兵士の苦悩を描く作品群が続く。

 これに対して『葉山嘉樹短編集』は現実の抽象度が黒島の作品に比べて高い気がする。二人はほぼ同世代であるが、葉山は福岡県の旧制中学から早稲田に進んでいるから、経済的に恵まれていたのであろう。葉山の抽象度の高さは逆に作為を凝らすという言い方も可能なわけで、黒島の土臭さと好対照を示す。社会批判の方法論としてどちらがいいとは言えない。最後は好みの問題になるだろう。葉山の「セメント樽の中の手紙」を読んでみてほしい。

ブルシット・ジョブの謎 酒井隆史 講談社現代新書

2022-06-01 11:51:22 | Weblog
 本書はデヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』(岩波書店)の訳者である酒井氏がグレーバー氏の本をパラフレイズしたもので、日本の現状にも言及されていて面白い。本書を読んでから原典へ向かえば、内容の理解が容易になるだろう。本書の副題は「クソどうでもいい仕事はなぜ増えるのか」で、これに日々悩まされている人は多い。例えば飛行機の女性添乗員、接客は大変だが、さらに愛想よくすることを求められることが多く、過度の感情労働の側面がブルシット・ジョブだと書かれている。しかし、日本では接客は愛想よくすることが当然で、添乗員もこれを唯々諾々と実行している。欧米の航空会社では中年の女性が多く、客に媚びを売るなどとんでもないという感じだが、日本ではそうはいかない。「お客様は神様です」的な仕事ぶりがサービス業では当然という発想が浸透している。

 どういう業種がブルシット・ジョブになるのか。本書ではイギリス映画の『わたしは、ダニエル・ブレイク』(ケン・ローチ監督)を例に出している。長年大工仕事をしてきた主人公が心臓発作で失職して、失業保険や給付金獲得のために煩雑な手続きを強制されて、慣れぬパソコンをいじらされたりして書類を提出するが却下されるという残酷な目に遭うという話だが、私もこの映画を見て厳しいなあという感想を持った記憶がある。著者の「価値ある仕事を地道に積み上げてきた労働者に対する、ある種の残酷な懲罰的サディズムにも見える」という言葉は大いに共感できる。役所の担当の女性職員は誠実に淡々と仕事をこなすが、それが主人公ダニエル・ブレイクを追い詰めていく過程が恐ろしい。このような失業者にいろんな書類を提出させた挙句、却下するという仕事もブルシット・ジョブだと言っている。

 イギリスの生活保護の捕捉率(実際利用している割合)は87%だが、日本では20%弱。これは正確な情報が伝えられていないのと、悪名高い窓口であれこれの嫌がらせを受けて追い返される「水際作戦」が一因で、さらに生活保護を受けるのが恥ずかしいという意識があるからだと著者は指摘する。この原因について著者は、人間は放っておくと怠けてしまうという人間観の日本における独特の根深さ、さらにそういう「怠け者」に見られたくないという精神的呪縛の強さがある。また子供や未成年に対する束縛は部活、校則、宿題等々を通してルール遵守の気風の醸成に繋がっており、それが無意味な規制や行動を長時間強いられることで「ブルシット・ジョブ」への耐性がよその国よりもあるかもしれないと言っている。このことはさらに「石の上にも三年」等のことわざによって助長されると言える。

 何が「ブルシット・ジョブ」かということになるとセンシティブでなかなか難しいところがある。「職業に貴賎なし」というのが通奏低音として流れている日本では、差別問題に抵触しかねないからだ。よって職業のカテゴライズではなく、それぞれの仕事の労働形態と時間管理の問題等が議論の対象になるのだが、扱っている問題が大きいのでうまくまとめきれない。一読をお願いします。私も原典を当たります。