太平天国の乱は清末の1851年に起こった反乱で、洪秀全を天王としキリスト教の信仰を紐帯とした組織太平天国によって起こされた。「長髪族の乱」とも言われる。南京を攻略してここを天京(てんけい)と改名し、太平天国の王朝を建てた。十四年間で死者は2000万人超という大乱であった。洪秀全は広州の客家の出で、1837年両親の期待を背負って科挙の試験を受けたが失敗、帰宅途中で落胆のあまり熱病に倒れた。意識を失った洪秀全は、天上に昇って五臓六腑を詰め替えられ、金髪に黒服姿の「至尊の老人」からこの世を救えと命じられる夢を見た。このような事例は当時洪秀全以外にもあったそうだが、彼の場合夢の内容をキリスト教と結び付けていったことが特徴である。
この幻夢の体験から6年後再び科挙の準備をしていた洪秀全は、以前もらったまましまいこんでいたプロテスタントの伝導パンフレットを読んで衝撃を受けた。このパンフレットは『勧世良言』と言い、初期の中国人信者であった梁発が書いたものであった。中身は、科挙に失敗したのは偶像を拝んだ結果であり、儒教・仏教・道教などの偶像崇拝をやめて真の神を尊敬せよと説く内容に深く感動して、あの夢の「至尊の老人」の老人はキリスト教の神ヤハウエであったに違いないと確信した。そこでヤハウエを中国の古典で最高神を意味する「上帝」に置き換えて、「上帝会」を組織して布教を始めた。洪秀全は、中国歴代の皇帝は上帝ヤハウエを冒涜する偶像崇拝者であり、清朝を打倒して「いにしえの中国」を回復すべきだという主張を導き出したのである。
清朝を打倒して「いにしえの中国に帰る」という復古主義は本来革命運動のスローガンにはなりえないのであるが、清朝に不満を持つ分子を糾合して大きな勢力を持つに至った。「偶像崇拝を打破する」で思い出したのは文化大革命である。過去の権威主義を打破して、共産主義革命を遂行する。その過程で反革命分子を粛清するというのは一つの流れとして続いているのではないか。当時聖人の孔子を批判するというキャンペーンがあった。これもよく似ている。キリスト教の殻をかぶったこの集団は、洪秀全と彼を支える五人の王の共同統治体制を敷いた。これは今の中国共産党の政治局委員を連想させる。また彼らが作った「天朝田畝制度」は田畝があれば誰もがそこで耕し、収穫物は皆で分け合い豊かな衣食をを手に入れるという目的のために考案された制度だが、これも共産主義的発想だ。結局この制度は施行されなかった。そして彼の臣下で「弟」だったはずの楊秀清はシャーマンとして「天父下凡」(自分の体に唯一神が降りる)を行うと洪秀全の「父」として絶対的な権力を振るった。そして楊秀清の恣意的な権力行使に不満が高まると彼は「万歳」の称号を要求して洪秀全の宗教的な権威を侵犯した。これに逆上した洪は楊秀清の殺害を命じて天京事変が起こり、楊秀清ゆかりの人間を大殺戮したのであった。これも革命政党を自称する集団がよくやる権力闘争の図である。太平天国の場合そこにカルト集団的要素が加わっている。
洪秀全は偶像崇拝を打破して上帝会を組織して運動したが、自分自身が偶像になっていくことに抵抗がなかったようだ。本書に掲載された「復元された洪秀全の玉座」の写真を見ると、これは彼が批判した皇帝の玉座そのものである。まさに金ぴかだ。そして彼をはじめとする太平天国の諸王が蜂起当初から多数の妻を持っていたことが書かれている。洪秀全は最初は36人の妻を持っていたがその後、南京入場後は88人に増えた。楊秀清は36人だったという。いずれも美しい娘を妃として宮廷に入らせた。これは毛沢東が延安に長征する過程で女優上がりの江青を寵愛し、後に中南海の本部で、女漁りをしていたことを思い出させる事例である。権力は腐敗する典型例である。
清朝側は曽国藩が義勇軍の湘軍を率いて太平天国の鎮圧に勉めた。結局1864年に南京に立てこもった洪秀全が病死して湘軍が南京を占拠して太平天国は滅亡した。夏草や兵どもが夢のあと。中国共産党はこの大乱の意味を学んで、政局の行く末を展望する必要がある。このままでは同じ轍を踏みかねない。
この幻夢の体験から6年後再び科挙の準備をしていた洪秀全は、以前もらったまましまいこんでいたプロテスタントの伝導パンフレットを読んで衝撃を受けた。このパンフレットは『勧世良言』と言い、初期の中国人信者であった梁発が書いたものであった。中身は、科挙に失敗したのは偶像を拝んだ結果であり、儒教・仏教・道教などの偶像崇拝をやめて真の神を尊敬せよと説く内容に深く感動して、あの夢の「至尊の老人」の老人はキリスト教の神ヤハウエであったに違いないと確信した。そこでヤハウエを中国の古典で最高神を意味する「上帝」に置き換えて、「上帝会」を組織して布教を始めた。洪秀全は、中国歴代の皇帝は上帝ヤハウエを冒涜する偶像崇拝者であり、清朝を打倒して「いにしえの中国」を回復すべきだという主張を導き出したのである。
清朝を打倒して「いにしえの中国に帰る」という復古主義は本来革命運動のスローガンにはなりえないのであるが、清朝に不満を持つ分子を糾合して大きな勢力を持つに至った。「偶像崇拝を打破する」で思い出したのは文化大革命である。過去の権威主義を打破して、共産主義革命を遂行する。その過程で反革命分子を粛清するというのは一つの流れとして続いているのではないか。当時聖人の孔子を批判するというキャンペーンがあった。これもよく似ている。キリスト教の殻をかぶったこの集団は、洪秀全と彼を支える五人の王の共同統治体制を敷いた。これは今の中国共産党の政治局委員を連想させる。また彼らが作った「天朝田畝制度」は田畝があれば誰もがそこで耕し、収穫物は皆で分け合い豊かな衣食をを手に入れるという目的のために考案された制度だが、これも共産主義的発想だ。結局この制度は施行されなかった。そして彼の臣下で「弟」だったはずの楊秀清はシャーマンとして「天父下凡」(自分の体に唯一神が降りる)を行うと洪秀全の「父」として絶対的な権力を振るった。そして楊秀清の恣意的な権力行使に不満が高まると彼は「万歳」の称号を要求して洪秀全の宗教的な権威を侵犯した。これに逆上した洪は楊秀清の殺害を命じて天京事変が起こり、楊秀清ゆかりの人間を大殺戮したのであった。これも革命政党を自称する集団がよくやる権力闘争の図である。太平天国の場合そこにカルト集団的要素が加わっている。
洪秀全は偶像崇拝を打破して上帝会を組織して運動したが、自分自身が偶像になっていくことに抵抗がなかったようだ。本書に掲載された「復元された洪秀全の玉座」の写真を見ると、これは彼が批判した皇帝の玉座そのものである。まさに金ぴかだ。そして彼をはじめとする太平天国の諸王が蜂起当初から多数の妻を持っていたことが書かれている。洪秀全は最初は36人の妻を持っていたがその後、南京入場後は88人に増えた。楊秀清は36人だったという。いずれも美しい娘を妃として宮廷に入らせた。これは毛沢東が延安に長征する過程で女優上がりの江青を寵愛し、後に中南海の本部で、女漁りをしていたことを思い出させる事例である。権力は腐敗する典型例である。
清朝側は曽国藩が義勇軍の湘軍を率いて太平天国の鎮圧に勉めた。結局1864年に南京に立てこもった洪秀全が病死して湘軍が南京を占拠して太平天国は滅亡した。夏草や兵どもが夢のあと。中国共産党はこの大乱の意味を学んで、政局の行く末を展望する必要がある。このままでは同じ轍を踏みかねない。