読書日記

いろいろな本のレビュー

日本を捨てた男たち 水谷竹秀 集英社

2012-03-25 09:01:47 | Weblog
 中身はフイリピンに生きる「困窮邦人」のルポ。日本のフイリピンクラブで向こうの女性と懇意になり、クラブに入れあげてすっからかんになる日本男性は昔から多い。彼女たちの明るさと若さが日本でうだつの上がらない男性を虜にするようだ。フイリピン女性は貧しさゆえ、日本に出稼ぎに来てクラブで稼いだ金を本国の家族に送金する。その健気な女性を日本人男性がカネで自由にする。昔ながらの南北問題である。
 クラブで知り合って結婚の約束をして向こうへ渡った日本人男性が、カネがなくなるとフイリピン女性に捨てられ、結局帰りの航空券を買う金もなくなり、パスポートも切れて不法滞在するというパターンが紹介されている。日本での職場に不満を持ち、このまま人生を終わると思うとむなしくなる。そうした日常の中で何気なく入ったフイリピンクラブでこの世のものとも思えない極楽浄土を体験してこれにハマる。南国フイリピンの女性は魅力的なのだろう。何しろ国を捨てるのと等価なのだから。
 フイリピンは貧しいが人々は貧しい中にも明るく家族を大事にして生きている。「困窮邦人」の男性も女性から捨てられた後も、近所の人々から日々の食事を与えられ生き延びている。最近日本で多い孤立死はこの国にはない。逆に言うと日本社会の人間関係が今や砂のようにサラサラと乾燥して無機化しているということだ。仏教国日本が無縁社会とは、これを喜劇と呼ばずになんと呼ぼうか。
 わたし自身はフイリピンに行ったことはないが、熱帯のおおらかさ、いい加減さは想像がつく(私はタイと台湾旅行でその一端を実感することがあった)。そんな暑いところでしゃかりき働くことは不可能だ。昼寝でもしなければ体を壊す。貧しくとも日々楽しければそれでいいと思うのだが、資本主義・拝金主義の毒に冒された人間は、お金が欲しいあれが欲しいと上を見ればきりがない状況だ。足るを知るということを知る人間が本当に少ない。森鴎外の『高瀬舟』を読んで欲しい。
 競争だ自己責任だと息苦しいことをわめきたてる政治家が多くなってきた状況は、人を蹴落としたくない人間から見ればまさに地獄だ。竹林の七賢人タイプの人間が生息可能な社会を壊してもらってはこまるのだ。競争から降りる選択肢もそろえてセイフティネットをかけることが望ましい社会像ではないか。ゆくゆく日本は老人国家になるのだから。

政府は必ず嘘をつく 堤未果  角川SSC新書

2012-03-17 13:19:09 | Weblog
 副題は、アメリカの「失われた10年」が私たちに警告すること、で、著者はアメリカの格差問題に鋭いメスを入れてきたひとである。「失われた10年」とは9・11の同時多発テロ以降のアメリカの国情を指す。即ち大惨事につけ込んで実施される過激な市場原理主義「ショック・ドクトリン」によって、貧困格差が拡大し続けていること。しかもそこに政府の情報操作が噛んでいることを明らかにしている。政府とつるんだ大企業がことごとく復興事業等に食い込み富を独占していること。アラブ諸国の独裁政治国家に「民主主義の移入」とばかり介入して、実は石油の利権を狙う巨大企業のロビーストに取り込まれた政府の実態。イラクしかりリビアしかり。この文脈で読むとTPP参加は日本の開国どころか日本の閉国になりかねない。この圧倒的に不利な条件を日本政府は国民に明らかにしていない。「民はよらしむべし、知らしむべからず」を実践している。
 この情報非公開が顕著な例は、3.11の原発事故の放射能漏れの問題だ。事故直後のテレビに出てくる大学教授はどれも安全だ、心配ないばかりで、さすがの私でもちょっと心配になったが、実は東電から多額の寄付を貰っている構造が後で明らかになった。原発推進のために産・学・政府が一体となっているのだ。これに異を唱えた学者は助手のまま据え置かれ昇進を阻まれることになる。本書で「どうしても腑に落ちないニュースがあったら、カネの流れをチェックしろ」という著者の恩師のブロドー教授の言葉が出ているが、誠にその通りである。資本のピラミッドを見抜くことが大切だ。
 9・11以後アメリカでは「愛国法」と「落ちこぼれゼロ法」が施行されたが、後者は公教育を破壊したということで悪法の誉れが高い。テストでいい点が取れなければ、生徒は学校から切り捨てられ、教師は無能だとして処罰されるこの法律は点数至上主義と厳罰化による教育現場の締めつけに主眼があった。その結果、皆が怖がってモノを言わなくなったと報告されている。この悪法を大阪でやろうとしているのが維新の会である。あの党首は教育はマネジメントと言い切って、教育をサービス業と読み替えて教員の尊厳を大いに汚している。アメリカで失敗だったと言っているものをどうしてやらなければならないのか。アメリカの情報をもっと開示して議論すべきである。公務員・教員を叩いて溜院を下げるささくれ立った社会にしようとしている奴は許せない。競争がすべてと言い切る男に権力を握らせたことは痛恨の一手だった。

勝海舟の腹芸  野口武彦  新潮選書

2012-03-12 09:06:53 | Weblog
 タイトルは旧幕府と新政府の間をとり持って孤軍奮闘した勝海舟に因むもの。副題は「明治めちゃくちゃ物語」で、明治2年の戊辰戦争終結までを扱っている。明治維新の状況はまさに混乱の極みであったが、教科書では維新の志士はみな傑物、明治は華やかな時代という書き方をしている。しかし、それは幻想に過ぎない。維新政権は、まだ海の物とも山の物ともつかない。自前の財源も軍隊も官僚組織もないのである。したがって誰が軍を手に入れ、誰が予算をパクるかが問題になる。共通の敵だった幕府を倒した後、今度は政権内部での、実力者相互のなりふり構わぬ権力闘争が始まるのである。
 著者によると明治維新は、次の3つの定理に要約できるという。①権力者は等身大である。(維新の功臣、明治の賊将) ②敵と味方は互換的である。(昨日の友は今日の敵) ③支配と被支配は可逆的である。(勝てば官軍)よって明治国家の創成期は、この等身大性・互換性・可逆性が次第に取り崩され、政治権力が特定の少数者に独占されてゆく過程であると明快な分析をしている。
 ①の定理は戊辰戦争に一番色濃く出ている。官軍が佐幕派だった会津藩など東北の諸藩を賊軍と見なし酷い掃討作戦を展開するのだが、奥羽鎮撫総督府の下参謀になった薩摩藩の大山格之助と長州藩の世良修蔵こそは偉くしてはいけないタイプの人間だったと著者は言う。二人とも混乱期に成り上がった人物で、急に転がり込んだ権力を振りかざして周囲に威張り散らす傾きが強く、指示したことが渋滞しただけでも、自分が無視されたと感じて逆上したらしい。権力移行期は人材の供給が追い付かなくて、役にふさわしい人間ではなく、役につきたがる人間で間にあわせるしかない。結果、この二人が仕切ったともいえる戊辰戦争によって多くの無辜の民が犠牲になった。世良はその悪逆さが祟って仙台藩の刺客に暗殺されてしまった。むべなるかなである。
 本書を一読して、これは野口氏からの現在の政治状況に対するやんわりした批判であることがわかる。維新を唱える政治グループが民意を盾に国政に撃って出ようと虎視眈々とチャンスを窺っているが、どうなるのだろうか。大阪の民が「ええじゃないか、ええじゃないか」と浮かれているうちに国全体が平成維新をやられちゃったら、リンダ困っちゃう。代表は「船中八策」などと自身を坂本龍馬に擬して政策を発表しているが、普通の人間なら恥ずかしくてできないことだ。幕末から明治の歴史を知らないのだろう。歴史に学ばない者は同じ過ちを繰り返す。第二の大山・世良に国政を牛耳られないことを願うばかりだ。 

中国化する日本  與那覇 潤  文藝春秋

2012-03-03 22:06:29 | Weblog
 著者によれば、「中国化」とは1千年まえの宋朝に始まった「中国独自の近代化」のことを指すらしい。宋朝で起きたのは、経済の自由化と政治の集権化の同時進行。科挙による官僚登用と貴族制の全廃と皇帝の権力一元化。その一方で農民にまで貨幣使用を行き渡らせ、市場で自由に競わせる体制にした。1980年の英米や日本の小泉改革のような新自由主義に似ており、トップダウンで競争原理を導入し、結果の平等を犠牲にしても成長を追求するというもの。現中国は共産党の独裁政権だが、書記長を皇帝に読み変えれば矛盾はないということらしい。これと対照されているのが江戸時代で、規制(身分)と共同体(ムラ)で生活を保障するという社会である。昭和初期に終身雇用企業という新しいムラが出来て、企業内組合とともに生活保障を担うというのも江戸時代の再来と見なされる。この江戸時代的流儀は今グローバリズムにさらされて風前のともしびになりつつある。現に大阪維新の会の橋下徹は組合を既得権益の「悪」と見なして、自身はこれと闘う「徳治者」に見せることで支持を得ていることは彼が中国の皇帝に自身を擬しているように見える。なるほど、なかなか面白い。
 この中国化と江戸化の議論をそれぞれハイエクとケインズの経済学の視点で説明しているのも面白い。ケインズの公共事業論は江戸時代の参勤交代のような「塀埋め・掘り出し」レベルの何の意味もない公共事業に税金を投入した御蔭で、御用商人や宿場町におカネが回り、景気回復したことが例に出されている。この参勤交代の実情については『大名行列の秘密』(安藤優一郎 NHK生活人新書)に詳しい。
 さて日本が「中国化」するとなれば、今の中国の体制が歴史の到着点になるわけだが、かつて1990年代にフランシス・フクヤマが『歴史の終わり』で、アメリカの自由主義政治体制に世界は収斂すると言ったようなことが、今度は中国の体制に収斂するという議論になるのだろうか。そう簡単には行かないような気がする。次作に期待したい。ところで、本書の巻末の参考文献は素人でも読めるものばかりで、私も読んだことがある本が相当数あった。ということは逆にこの本が「のりとハサミ」的な側面を持つということだ。是非一読されてそれを実感して欲しい。