読書日記

いろいろな本のレビュー

アメリカ人はなぜ肥るのか  猪瀬聖  日経プレミアシリーズ

2011-04-29 10:16:00 | Weblog
 私は昭和30年代に少年期を過ごした者だが、おいしいもの、とりわけチョコレートをお腹いっぱい食べたいといつも思っていた。この飢餓感はいまの飽食している子どもにはわからないと思う。当時はチョコレートやバナナや牛乳は貴重品で非日常の食べ物であった。そんな中でテレビで映し出される『パパは何でも知っている』はアメリカの中産階級の日常を素描したものだが、台所に鎮座した大型冷蔵庫の中に埋まっている食べ物の多さに驚嘆させられた。何と豊かな国なのだろうと。以来50年、アメリカは今、肥満問題に直面している。その現実をレポートしたのが本書である。重すぎて搬送できない救急患者、肥満の若者が増え、新兵確保に苦労する軍隊、肥りすぎで飛行機の搭乗を拒否されたハリウッド・セレブ等々、驚くべき事実が次々と紹介される。
 肥満と貧困の相関関係は以前から指摘されている。すなわち、お金がないのでジャンクフード(高カロリー低栄養のインスタント食品、スナック菓子など)を毎日食べているうちにぶくぶく肥ってしまうという負の連鎖である。本書には貧困層の住むところにはこのような店しかなく、否応なしにジャンクフードを食べさせられる構造になっているということが書かれている。これらの食品の素材も経費節減のため確実に収穫できる遺伝子組み換えのものが多く、問題のあるものが多い。また化学肥料や農薬のために生育スピードを早められた野菜は十分な栄養素を形成する前に収穫されている。農薬を使わない有機栽培の野菜も売られているが、値段が高いために貧困層は手が出ないのが現実だ。おいしくて栄養があり、体にいいものを食べるというのが本来のありようだが、この基本的な食生活に参加できない層がふえており、肥満を助長しているのである。
 根底にはアメリカの社会構造があると著者は言う。会社は儲けるために色んな手を使ってジャンクフードや清涼飲料水を売ろうとする。例えば映画館では儲けを増やすためにポッポコーンやコーラなどを売る。観客はバケツほどの大きさの容器に入ったポッポコーンを食べる。アイスクリームも同様。これじゃ肥らないわけにはいかないだろう。またコカコーラやペプシは学校の食堂に入り込む戦略として、奨学金や学校にキックバックを提示して経営の苦しい公立校に狙いを定めている。これじゃ養鶏場のニワトリと変わりがない。
 因みにアメリカの家庭の食事について興味深い例が引用されているので紹介しよう。マイケル・ポーラン『イン・ディフエンス・オブ・フード』によると、「ほとんどのアメリカ人の家庭は一週間に3~4回、家族そろって夕食をとっていると言っている。しかし、その実態はこうだ。母親は確かに夕食を作っているが、それは彼女自身が食べるためのもの。父親と子どもたちは自分たち用の夕食をめいめい料理している。料理といっても電子レンジでチンするだけ。各自、自分の食べたいものを調理し終えるとテーブルに座って食べ始める。全員がダイニングルームにいるが、全員が同時にテーブルに座っているとは限らない。形だけ見れば、それは家族そろっての食事かも知れないが、本来の夕食の機能はまったく果たしていない。本来の夕食とは、家族そろってテーブルに着き、同じ料理を家族全員が皿に取り分けて食べるものだ。一緒に夕食をとりながら、親はこどもにさまざまな食事のマナーや食に関する知識を伝え、子どもはそれを吸収して成長していく。現在の家族そろっての食事はまるで各人が好きなものを好き勝手に注文するレストランのようだ」とショッキングな食事の実態が述べられている。これでは子どもの弁当にフアストフード店のハンバーガーを持たせる親が出てきても不思議ではない。子どもの肥満には親も大きく関わっているのである。50年前の『パパは何でも知っている』のあの食事風景はいまいずこへ。プレ無縁社会がアメリカにも出現しているのか。文明化と引き換えに失ったものは大きいと思わせる風景だ。

コルトレーン  藤岡靖洋  岩波新書

2011-04-24 08:21:10 | Weblog
 コルトレーンとはジャズ界でテナーサックスの巨人と言われたジョン・コルトレーン(1926~1967)のことで、本書はその自伝。岩波書店としては珍しい企画と言えよう。藤岡氏はコルトレーン研究家として夙に有名で、大阪ミナミで呉服店を経営されている。一読して感じることは、著者のコルトレーンに対する尊敬の念と哀惜の情である。何度も渡米し、コルトレーンの足跡を実地調査して実証的な作品にしている。1950~1970年代のジャズ界は社会的に差別されていた黒人の自己主張の場で、被差別者の情念が新しく創造的な音楽を生み出して行った。コルトレーンは50年代半ばにトランペットのマイルス・デイビスクインテットのバンドにテナー奏者として抜擢されてから一躍有名になり、1967年肝臓がんで亡くなるまで前進・前進また前進の音楽家生活を続けた。マイルスバンドに入った頃は、他の黒人ジャズマンと同様、麻薬と深酒の悪癖が抜けず、ボスのマイルスから何発もパンチを食らっていた。さらに複数の女性との関係など、公民権運動の裏面での黒人の姿を物語る一こまがコルトレーンの身の上に起こっていたのだ。このコルトレーンが社会的に視野を広げ、宗教的な啓示と言うべきものを自己の音楽に求めだしたのが1964年あたりからである。1966年に来日した時のインタビューでコルトレーンは「私は聖者になりたい」と発言している。この2年前に録音されたアルバム「至上の愛」はコルトレーンの神に対する捧げものという感じが強い。組曲形式でパート1:承認(ACKNOWLEDGEMENT) パート2:決意(RESOLUTION) パート3:追求(PURSUANCE) パート4:賛美(PSALM) パート3と4は連続して演奏される。全体で33分。パート1の終盤、ジミー・ギャリソンのベースがテーマを弾くのに合わせてコルトレーンと思しき人物が「ラブ・シュプリームス」という言葉を連呼する。合計19回。ジャズアルバムとしては非常に珍しいパターンである。
 このアルバムは以来、何度も再発売されてそれなりに売れているようだ。しかし,ジャズマンが神への信仰をアルバムに込めるというやり方には批判も多かった。自己満足に過ぎないという批判である。ジャズ評論家の故粟村政昭氏などは「ラブ・シュープリームス」という言葉を「神への稚拙なメッセージ」と一刀両断に切り捨て、コルトレーンの晩年の音楽活動に疑問を呈していた。しかし、コルトレーンの演奏そのものはシーツオブサウンドとハーモニックスを駆使した圧倒的なもので、この後コルトレーンのやり方について行けず退団したピアノのマッコイ・タイナーとドラムのエルビン・ジョーンズも健闘している。
 ジャズに精神性を求め、聴衆にもこれを要求したコルトレーンの音楽は今もジャズ界に命脈を保っていることは確かだ。一度「至上の愛」(インパルス)をお聴き願いたい。

レーニンの墓(上・下) デイヴィッド・レムニック 白水社

2011-04-23 14:37:41 | Weblog
 1985年にゴルバチョフが政権の座についてからソ連の共産党は崩壊していくが、本書は米国のジャーナリストがその内部の人間、数百人にインタビューしたレポートである。赤の帝国の崩壊は否応なしに帝国の政治の機密事項を暴露したが、レーニン・スターリンが打つ立てた楽園の実相は想像以上にすさまじい人権抑圧国家だったことがわかる。著者曰く、「共産党組織は世界がこれまでに経験した最大のマフイアだった。共産党はごまかしのコンセンサスと憲法で権力独占を守り、それをKGBと内務省警察の力で支えていた」また曰く、「権力の集中、責任とインセンティブの欠如、意義よりもイデオロギーの優先、党とその警察の支配。過去数十年に渡って続いたソ連システムのこうした欠陥のすべてが、中央アジアでは増幅された。このシステムは〝封建的社会主義〟として知られた。共産党幹部と集団農場の議長によって率いられるソビエト・アジア的ヒエラルキーである」と。権力の腐敗は共産主義の副産物で、人民の幸福をはかる前衛政党が権力行使する際に生まれる。富の再配分において強権が要請されそれが独裁の形をとるためだ。
 市民の生活の実態は炭鉱労働者の言葉ではっきりする「今回のストで得たいのは『まっとうに』生活するチャンス、必要な時に石鹸と歯磨きペーストが手に入ること、肉らしい肉の切り身を食べること、六か月もつ靴をはくこと、そしてもし自分の作業班が何らかの奇跡によって第六番炭鉱から余剰の石炭を掘り出したらなにがしかの利益を稼ぎ出すことだ。それから時がきたら森林へ移住する。魚釣りには絶好だし、空気は清浄、そして地上で生活するのだ。『俺は暗闇には慣れている』と彼は言った。『けれどもうたくさんだ』」と。国家が人民抑圧マシーンになっていることに対する赤裸々な証言である。スターリン時代には考えられないことである。そしてソ連崩壊の象徴的事件がチエルノブイリ原発事故だ。「これはソビエト体制の一種の瓦礫、すなわち1917年の革命には始まり、今、終焉を迎えつつある時代を表す恐怖の暗喩なのだった」と述べられている。チエルノブイリ原発は人為的事故、福島第二原発は自然災害による事故と分類されるが、一つの時代の終焉を暗喩していることは確かで、日本人がこれからどういう進路をとるか考える時が来ている。石原東京都知事は「震災は天罰」と言って顰蹙を買ったが、天が日本人に試練を与え、思索せよと命じていることは間違いない。その他、スターリン時代を回想してある市民は、ユダヤ人に対する虐殺(ボグロム)が日常的に行なわれたことを述べている。ナチのジェノサイドより早い時期に行なわれていたことは注目に値する。
 下巻のハイライトはゴルバチョフやエリツインがKGBと軍のクーデタ―に巻き込まれながら何とかこれを制圧し、ソビエト共産党を解体した部分である。小説を読むような感じでその取材力には驚かざるを得ない。権力に就いた1985年3月から、ソ連初の選挙による議会の議長を務める1989年6月まで、ゴルバチョフは全体主義の一枚岩を徐々に壊していった。その中で諸事件に足を引っ張られ、苦悩の日々が続いた。この間情報の公開に努めスターリン時代のソ連の犯罪についてもこれを認め謝罪している。「カチンの森事件」もその一つだ。あれから20年ソ連の後を継いだロシアはプーチン首相の指導のもとにあるが、民主主義国家として生まれ変わるにはまだまだ時間がかかりそうだ。

儒教と中国  渡邉義浩  講談社選書メチエ

2011-04-09 09:05:37 | Weblog
 儒教とは、儒家の教説の総称で、その中心となる経典解釈は経学と呼ばれる。従来、儒家の教説の側面が強調され過ぎてその宗教性が軽視されてきたが、夙に加地伸行氏が『儒教とは何か』(中公新書 1990)で、儒教は死と深く結びついた宗教であり、孔子の出自は送葬集団に求められ、その影響は現代日本の生活の隅々に及んでいることを説かれている。因みに、孔子についてもいろいろ評価があり、『孔子伝』も聖人から一介の匹夫までいろいろである。
 孔子は春秋時代末期を、周の伝統を受け継ぐ魯に生きて詩書を学ぶことを通じて、周代の礼楽の復興を唱えた。司馬遷の『史記』では、孔子が六経(詩・書・春秋・易・礼・楽という六つの基本となる教典)すべてを編纂したと伝えるが、『詩経』と『尚書』に孔子が整理を加えた可能性はあるが、その他の関与については疑問視されている。この中で「楽」を除いた『詩経』『書経』『春秋』『易経』『礼記』は五経と呼ばれ、『大学』『中庸』『論語』『孟子』の四書とともに儒教の経典となっている。
 著者は東洋史の研究者で最近『後漢書』の全訳を出すなど目覚ましい活躍ぶりであるが、儒教そのものの分析はせず、これが国家宗教となった歴史的変遷を『春秋』三伝、すなわち『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』の分析をもとに述べている。国教化とは以上の古典を解釈して思想を政治理論化して為政者が政治を行ない、儒教の礼説で国家祭祀が実行されることで、儒教の寺院が国中に建てられることではない。したがって文化政策の様相を呈することになる。これが仏教と違うところである。儒教の宗教性が軽視された所以である。
 著者曰く、「中国の君主は漢代以後、皇帝と天子という二つの称号を持つ。皇帝は、祖先を祭祀するときの君主の自称であり、天子は、天地を祭るときの自称である。中国の君主は、中国を実力で支配する皇帝の持つ権力と聖なる天子の支配という権威との両面に、その支配の正統性を置き、それぞれに応じた二つの称号を使い分けていたのである」と。儒教の特質がよくわかる説明である。また中華と夷荻という区分、何が正統かなど、中国の政治思想の原型が詳しく説かれており大変参考になる。