読書日記

いろいろな本のレビュー

禁城の虜 加藤康男 幻冬舎

2014-03-31 17:20:25 | Weblog
 副題は「ラストエンペラー私生活秘聞」で、清朝最後の皇帝・溥儀の一代記。腰巻のコピーが刺激的だ。曰く「宦官は見た!最後の皇帝『溥儀』の愛欲と悲劇」。本の表紙がモノクロでスーツ姿の溥儀のアップ、トレードマークのロイドメガネが印象的だ。まるでホストのようだ。それに腰巻が赤。いかにも売ってやろうという意気込みが感じられる。まあ、溥儀に関しては少年時代に後宮で宦官や女官に性的に弄ばれて不能になったということがいつも書かれており、本書もその例に漏れないが、溥儀の周辺の人間関係が細かく調べられており、伝記的価値は高いと感じた。
 清朝滅亡後は、満州国皇帝に担がれて自尊心を大いに満足させたが、日本の敗戦で東京裁判に出廷を命じられ尋問を受けた頃は、トホホの人生だったと思われる。その間手のひらを返したように日本批判を繰り返し、中国共産党にヨイショする姿は誠に痛ましい。終戦後書いた自伝『我的前半生』(私が半生)は周恩来の指導のもと、中国共産党寄りの歴史認識で書かされたものだ。共産党や独裁政権は政治犯に対して「自分史」を書かせることが多い。「この時代のここが、君の反革命的なところだ」というようなことを言って何回も書き直させるわけである。挙句の果てに粛清が待っているのである。溥儀は命欲しさに周恩来の指導に従って、最後は61歳まで生きた。
 もう一度整理すると、2歳9カ月で第十二代清朝皇帝の座につき、18歳で紫禁城を追われ、28歳で満州国皇帝の座に就く。終戦後はソ連軍に逮捕され、東京裁判に検察側の証人として出廷、そして1967年北京にて61歳で病死。世間の常識をわきまえないわがまま勝手の人生だったと書かれているが、この経歴を見れば当然と言えなくもない。それにしても劇的な人生だった。
 本書には著者の蘊蓄がいろいろ披露されているが、たとえば、溥儀とゆかりの宦官の話題がでたついでにこう述べる、「宦官を肉体的な、科挙を精神的な去勢だとすれば、間違いなく纏足は女性に対する去勢法といえよう」と。日本はこのどれも輸入しなかったが、その危険性を直観したのであろうか、あるいは中国人ほどドラスティックではなかったのだろうか。なかなかいい言葉だ。また1928年6月4日の張作霖爆殺事件についてこう述べている、「関東軍の河本大作による謀略だとする説が長い間定着してきたが、今日ではコミンテルンの工作を受けた張学良(張作霖の長男)が陰で仕組んだ『父親殺し』だったことがほぼ判明している。張作霖が死去した結果、蒋介石と張学良が占める一波盤石なものとなった」と。これは本当だろうか。一度詳細に調べる必要がある。張学良は日本の傀儡として、中国共産党から死後も鞭打たれた人物だと思うが。でもこの本は数奇な人生を送った溥儀の伝記の決定版と言えるのではないか。

週末ベトナムでちょっと一服 下川裕治 朝日文庫

2014-03-23 07:55:55 | Weblog
 下川氏による週末シリーズ第四弾。前作は「週末台湾でちょっと一息」だった。今回はベトナムだ。私も最近ベトナムへ行ってきたので興味津々だ。ベトナムの発展する状況がつぶさにルポされていて共感したが、とりわけ第四章の「チョロンから始まった『フランシーヌの場合』世代の迷走」は圧巻だった。チョロンとはホーチミン(旧サイゴン)の中華街の名前。フランシーヌとは1969年パリで、ベトナム戦争とアフリカのビアフラ戦争に抗議して焼身自殺した女性の名前で、歌は新谷のり子というフオークシンガーが歌い、80万枚売れたヒット曲だ。
 結局ベトナム戦争はアメリカの敗北で、ベトナムは南北統一され、共産主義国家となった。当時日本はベトナム戦争反対運動が真っ盛りで、「ベ平連」がその先頭を切って運動をしていた。他国に政治介入するアメリカを非難し、北ベトナムに正義があるという前提であった。
 今回チョロンを訪問した著者はガイドのベトナム人の青年から、サイゴンがホーチミンになっていいことは少しもない。もともとベトナムは南と北で別の国であったのだという発言を聞いて、あの運動は一体何だったのかという懐疑がもたげてきたそのプロセスを描いていて、私も大いに共感を覚えた。民族解放と南北統一は同じではないのではないかという著者の疑問は大事な点だと思う。ベトナムは軍事大国アメリカに対して勝利できるとは考えておらず、いくつかの戦略を立てた。その一つが、アメリカの民主主義のシステムを利用して、ベトナム反戦運動の気運を盛り上げていくことだった。その作戦ががどれほどアメリカの政策に影響を与えたのかは判断が難しいが、反戦運動を刺激した北ベトナムからの情報にはその意図の中から流れたものもあったと著者は言う。
 その頃の日本は大学・高校紛争が起きており、「造反有理」という毛沢東の言葉が東大の正門に掲げられた。その中で北爆反対運動が化学変化を起こしたように広がった。中国の文化大革命とベトナム戦争反対運動は、当時の知識人が無批判にのめり込んだという特徴があった。
 ところが南北統一したベトナムが1978年隣国のカンボジアに攻め込んだのである。アメリカ帝国主義に抗して民族解放を果たした国が、今度は他国に侵攻したことで、ベトナムの帝国主義的側面が白日のもとにさらされた。また解放直後、南ベトナムから自由主義国への多くの難民が発生したことも南北統一が歓迎されていないことを証明した。しかし以後もベトナム共産党は健在で、中国をモデルにして経済発展を遂げつつある。その中国とは領海問題で争っているのが現状である。今ベトナムから目を離せない。

流星一つ 沢木耕太郎 新潮社

2014-03-01 16:07:50 | Weblog
 歌手藤圭子は昨年投身自殺して62歳の生涯を終えたが、本書は34年前、当時人気絶頂だった彼女が28歳の若さで引退を表明した後、ホテルニューオータニのバーでインタビューした記録である。オクラにになっていたものを、急遽出版したものだ。沢木耕太郎はこの時31歳。最近は朝日新聞の映画レビューしか読んだことが無いが、このレビューはなかなか読ませる。本書での藤圭子は饒舌で「15,16,17と私の人生暗かった」というイメージとは随分違う。沢木と相性が良かったのだろう。生い立ちからデビューしてヒットするまで、そして芸能界でのさまざまな思い、最初の夫である前川清のこと等々、赤裸々に語っている。
 両親は流しの旅芸人(浪曲師)で、母親は盲目の曲師であった。岩手県の一関市生まれで、後に北海道の旭川市内に移り住んだ。極貧の中で天性の歌唱力を発揮してスターの座に上り詰めたが、その苦労は並大抵ではなかった。母の眼も、きちんと医者にかかれば失明を免れたのに、貧困ゆえに失明した。私は本書で特に印象的だったのは、藤圭子が父親を語った部分だ。子どもの頃、何が怖ろしかったかという沢木の質問に、「お父さんが本当に怖かった。カッとすると何をするかわからない人なんだ。怯えてた。子どもたちはみんな怯えてた。お母さんも、みんな怯えてた。しょっちゅう、しょっちゅう、殴られっぱなしだった。理由はないんだよ。向こうの気分次第なんだ」
「お母さんはどうしているの」という質問に、「子どもたちをかばうでしょ。そうすると、今度は、お母さんを苛めるんだ。眼が見えないお母さんを蹴飛ばしたりするの。理屈なんかないんだ。あの人を理解するなんて、そんなことできないよ。できたら、こっちがおかしくなるよ。」
 「血を分けた親子なのにね」(沢木)「親子だったから、恐怖なんだよね。他人だったら、別れられるじゃない。でも血がつながっているから、怯えながらでも、一緒にいなくちゃならないじゃない」、血縁とはかくも残忍なものなのか。それを喝破していた藤圭子はエライ。聡明と言われただけのことはある。
 結局この暴君の父がいたから頑張って歌手になれたと語っている。お金をもうけて、そばから逃げようと努力したのだ。実際お金ができた時点で、母親を離婚させている。普通離婚した男が慰謝料を払うのに、藤家の場合は逆だ。それを週刊誌は一家崩壊と報じたらしい。
 藤圭子のしぼりだすような歌声は、実に父親から一刻も早く解放されたいという魂の叫びであったということだ。そう考えると、母が離婚できた以上、いつ歌手をやめてもよかったのだろう。藤圭子は晩年精神を病んでいて、それが自殺に繋がった。引退後は再婚して、女の子を産んだ。それが宇多田ヒカルである。彼女は母の死後コメントを出した。「彼女はとても長い間、精神の病に苦しめられていました。幼い頃から、母の病気が進行していくのを見ていました。(中略)母を思う時心に浮かぶのは、笑っている彼女です。母の娘であることを誇りに思います。彼女に出会えたことに感謝の気持ちでいっぱいです」 合掌。
 藤圭子自身が宇多田カオルにとってある種厄介な存在であったことは藤圭子が父親の遺伝子を受け継いだということかもしれない。
 本書の後、『悲しき歌姫』(木下英治 イーストプレス)を読んだが、藤圭子の才能に惚れた作詞家石坂まさをが、歌手デビューさせるまでの苦闘ぶりを描いている。しかし父親の暴虐ぶりを暴いた『流星ひとつ』に比べると、少しインパクトが弱かった。なにしろこれは藤圭子の肉声を再現したのだから当然と言えば当然。