読書日記

いろいろな本のレビュー

「肌色」の憂欝 眞嶋亜有 中公叢書

2014-10-28 09:23:26 | Weblog
 「肌色」とは懐かしい言葉だが、昔クレヨン(クレパス)の中にこの色があった。日本人の肌の色である。本書の副題は「近代日本人の人種体験」で近代以降、西洋人に直に触れた時の日本人のインテリの劣等感の諸相を時系列で整理したもので、現代のグローバル化した時代での日本人のありようのアナロジーとなっている。
 肌色体験の先駆者として挙げられているのが内村鑑三である。日本人離れした顔と体格でアメリカに渡ったが、そこで体験したのが、中国人と同列に見なされる人種差別の嵐だった。彼はインテリの矜持から、中国人と一線を画そうとして日本人のアイデンティティーを保持しようとしたが、文明化に伴う人種問題はその後の日本にとって避けることができない問題となった。
 明治維新以降、東洋の先進国日本から西洋に留学した者は多いが、西洋人の肌の白さ、背の高さに圧倒されて身体的コンプレックスを感じた人間として夏目漱石、遠藤周作を挙げている。夏目漱石は身長160センチ足らず、あばた顔でもあり、イギリス人の人種差別を露骨に受けた。そこで下宿にこもり神経衰弱になるほど勉強し、イギリス人と同じやり方で英文学を研究しても意味はないと悟り研究方法を模索した。それが帰国後の「文学論」となって結実するのだが、劣等感をエネルギーに変えて後に小説家として大成することになった。
 遠藤周作は漱石と違い背が高く、眉目秀麗であったので、フランスに留学してフランス人の女性によく持てたらしいが、その肌の色で物珍しがられたようだ。キリスト者の遠藤は西洋人が信仰するイエスキリスト像に、貧相な黄色い肌の日本人が同様に信仰することの違和感を切実に感じた。これが後の作家としての大きな問題意識になったのである。
 一般民衆の西洋体験は太平洋戦争敗戦による進駐軍の米兵を迎えた時だった。白い肌と高い背、明るい立ち振る舞い、これを見てみんなアメリカに勝てるわけがないと実感した。とくに連合国軍最高指令官マッカーサーが昭和天皇と撮影した写真にそれが象徴的に現れている。アメリカ人を知らず鬼畜米英というスローガンに踊らされていたが、実際眼にしたアメリカ人の美しさに感動し、一転親米感情に支配されて行くが、これが卑屈な劣等感に裏打ちされて現代に至っているという図式である。
 今「おもてなし」とか言って外国人を誘致しようと躍起になっているが、「脱亜入欧」の意識はまだまだ根強いと言わねばならぬ。

侮日論 呉善花 文春新書

2014-10-17 09:17:18 | Weblog
 呉氏は産経新聞お抱えの評論家で日本に帰化して、韓国に対する批判的な言説を発表している。先般それが原因で韓国への入国を拒否された。産経新聞ソウル支局長の朴大統領侮辱記事事件で支局長が起訴されたのも、その流れの中にあると考えられる。検察が大統領府の支配下にあることが問題視されていて、この起訴も朴大統領の意向に沿ったものだと言われている。ことほど左様に韓国の常識は世界の非常識と言われるぐらいに唯我独尊ぶり、特に慰安婦問題等の反日言説が目立つが、本書はその侮日・反日の源流を探ったもので、説得力のある解説をしており、巷にあふれる「反韓本」とは一線を画している。
 結論から言うと、「日帝による植民地支配」が反日韓国の起源ではなく、古く14世紀の李氏朝鮮の時代が起源であると断定している。以下、氏の記述をまとめる。李氏朝鮮は中国に礼をもって仕えることで国土の安定を図ろうとした。これを「事大主義」という。明代の李朝は北に女真族(後には満州族)勢力と、南方では日本と国境を接し、どちらも軽蔑すべき夷族だったが、敵対するの良しとせず最小限の交流を行なった。これを「交隣」という。しかし明が女真族の清に滅ぼされると大きな矛盾にぶつかる。清に事大しながら心で夷族として蔑視するという矛盾である。以後李朝は「正当な中華主義を奉ずるのは我が国しかない」という小中華主義に徹したのである。それを支えたのが儒教(朱子学)で、科挙の制度を整備徹底し、宗族(父系血縁集団)制度を強化して国内統治を強化した。この小中華主義の弊害は現代に至るまで続いている。そして宗族主義を敷衍した民族ナショナリズムが自民族優位主義を生み、弊害をもたらしている。これが反日・侮日教育の原因になっている。この民族優位主義から見ると「慰安婦強制連行」は民族の血を汚す問題として、韓国の反日活動家たちが日本の反日活動家から聞かされて一も二もなく飛びついたのが実際のところだと述べる。氏は反日教育を受けた影響で反日少女であったが、日本に留学後に韓国の反日教育の謝りに気付き、転じて帰化したという経歴を持つ。その氏ならではの視点で「侮日」の歴史を掘り下げている。最近の朝日新聞の「慰安婦強制連行」の吉田証言は間違いで、取り消すという流れからすると、真実を言い当てているような気もする。
 ここに『従軍慰安婦と靖国神社』(田中克彦 KADOKAWA)という本がある。田中氏は反権力の言語学者だが、表記の問題に長老的言い回しで見解を述べているが、30年前に韓国の女子学生を大学院生として受け入れた時、その強烈な反日感情に驚いたと書いている。かつての呉氏のような人が一般的だった証左である。田中氏曰く、反日とは日本絶滅のものがたりによって、自民族と国家の存在を永遠化することである。しかし絶滅によって憎しみの対象が消えてしまえば、憎しみは空虚なものになる。このように思い至る韓国人は、いよいよ苛立たしくなるはずである。こうした物語の構図は、清朝支配下の朝鮮から今日に至るまでの、朝鮮半島の歴史の中から出てこざるを得なかったのであろうが、それは、もちろん日本人にとっても不幸なことであろうが、朝鮮人自身にとっては、もっと、はるかに救いのない不幸であると。これは呉氏の見解を日本の知識人が正統化したものといえる。
 そこで田中氏は慰安婦像詣での巡礼の旅をしてはどうかと提案する。目的は心から慰安婦に感謝し、謝罪するためであると。硬直した議論を打開するにはこういう意表をつく意見が有効かもしれない。因みに靖国問題は捕鯨問題とよく似ていると述べて、長老のオーラを発しているのは流石だ。

黒田官兵衛 渡邊大門 講談社現代新書

2014-10-14 09:44:17 | Weblog
 今NHKの大河ドラマで放映中の「軍師官兵衛」を見ていないのでなんとも言えないが、私が脚本家なら本書を含めて渡邊氏の一連の著書を参考にするだろう。逆に言えば、本書だけ読めば、別にドラマを見なくてもいいぐらい面白く書かれている。また氏は秀吉についての事跡にも詳しく、その成果が表れている。だから秀吉役の竹中某の臭い演技を見なくても済むわけだ。
 本書は類書が依拠する江戸時代の『黒田家譜』について史料批判をして、できるだけ一次資料で議論しようという姿勢を貫いているところが素晴らしい。一般向けの新書だから少々手抜きをしてもということはない。戦国大名が群雄割拠する時代は中国の戦国時代の「合従連衡」のように陰謀が渦巻いていた。その中で生き残るためには胆力と知力が必要だった。その武将たちの人間像をビビッドに浮き上がらせ、その人間関係を整理して読者に提示することは大変な労力を要するが、氏は広汎な資料をうまくさばいて、それに成功している。
 この手法は『牢人たちの戦国時代』(平凡社新書)でも発揮され、戦いに敗れ、主家を失った武士たちのその後を追い、「牢人」の生き方に迫っている。何の某はどこそこの出身で、誰それとどういう関係だったというようなことはゴシップ的興味をそそられる話題だが、これを正確に調べるのは結構難しい。まして室町から戦国時代の「牢人」の事跡を追うことは困難を極めるが、氏は丹念に資料を読み込んで好個の読み物に仕上げている。これらの該博な知識は『戦国期赤松氏の研究』(岩田書院)の成果と言えるのではないか。今後一層の活躍を期待したい。