読書日記

いろいろな本のレビュー

修行論 内田樹 光文社新書

2013-10-20 18:08:44 | Weblog
 内田氏は合気道七段の武道家で、哲学者でもある。こういう人は珍しい。氏によれば、武道の目的は「無敵の探求」で、「敵」とは、広義には心身のパフオーマンスを低下させるすべてのもののことであり、「私の心身のパフオーマンスを低下させるもの」即ち「我執」であると言う。そこで例に挙げられるのが、中島敦の『名人伝』である。弓の修行者がノミの心臓を撃ち抜くまでの過程を描いたもので、我執を去ることによって名人になることができた。敵を退けたわけである。
 氏の哲学者の原点はフランスの哲学者レヴイナスとの出会ったことで、爾来レヴイナス研究と合気道の修行を続けてきた。氏によれば、この二つの間には共通するものがあり、それは、このどちらもが、人間の生身の身体感覚の上に構築された体系であるということだ。信仰も修行も、人間の生身においてのみ開花する。
 レヴィナスはユダヤ人としてナチスの迫害を受けたが、ホロコーストに神が救いの手を差し伸べなかったことについて「唯一なる神に至る道程には神なき宿駅がある」と述べている。内田氏は、この「神なき宿駅」を歩むものの孤独と決断が信仰の主体性を基礎づける。この自立した信仰者をレヴィナスは「主体」あるいは「成人」と名づけた。秩序なき世界、すなわち善が勝利しえない世界において、犠牲者の位置にあることが受難であり、そのような受難が、救いのために顕現することを断念し、すべての責任を一身に引き受けるような人間の全き成熟を求める神を開示するとレヴィナスの見解をまとめている。神は人事に関わらないことのレヴィナス流の言い方である。神を求めるのはかくも困難なものなのだ。またレヴィナスは、戦争と粛清と強制収容所の歴史的経験から、悪とは「人間的スケール」を越えることだと言う。曰く「個人的な慈悲なしでも私たちはやっていけると考える人がいます。慈悲の実践には個人的な創意が必要なのですが、そんなものはなくてもよいのだ、と。そのつど個人的な慈悲や愛の行為を通じてしか実現できないものを、永続的に法律によって確実なものにできると考えること、それがスターリン主義です。スターリン主義は正しい意図から出発しましたが、管理の暴力のうちに崩れ落ちてしまいました」と。
 制度としての正義と個人に対する慈愛は同時に成立しないことの例証としてこの言葉を肝に命ずる必要がある。内田氏に導かれてレヴィナスを読みたくなった。

ナマケモノに意義がある 池田清彦 角川新書

2013-10-12 09:06:16 | Weblog
 まえがきによれば、ナマケモノとは南米のジャングルに生息する哺乳類で、ミツユビナマケモノとフタユビナマケモノの二種類あるが、一生のほとんどを樹にぶら下がって過ごし、動きものろいためにナマケモノという名がついたらしい。日中はほとんど動かず、食べる餌と言えば、一日に8グラムの葉しか食べない。一週間に一度のろのろと樹から下りてきて根元で排泄し、土をかぶせて、またのろのろと樹上に上っていく。糞は樹の栄養になるのでリサイクルにもなっている。睡眠時間は20時間で、人間の3~5倍。天敵のジャガーに襲われないためには動かないことが一番の安全策なのかもしれない。まじめな働き者の人間からみると、一体何しに生まれて来たのかと思うだろう。
 本書は生物学者が昨今の資本主義に取り込まれて金のために忙しく立ち働き、自己啓発に疲れた人間に対して、「池田流・怠けのすすめ」を提示したものだ。曰く、・太古の人類は一日3時間しか働かなかった。・働くことが嫌いな人は社会の潤滑油になっている。・死と引き換えに生の楽しみはある。・「努力は報われる」という信仰は捨てよ。・あなたは「かけがえのない存在」ではない。・「あきらめる力」があると可能性が広がる。等々。
 これらは学校現場ではタブー視されていることばかりで、いまの教育は上記の事柄の反対の内容を生徒に摺りこんで、一人前の社会人に仕立てようとしている。著者の視点から見ると、教育とはことの本質を回避して体制順応の人間を作り出す営為ということになるだろう。人間を学校に囲い込んできたのが近代という時代だが、そのために社会が息苦しくなったことは否めない。だからこそ、こういう本が書かれるのだろう。著者の言葉はいろいろ興味深いが、「動物は恐怖を感じるが、不安は感じない」というのが印象に残った。確かに動物は自殺しないことからもわかる。不安からうつ病を発症し、自死に至ることが人間世界では多いが、その連鎖を断ちきる方法は無いものか。