読書日記

いろいろな本のレビュー

われ日本海の橋とならん  加藤嘉一  ダイヤモンド社

2011-09-24 08:29:48 | Weblog
 著者は高卒後、国費留学生として北京大学留学。同大学国際関係学院大学院修士課程修了。2005年、反日デモに対するコメントで一躍有名になり、現在中国で最も有名な日本人のコラムニストとして活躍中。副題は「内から見た中国、外から見た日本ーーそして世界」。
 氏は日本の横並びの世界に息苦しさを覚え、将来国連の職員として世界的な仕事に就きたいと思い中学時代から英語の勉強に取り組み、高校卒業時点でトーイックで満点を取れるまでになった。その傍ら部活の駅伝にも力を入れていた。2003年の2月に北京大学と山梨学院大学が学術協定を結ぶことになり、彼のいた山梨学院付属高校に北京大学の幹部が訪れた時、幹部に自己アピールしたことが縁となり、日本人として初めての国費留学生となった。思うに彼の成功の原因はその才能もさることながら、自己主張の強さが中国の風土に合ったのだろう。物おじしない性格は海外で成功する必要条件だということが分かる。
 北京大学は入学定員は3000人で、清華大学も同じ。ともに中国を代表するエリート大学だが、受験生1000万人から選ばれたということを考えなければならない。因みに日本の受験生は70万人である。東大以上のプレスティージがあるのだ。そのエリートが寸暇を惜しんで勉強する。彼らの英語力と学力には著者も舌を巻いている。自分を生かすには勉強しかないという決意がそうさせるのだろう。国情の違いとは言え、そのハングリー精神には学ぶべきものがある。
 現地に根を生やして活躍する氏ならではのレポが多いが、興味をひかれたのは、街の至るところ(公園や路上)に、働きもせず一日中ぼんやりしている人々のことである。彼らのことを「暇人」というのだが、国内に2~3億人いると著者は言う。農民工と違い地元に家をもっており、日がなおしゃべりしたり、将棋、トランプをしたりして過ごす。金は適当にバイトして稼ぐという。北京大学のエリートとは対極の位置にいる人々である。彼等は言う、俺たちにはカネも名誉も地位もないが「時間」があると。国も彼らを生かす隙間を作っているようで、無理やり労働を強制せず泳がせているようだ。中国の懐の深さを再認識する事例だ。竹林の七賢人の伝統は脈々と受け継がれている。私自身これを読んで大いに啓発されるところがあった。今までは中途半端な「暇人」であった。早くほんとの「暇人」になりたい、いやなるべきだと悟った。
 大国中国のことはまだまだ勉強すべきことが多い。加藤氏には今後とも日中相互理解のかけ橋として頑張っていただきたい。

いねむり先生  伊集院 静  集英社

2011-09-18 09:43:51 | Weblog
 いねむり先生とはマージャンの巨匠阿佐田哲也、(作家としては色川武大)のことで、今から20ほど前の回想記である。先生との出会いと別れの話は夏目漱石の『こころ』を彷彿させる構成である。いみじくも著者の妻は女優の夏目雅子で、彼は40歳で妻子を捨ててこの有名女優と道ならぬ結婚をしたが2年後、新妻は癌で死去するという不幸に見舞われた。それ以後自暴自棄になりアルコールに溺れ、郷里の山口県に帰り、鬱鬱とした日々を過ごしていた。そうした中で東京のKさん(前に小説の挿絵を描いてくれた人)から先生を紹介される。先生は当時麻雀作家から純文学作家に転向して、世間の注目を浴びていた。「いねむり」とは持病のナルコレプシーのためにどこでも眠ってしまうことからつけられたものだ。先生は麻雀のみならず競輪が好きで、全国の競輪場を回っている。著者も麻雀・競輪が好きで先生と一緒に競輪の旅に出る。そして、先生のでしゃばらない人柄に惹かれ、妻を亡くした悲しみが癒されて小説家として再起しようとしているところで先生は亡くなる。
 全編会話体で二人のギャンブラーの日常としては非常に静謐で、どろどろした情念は極力排除されている。先生は自分のプライバシーは語らないが、それがますます先生をカリスマ風の人物に仕立てて行く。先生即ち作家色川武大は『狂人日記』や『百』で作家としての地位を確立したが、ともに私小説で、こういう人生もあるのかという点が読者に受け入れられた。この小説でも先生は飽くまで寡黙で多くを語らないが、『こころ』の先生みたく、ときどき箴言めいたことをのたまう。
 伊集院氏もこの20年で作家としての地位を確立したし、還暦を過ぎて一つのメルクマールとして記録したかったのだろう。私はこの作家はあくの強いどちらかと言うと好きではないタイプと意識していた(美貌の女優と再婚したという嫉妬めいたものはもちろんあるが)。しかし、この作品は蒸留水のような、あるいは淡いワインのような味わいがある。先生と妻に対するオマージュとしてはこのテイストでなければならなかったのだろう。合掌。

魯迅と毛沢東  丸川哲史  以文社

2011-09-11 09:23:31 | Weblog
 副題は「中国革命とモダニティ」で、政治と文学におけるリーダーが中国の近代化においてどういう関係性を持ったかを考察したもの。従来、政治と文学それぞれの歴史が語られたものが多かったが、「魯迅と毛沢東」という形では珍しい。魯迅は医学を勉強するために来日。仙台医学専門学校で学んでいたが、あの有名な幻灯事件で医学より文学で中国人の啓蒙をすべきだと決意し、恩師の藤野先生に別れを告げる。この事件のいきさつは小説『藤野先生』に詳しい。帰国後、彼は中国文学の研究の傍ら小説・評論で頭角を現し、オピニオンリーダーになって行く。小説『阿Q正伝』で作家としての地歩を固めたが、著者は、「阿Q」とは、革命の失敗への無自覚や恐れの無さを表した記号であったと述べる。この小説の連載が始まった1921年は中国共産党が創立された年で、いやがうえにも小説と政治の親和性が強まっていたと言える。
 この時、魯迅より12歳年下の毛沢東は30歳で、長沙で長沙共産主義グループを組織し、中国共産党第一回全国代表者大会に出席している。毛は農民出身で、彼の思想の核心にあるのは、農民の動員を主体とした「土地革命」を遂行するところの地方権力の掌握という「根拠地」路線の実現であった。したがって『阿Q正伝』は毛にとってうってつけの作品だったと言える。以後、毛が権力を握った共産党は魯迅を革命のシンボルとして利用していく。その結末は魯迅が仙台で予想したものとどれだけ合致していたかどうかはわからないが、とにかく辛亥革命から共産党の成立発展と、封建主義からの脱却は確実に行なわれた。以後共産党は文化大革命を経て、現在に至っている。思想がすべての時代からカネがすべての時代へと激烈な変化が起きているのを魯迅や毛沢東はどう見るであろうか。「文革」はソ連の呪縛から逃れて親米路線へ転換する契機を孕んでいたことは確かだが、著者は次のように言う、「文革」は核実験の成功(1964)によって中国が近代的な国力を蓄えたことを証明した後の時点で発動されたものなのだと。中国現代史のマクロな視座として興味ある指摘である。
 また人民共和国の成立から文革までの通史で、人民共和国の成立は必ずしも社会主義政権の樹立を意味していなかった。それにもかかわらず、中国はなぜ社会主義を目指したのかという視点で書かれた久保亨氏の近著『社会主義への挑戦』(シリーズ中国近現代史④ 岩波新書)を併せて読まれるとよい。

国力とは何か  中野剛志  講談社現代新書

2011-09-03 12:57:48 | Weblog
 副題は「経済ナショナリズムの理論と政策」で、構造改革と経済自由主義の批判を述べたもの。1990年代(橋本龍太郎内閣)以降、アメリカの規制緩和の要求によって日本は市場開放と構造改革を行なった。そして小泉内閣によって新自由主義思想のもと構造改革に励んだ結果、リーマンショックの余波を受けて国力は低下の一途をたどっている。著者は言う、グローバル化によって国民国家が後退するという従来の説は完全に失効し、「経済はナショナリズムで動く」ことは、もはや誰の目にも明らである。しかし、日本は、このナショナリズムの台頭という世界の激変を全く踏まえようとせず、未だに自由主義経済のイデオロギーに固執し続け、むしろ強化しようとすらしていると。その典型が2010年の菅内閣の「平成の開国」というスローガンである。具体的にはTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)に参加するということだが、この件に関しては異論が多く、日本の産業経済が破綻するという危惧を述べる識者が多い。著者もその一人で、『TPP亡国論』(集英社新書)で持論を展開している。
 現在の日本は、政府の累積債務が国内総生産の200%近くまで達しているが、他方で長期に渡るデフレ不況と高い失業率に悩まされている状況だ。こうした中で、累積債務の規模の大きさをもって政府支出の削減や増税を唱える現政権の立場と、デフレと高失業率の方を問題視して、財政出動が足りないとする二つの立場がある。前者を健全財政論者、後者を機能的財政論者というのだが、著者は後者の立場に立つ。デフレ経済の場合、企業は投資と負債を控えるために貯蓄過剰になり、民間がマネーを過剰に保有している状態になる。これを是正するには、民間部門の貯蓄を減らし、政府が投資を拡大する必要がある。そのため政府がすべきことは国債を発行して民間に滞留するマネーを吸い上げ、公共投資として需要拡大に振り向け、国民経済の需要を調整して、物価の継続的な下落を食い止めることである。日本の国債はその9割が内国債で、他国の干渉を受ける心配はないので、赤字国債は気にする必要がない。要するにケインズ主義的なマクロ経済運営をすることだと言っているのである。この説自体は目新しいものではないが、実現のためには機能的財政論に立つべきで、国家経済ではなく国民経済にシフトしなければならないと説く。それには国民主体のナショナリズムが必要で、これがなければグローバル化という名の他国(アメリカ)による経済支配を受けざるを得なくなる。TPPはまさにその象徴で、これに参加・不参加は将来の日本の行く末を決めてしまうというわけだ。
 折しも野田内閣が成立、TPP問題は行く手に立ちはだかっているが、挙党体制ゆえTPP反対の小沢派の閣僚もおり、すぐには参加とは行かないと思われる。しかし3日の朝日新聞では鉢呂経済産業相や、はっきり反対を唱える鹿野農林水産相をあえて閣内に取り込んで、TPPを前に動かそうとするのが野田総理の狙いだと書いてある。これで思惑通りに行けば野田氏も相当のやり手ということになるだろう。こんな状況で、著者の言う非グローバル化の道を辿れるのだろうか。