副題は「二つのクーデターと史上最大級の惨劇」である。二つのクーデターのその一とは、1965年9月30日の夜、大隊長ウントウン陸軍中佐に率いられたスカルノ大統領の親衛隊チャクラビラワ連隊配下の軍人たちが、7人の陸軍将軍の家を襲い、その場で彼らを射殺、あるいは生きたまま連行した。国防大臣のナスティオン大将は避難して無事だったが、副官と6歳の娘が犠牲になる。拉致された者も後に遺体で発見され、犠牲者は計8人にのぼった。決起部隊は、自らを革命評議会と名乗り、襲われた将軍たちが大統領を倒す計画を立てていた故、それを未然に防いだのだと述べた。翌日スハルト少将率いる陸軍戦略予備軍司令部が素早く反撃して、革命評議会の部隊を粉砕した。スハルトはこの事件をインドネシア共産党(PKI)によって仕掛けられたもので、反革命的クーデターだと位置づけた。当のスカルノはこれを事前に知っていたのかどうか、大事なところだが真相はいまだ不明だ。ただスカルノがデヴィ夫人に宛てた手紙には彼が事件のことは全く知らず、非常に驚き、ときには途方に暮れている様子が窺われると著者は言う。そして著者は、PKIの総意ではないが、やはりごく一部の幹部が関与し、陸軍の容共派と共謀して決起したのではないかと言っている。(スカルノ自身は容共の姿勢を保っていた)
その二とは、9,30事件から半年たった1966年3月11日、権威を失っていたスカルノに代わって反共の軍人スハルトが無血クーデターを成功させた3,11政変を言う。この一年後スカルノは正式に大統領の地位を追われ、1968年3月にスハルト大統領が誕生する。この権力奪取のプロセスは、手の込んだ形でゆっくり時間をかけて進行したため、「這うようにして進められたクーデター」とも称される。
この権力闘争の裏で200万人もの市民が共産主義者の一掃という名のもとに、共産党のシンパとみなされ残酷な手口で殺された。これに対して諸外国の対応は冷淡であった。アメリカはもともと共産党に対してアレルギーがあったので、期待できないにしても、ソ連と中国の対応は冷淡としか言いようがないものだった。著者によると、ソ連は経済的に苦しく、インドネシアとの貿易が途絶えることが不安で、あえてスハルトとことを構えることを避けた。中国は文化大革命の影響で、国力そのものが弱体して手を差し伸べる余裕がなかったからだと分析している。
それにしても200万人が犠牲になるとはただ事ではないが、これを実行したのは軍とつながった地元の反共の青年団やヤクザ、イスラム教系団体の青年組織であったことは驚きである。殺戮を主導したこれらの人々は、王朝時代の死刑執行人を意味する「アルゴジョ」という呼び名で恐れられた。国軍は共産主義者を殺すことは「お国のため」「公的な利益のため」という世論を作って殺害を助長させた。
2014年に「アクト・オブ・キリング」という映画が公開されて話題を呼んだ。中身はこの虐殺に加わった人間にその殺害の模様を再現して映画にするというものであった。彼らはいまでも罪に問われることはなく、平穏に暮らしている。そしてこの殺人を反省している風でもなく、むしろ自慢している風であった。血がでないように針金で首を絞めて殺す場面を語るところは衝撃的だった。ところが主人公アンワルが映画で被害者を演じるうちに自分のやったことの重さを自覚し涙を流すというラストは印象的だった。
インドネシアは島が多く部族も多いので、国家として統治するには苦労が多いところである。そこで地元の有力者が政治家になって治めるのだが、彼らの多くはヤクザやその流れをくむ青年団出身である場合が多い。前近代の国家の通弊だが、インドネシアはこれに当てはまる。従って民主的な政治を実現するには多くの壁がある。これは夙に岡本正明氏が『暴力と適応の政治学(インドネシア民主化と地方政治の安定)』(京大学術出版会)で指摘されている通りである。このような状況下で、共産党に対する弾圧が地方の課題として軍の指導の下徹底的に行われ、疑いをかけられた膨大な数の市民が犠牲になったのだ。その様子は第二章の「大虐殺ーー共産主義者の一掃」に詳しく書かれている。著者自身虐殺者にインタビューを試みているが、聞くに忍びない話である。
さて著者は先述の映画のパンフレットに、「「アクト・オブ・キリング」の背景」という一文を載せ、わかりやすく解説しているが、本書では、この映画に言及していない。少しでも触れておくべきだったというのが実感だ。岡本氏の指摘の通り、インドネシアの地方政治からヤクザを排除するのは容易でない。彼らは地元の生活にしっかり根を生やして住民を巻き込んでいるからだ。日本のように田舎に団地ができて、近代化・都市化するというのとは話が違うからだ。地方分権の強烈な形が出ているとも言える。
その二とは、9,30事件から半年たった1966年3月11日、権威を失っていたスカルノに代わって反共の軍人スハルトが無血クーデターを成功させた3,11政変を言う。この一年後スカルノは正式に大統領の地位を追われ、1968年3月にスハルト大統領が誕生する。この権力奪取のプロセスは、手の込んだ形でゆっくり時間をかけて進行したため、「這うようにして進められたクーデター」とも称される。
この権力闘争の裏で200万人もの市民が共産主義者の一掃という名のもとに、共産党のシンパとみなされ残酷な手口で殺された。これに対して諸外国の対応は冷淡であった。アメリカはもともと共産党に対してアレルギーがあったので、期待できないにしても、ソ連と中国の対応は冷淡としか言いようがないものだった。著者によると、ソ連は経済的に苦しく、インドネシアとの貿易が途絶えることが不安で、あえてスハルトとことを構えることを避けた。中国は文化大革命の影響で、国力そのものが弱体して手を差し伸べる余裕がなかったからだと分析している。
それにしても200万人が犠牲になるとはただ事ではないが、これを実行したのは軍とつながった地元の反共の青年団やヤクザ、イスラム教系団体の青年組織であったことは驚きである。殺戮を主導したこれらの人々は、王朝時代の死刑執行人を意味する「アルゴジョ」という呼び名で恐れられた。国軍は共産主義者を殺すことは「お国のため」「公的な利益のため」という世論を作って殺害を助長させた。
2014年に「アクト・オブ・キリング」という映画が公開されて話題を呼んだ。中身はこの虐殺に加わった人間にその殺害の模様を再現して映画にするというものであった。彼らはいまでも罪に問われることはなく、平穏に暮らしている。そしてこの殺人を反省している風でもなく、むしろ自慢している風であった。血がでないように針金で首を絞めて殺す場面を語るところは衝撃的だった。ところが主人公アンワルが映画で被害者を演じるうちに自分のやったことの重さを自覚し涙を流すというラストは印象的だった。
インドネシアは島が多く部族も多いので、国家として統治するには苦労が多いところである。そこで地元の有力者が政治家になって治めるのだが、彼らの多くはヤクザやその流れをくむ青年団出身である場合が多い。前近代の国家の通弊だが、インドネシアはこれに当てはまる。従って民主的な政治を実現するには多くの壁がある。これは夙に岡本正明氏が『暴力と適応の政治学(インドネシア民主化と地方政治の安定)』(京大学術出版会)で指摘されている通りである。このような状況下で、共産党に対する弾圧が地方の課題として軍の指導の下徹底的に行われ、疑いをかけられた膨大な数の市民が犠牲になったのだ。その様子は第二章の「大虐殺ーー共産主義者の一掃」に詳しく書かれている。著者自身虐殺者にインタビューを試みているが、聞くに忍びない話である。
さて著者は先述の映画のパンフレットに、「「アクト・オブ・キリング」の背景」という一文を載せ、わかりやすく解説しているが、本書では、この映画に言及していない。少しでも触れておくべきだったというのが実感だ。岡本氏の指摘の通り、インドネシアの地方政治からヤクザを排除するのは容易でない。彼らは地元の生活にしっかり根を生やして住民を巻き込んでいるからだ。日本のように田舎に団地ができて、近代化・都市化するというのとは話が違うからだ。地方分権の強烈な形が出ているとも言える。