読書日記

いろいろな本のレビュー

余命半年 大津秀一 ソフトバンク新書

2009-05-30 17:31:10 | Weblog

余命半年 大津秀一 ソフトバンク新書



 「あなたの余命はあと半年です」---もし、あなたが突然そう宣告されたら、どうするか。これが本書のテーマ。残り半年と言われた場合、最後の一月はほぼベッドで寝たきりになるから、やりたいことをする時間は非常に少ない。元気に繁華街を闊歩できる可能性は低いので、本当にどうしようもない感じだ。
 この本のテーマは終末医療(緩和医療)だ。最後まで病魔と闘うよりは、あっさり諦めて死を迎えるほうが、人生としては充実したものになるというような言い回しだが、オイオイ医者がそんなこと言っていいのかいというのが、私の第一感。「死の心得」を医者に説かれるなんて御免被りたい。死を説くのは宗教者じゃないのかい。壮絶にガンと討ち死にというのもアリだと思う。「満ち足りた人生の終わり方」という副題がついているが、これも高みからのご高説ぽくってイヤだ。オレは最期まで諦めへんぞ。

石原慎太郎よ、退場せよ! 斉藤貴男・吉田司 洋泉社新書

2009-05-30 17:08:53 | Weblog
 石原慎太郎のスノッバリーはもう飽きた。上流階級でも無いのにそのふりをする、社会的弱者を軽蔑し差別するそのまなざしの奥には、人生の黄昏を迎えた人間のどうしようもない寂しさが窺える。普通なら世間に後ろ指を指されない様に謙虚に振舞おうとするものだが、どうも諦めがつかないようだ。そのうちに晩節を汚すような不始末をしでかす気がする。
 本書はその石原に退場勧告したものである。地位利用による身内の繁栄。反動的な教育施策。新銀行東京の失敗。社会的弱者切捨て政策。オリンピック誘致運動等々。東京都民はどうしてこのような人物を選ぶのか。大阪府知事、宮崎県知事、千葉県知事。この国の民はテレビで写っている人間を無批判に指導者にしたいメンタリティーがあるのか。全くわけが分からん。自分で思考しない人間が増えるとその社会は全体主義に取り込まれるとハンナ・アーレントは言っている。(仲正昌樹の近著『今こそアーレントを読み直す』講談社現代新書 はアーレントの解説書として秀逸)大宅壮一のテレビによる一億総白痴化の指摘は時代を超えて真理に近づきつつある。メディアによる大衆煽動は本格化の兆しあり。要注意だ。

追跡・アメリカの思想家たち 会田弘継 新潮選書

2009-05-24 08:38:00 | Weblog

追跡・アメリカの思想家たち 会田弘継 新潮選書



 アメリカに思想家はいないと最近まで思い込んでいたが、そうではないことが本書を読んでわかった。アメリカの思想は基本的にリベラリズムという言葉でまとめられてしまう側面があり、基本的には自由主義の養護という一点に収斂されてしまうつまらなさを感じていたというのが正直なところである。
 取り上げられている思想家は、ラッセル・カーク、レオ・シュトラウス、ジョン・ロールズ、ウイリアム・バックリーら11人である。フランシス・フクヤマも最後のつけたしで入っている。全体の力点は保守の側にあり、アメリカの保守思想の諸相という内容になっている。その保守思想とは、近代の合理主義に対する懐疑である。即ち、自由主義、個人主義、功利主義、プラグマチズム、資本主義に対する懐疑だ。これを説いたのがラッセル・カークで、戦後保守思想の源流と著者は定義している。キリスト教原理主義、南部農本主義、共同体主義にも、近代に対する懐疑が濃厚に備わっている。
 その中で、共同体主義のロバート・ニスベットの思想は現代のアメリカの抱える問題を理解する鍵となるような気がする。彼の代表作『共同体の探究』(1953)で、西洋近代の歴史は、「中世社会の家族の絆が根こそぎにされ、村が崩壊し、手工業職人らが行き場を失い古くからある社会保障の絆がずたずたにされて」きた過程に他ならないが、「合理主義の使徒たちは、それを『進歩』の不可避のコストだという」と批判する。
 ニスベットは、家族や小さな共同体、あるいは教会を中心とした信仰者の集まりなどを国家(社会)と個人の間の「中間社会(結合)」と呼ぶ。それらが、「遠い昔から」担ってきた心理的役割とともに消えつつあることこそが、現代社会の危機の根源だと主張した。人が働き、愛し、祈り、善と悪や罪と清浄を実態として感じ取り、自由と秩序を守ろうとするかどうかは、この中間社会の帰趨にかかっている。共同体の無いところに真の自由はない、という。
 ニスベットはこの原因をルソーやホッブスの近代啓蒙思想にあると見た。彼らの「個人と国家」の社会契約という理論が中間社会の問題を抜かしてしまい、「砂粒のようにばらばらになった」個人とそうした砂粒の個人を支配する強い政治力を持った国家という関係に導いたと考えたのだ。フランス革命とその後に現われた社会こそが、まさにそれであるとニスベットは考えた。平等主義の専制は、一方でロシア革命を引き起こし、他方でナチズム、フアシズムへと至り、砂粒のようにばらばらになって孤立する個人の上に、巨大な「合理的で科学的」な国家が立ち上がる。全体主義国家の誕生だ。これが彼の近代史観だ。
 全体主義の誕生の説明は普遍性を持っているのではないか。ばらばらになった個人の上に強い国家、為政者が出現する時のメカニズムはまさにこの通りだ。自由主義国家アメリカは、強大な軍事力と経済力を持つという意味で「帝国」だ。共産主義国家の中国も「帝国」と言える。アメリカは自身が全体主義国家の様相を呈していることを感じなければならない時期に来ているのではないか。

皇軍兵士の日常生活 一ノ瀬俊也 講談社現代新書

2009-05-23 09:53:25 | Weblog

皇軍兵士の日常生活 一ノ瀬俊也 講談社現代新書



 近年「強制的同質化」という概念が日本近現代史研究で提起されているようだ。長い戦争で皆がいったん貧しくなったことにより既存の社会構造が壊れ、戦後の高度成長を経て一億総中流と言われるような「平等」社会が実現したと言う議論である。その平等化を推進したのが日本軍の兵士のありようで、旧軍は金持ちも貧乏人も平等で不公平が無かったとよく言われる。丸山真男が象牙の塔から徴兵されて、小学校卒の農民出身の古参兵にビンタを食らわされたという話はそれを裏付ける証としてよく持ち出されるが、著者は疑問だと言っている。高学歴の兵士はそれなりに優遇されていたと。この兵士平等神話にメスを入れたのが本書である。
 まず階級制度。軍隊に於いては絶対的なものと見られているが、古参兵が上官の命令をきかないことも間間あったらしい。特に戦争の長期化で規律が乱れていった場合、古参兵が朝の点呼にも出ず、暴力で上官を脅す「兵隊やくざ」がいたという例をあげている。また食事や応召手当ても差があった。将校と一般兵士の食事について、カロリン諸島のメレヨン島では、約6500人の将兵のうち約4500人が餓死・病死した。その島の1945年1月10日の食事は、兵士1日150グラムに対し、将校は300グラムだったという。応召手当ても、三菱商事や三井物産の社員であった場合、給料を全額保障した。しかし農民兵士には何もなかった。働き手を取られた小農の家庭は途方に暮れるばかりだった。
 私が面白いと思ったのは、戦死したあと遺骨が家族もとに送られてくるが、墓の大きさ、戒名まで当局が指定したという話。これは海軍の行為だが、貧富の差によって指示したようだ。格差問題の淵源は皮肉なことに皇軍の中にあったのだ。なんと皮肉なことではないか。自衛隊も多分皇軍以上の格差がはびこっているだろう。辞任した守屋次官の業者との癒着を見れば、隊内の腐敗は相等に進んでいると見なければならない。航空自衛隊のもと幹部、田母神幕僚長の言動を見れば、隊内の知性の低下も相等に進んでいると見なければならない。したがって、ふやけた若者を自衛隊で鍛える必要があるという保守系政治家・文化人の発言はまさに愚の骨頂と言わなければならない。

「規制改革」を利権にした男宮内義彦 有森隆 講談社文庫

2009-05-16 08:18:55 | Weblog
 オリックス会長・宮内義彦の悪業が天下に露見したのは、日本郵政が所有する「かんぽの宿」を格安の価格でオリックス不動産が購入する計画が、鳩山邦夫総務大臣によって待ったをかけられた事件によってである。日本郵政社長と宮内はもと総務相の竹中平蔵を介しての友人で、この一括譲渡契約は出来レースだと鳩山総務相は批判した。悪代官風の鳩山が声高に、改革利権の臭いを批判したものだから余計に世間の注目を浴びた。本書は竹中平蔵とともに小泉構造改革の旗振り役を務めた、宮内義彦の「改革利権商法」を暴いたものだ。
 小泉内閣の構造改革はアメリカの外圧によって実行されたという側面を正しく理解しておく必要がある。アメリカの貿易赤字を減らすために日本も多いなる貢献をせよという脅迫にイエスといったわけだ。このとき反対したのが石原慎太郎で、ソニーの井深大会長と「ノーと言える日本」という本を出して、政府の弱腰を批判したのは記憶に新しいところだ。この外圧をグローバリゼイションと言い換えて、郵政民営化をはじめとして多くの規制のをし、アメリカの日本蚕食に手を貸したのが、構造改革派である。ところが小泉退陣後、この改革によって経済格差が広がり、まさにミニアメリカの状態になるに及んで、改革派に対する風当たりが急に強くなった。中谷巌などは「あれは間違いだった」という自己批判の書を出して、これがベストセラーになるという状況になっている。竹中平蔵は相変らず「まだまだ改革が足りない。規制が多すぎる」と強気の発言を繰り返しているが、昔日の勢いはない。
 蓋し、人間が生きていくうえで、人様に後ろ指を指されるなとはよくいわれることである。最低限のモラルを守る事が、人間の品格を決定するのだ。大江健三郎のよく言う「ディセンシー」である。また何かの拍子で権力を握った場合でも、行使する場合は最新の注意が肝心だ。「李下に冠を正さず。瓜田に靴を入れず。」の心を忘れるべきではない。宮内の所業はこの心を忘れたが故の結果である。著者も言う通り、一刻も早く退陣すべきだ。このままでは晩節を汚すことは必定。恥を忘れた人間に救いはない。

集中講義!アメリカ現代思想 仲正昌樹 NHKブックス

2009-05-10 14:50:51 | Weblog

集中講義!アメリカ現代思想 仲正昌樹 NHKブックス



 アメリカ哲学と言えばジョン・デューイなどのプラグマチズムが高校の「倫理社会」の教科書に申しわけ程度に紹介されるくらいだった。プラグマチズムとはヨーロッパの伝統的なスタイルの哲学とは一線を画し、予め設定された既成概念抜きに、人間の現実の「経験」に即して思考しようとする。「精神」と「物質」のいずれにも絶対的なリアリティを付与せず、「物質」や「精神」のような基本的なものを含めて、全ての概念を仮説的、暫定的なものとみなす。そのため伝統的な哲学・思想の学徒と相性が悪いだけでなく、「物質」の運動の絶対的客観性に対応する不動の「真理」を追求しようとするマルクス主義者とも相性が悪い。ラディカルな「革命」を志向するマルクス主義者たちからは、絶対的な「真理」に対応した「理想」を措定せず、「行為の結果」を見ながらやり方を変えていくというデューイの漸進的改良主義は資本主義との妥協に見えてしまう。したがってマルクス主義のようなラディカリズムが影響を発揮できる知的風土がアメリカには無かったということができ、別の言い方をすれば、共産主義あるいはマルクス主義を思想的に許容することができない「自由主義国家」という矛盾した存在になったということになる。以上は著者が序文で書いていることだが、アメリカにおける共産主義の低迷の原因を見事に説明している。このアメリカで共産主義の方法を取らずに自由と平等を実現するにはどうすればよいか。それを思索したのが、ジョン・ロールズである。彼の「正義論」をもとに「リベラリズム」の定義をめぐる論争を年代記風にまとめたのが、本書の内容だ。
 アメリカは自由と平等の国だが、そこでこの二つを両立させようというロールズの主張はある種の衝撃を与えた。それはそうだろう。自由に活動して築いた富は自分の物であり、そのことを不平等といわれたらたまらない。その後、ロールズは「正義」を「公正さ」と捉え直して、「ルールを守ることの哲学的意味」へと焦点をシフトし、みんながある特定のルールを「フエア」なもの、つまり「正義」にかなったものとみなして受け入れることのできる条件を探求するようになった。マルクス主義によらない平等社会の実現というテーマは困難を極めるが、それに向かって思索したロールズは賞賛に値する。共産主義は結局全体主義と同じだという事がわかって、崩壊したがロールズはこれを予見していたのではないかと思わせるところがすごい。アメリカのやり方がグローバリズムの代名詞という時代であればこそ、ロールズの思想は今一度見直されるべきときに来ているのではないか。

神の国 アメリカの論理 上坂昇 明石書店

2009-05-06 15:25:28 | Weblog

神の国 アメリカの論理 上坂昇 明石書店



 副題は「宗教右派によるイスラエル支援、中絶・同性結婚の否認」である。アメリカの宗教右派については前に書いたが、本書は上記の三点について詳細に論じている。何度も書くが、アメリカは日本のような世俗主義の国とはほど遠い宗教国家であるということ。その中でキリスト教プロテスタント右派は三点について、懲りることなく政治的影響力を行使していることが、改めてわかる。
 この右派がイスラエルを支持することに関して、本来キリスト教とユダヤ教は別なのだが、イスラエルと対立するイスラム教陣営に対する嫌悪感から、旧約聖書の字句を強引に、拡大解釈していわばクリスチャン・シオニズムというものを展開している。古典の現代的解釈は現に慎むべきものだが、右派はこれを堂々とやっているのだ。このデリカシーの無さは、アメリカの欠点として確実に指摘できる。
 中絶・同性結婚の禁止というのも、彼らの年来の主張だが、これも聖書の文句を厳密に守ろうという一種のリゴリズムである。中絶に関しては、1973年3月1日、連邦最高裁は「妊娠三ヶ月以内の妊娠は、担当医が承認すれば妊娠中絶手術を受けることができる。各州政府はこれを禁止することはできない」という歴史的判決のロウ対ウエイド事件判決を下した。これに最初に異を唱えたのはカトリック教会であった。プロテスタントの主流教会は当時この判決を支持していたが、90年代になって、宗教右派が台頭するにつれて、政治問題になり、現在に至っている。彼らはあらゆる機会をとらえてこの判決を覆そうと躍起になっている。この議論の中ではどこからが人間といえるのかということが問題になっており、非常に瑣末で滑稽な展開になっている。産むか産まないかは個人の自由の問題だということと神から授かった命を大切にしなければならなという事は二項対立ではなくて、融合できる問題だと思うが、実際はそうもいかないようだ。宗教的人間の怖さはここら辺にあると思う。どうだっていいじゃないかという言葉が通じないのだ。同性結婚も本人の自由じゃないか。自由の国アメリカでなぜそんなことが問題になるのか。バッカじゃなかろか。


チベット侵略鉄道 A・ラストガーテン 集英社 

2009-05-06 14:37:55 | Weblog

チベット侵略鉄道 A・ラストガーテン 集英社
 


 北京オリンピック前のチベット騒乱は起こるべくして起こったという感じだった。その予兆を抱かせたのは、青海ーチベット鉄道の開通である。チベットの鉱産物の開発と対インドを始めとする軍事的要塞の充実が、この鉄道建設の目的だと思われるが、チベット人の自治をないがしろにしたまさに帝国主義的な統治であり、民族・宗教のアイデンティティーを無視した暴挙といわねばならない。開通によって漢民族の資本主義的価値観・風俗がチベットを席巻し、まさに植民地統治を思わせる状況が現出した。NHKがこれを取り上げ、漢人のホテル経営者が、現地の若者を酷使する姿を写していた。また、宿泊客のために仏教寺院の僧侶にホテルでお経を唱えさせるアトラクションを見せられるに及んで、これは何ぼなんでもやりすぎだと怒りが湧いてきた。これは漢人が以前西欧列強にやられたことを、自身がチベット人にやっている事で、中国共産党の面目はどこへ行ったのか。誠に悲しいことである。
 本書は1970年代からあった、この鉄道計画を追うことによって、中国のチベット侵略の実態を分かりやすく描いている。永久凍土層に線路を敷設すると、その熱で氷が解けて重大な事故を招く可能性を指摘しているが、その問題を全面解決した上で開通したわけではない。よって事故のリスクは非常に高い。鉄道の開通で人民軍兵士はいとも簡単にラサへ駐屯できるようになったが、このままではチベット人の民族自決の機運は治まらない。胡錦濤国家主席はチベット自治区の書記を卒なくこなして出世したが、統治の実態は誠に厳しいものであった。一見すると、漫才師のサンキューに似たとぼけた顔で、相手をほっとさせるが、こういう人間こそ返って怖いのだ。エベレストにどうやって列車を入れたんでしょう。ほんとうに。

中国貧困絶望工場 A・ハーニー 日経BP社

2009-05-04 07:18:36 | Weblog

中国貧困絶望工場 A・ハーニー 日経BP社



 原題は「The China Price」。このほうが分かりやすい。邦題はいかにもという感じでいやだ。低価格の製品を世界に供給し続ける中国の工場の実態をルポしたもので、そのカラクリが明かされる。中国は人件費が安いので低価格を維持できるというのは昔の話。最近は労働者の側で権利意識が芽生え、人件費も高騰しつつある。その中で低価格の商品を生み出すためには、農村からの出稼ぎ労働者に苛酷な長時間労働を強制し、ピンハネによる搾取が必要条件になる。生産手段を持つものとそうでないものの格差は深刻で、冨の偏在はこの国の大きな問題になりつつある。
 世界の有名企業は傘下の中国の工場で、コンプライアンスの遵守を求めて労働実態の検査をしているが、それも抜け道が多くて、労働条件の改善は絶望的という。中央政府の指示が地方政府に満足に行き渡らないのが、中国の特徴だ。ここではどこかの知事が声高に叫んでいる「地方分権」がバッチリ実現されて、民は地方のゴロツキ政治家と悪徳資本家によってギュウギュウ言わされているのである。中央官僚を悪、地方の政治家を善とする二項対立の図式化は無知な大衆には効果があるかも知れないが、ものの分かった人間には通用しない。
 人治主義の国がまともな法治主義になって、コンプライアンスが実現されるまでにはまだまだ時間がかかりそうだ。最近も世界から中国国内に輸出するIT関係の製品の資料を提供しなければ、輸入させないという問題が大きく取り上げられていたが、著作権という発想がないこの国ならではの言いがかりと興味深く感じた次第。
民の拝金主義と出世主義の実態と共産党の独裁とはかなり齟齬をきたしており、そのうち機能停止状態になることは間違いない。十四億の民は時の権力者が共産党であろうと国民党であろうと「そんなの関係ない」という意識で、たくましく生きていくのだ。彼らと二十一世紀を共存する為には、我々も戦略をしっかり立てておく必要がある。

中国貧困絶望工場 A・ハーニー 日経BP社

2009-05-04 06:41:17 | Weblog
 原題は「The China Price」。このほうが分かりやすい。邦題はいかにもという感じでいやだ。低価格の製品を世界に供給し続ける中国の工場の実態をルポしたもので、そのカラクリが明かされる。中国は人件費が安いので低価格を維持できるというのは昔の話。最近は労働者の側で権利意識が芽生え、人件費も高騰しつつある。その中で低価格の商品を生み出すためには、農村からの出稼ぎ労働者に苛酷な長時間労働を強制し、ピンハネによる搾取が必要条件になる。生産手段を持つものとそうでないものの格差は深刻で、冨の偏在はこの国の大きな問題になりつつある。
 世界の有名企業は傘下の中国の工場で、コンプライアンスの遵守を求めて労働実態の検査をしているが、それも抜け道が多くて、労働条件の改善は絶望的という。中央政府の指示が地方政府に満足に行き渡らないのが、中国の特徴だ。ここではどこかの知事が声高に叫んでいる「地方分権」がバッチリ実現されて、民は地方のゴロツキ政治家と悪徳資本家によってギュウギュウ言わされているのである。中央官僚を悪、地方の政治家を善とする二項対立の図式化は無知な大衆には効果があるかも知れないが、ものの分かった人間には通用しない。
 人治主義の国がまともな法治主義になって、コンポライアンス実現されるまでにはまだまだ時間がかかりそうだ。最近も世界から中国国内に輸出するIT関係の製品の資料を提供しなければ、輸入させないという問題が大きく取り上げられていたが、著作権という発想がないこの国ならではの言いがかりと興味深く感じた次第。
民の拝金主義と出世主義の実態と共産党の独裁とはかなり齟齬をきたしており、そのうち機能停止状態になることは間違いない。十四億の民は時の権力者が共産党であろうと国民党であろうと「そんなの関係ない」という意識で、たくましく生きていくのだ。彼らと二十一世紀を共存する為には、我々も戦略をしっかり立てておく必要がある。