読書日記

いろいろな本のレビュー

デフレの正体  藻谷浩介  角川新書

2011-05-22 16:45:57 | Weblog
 私が本書を購入した時は35万部突破と腰巻に書いていたが、今は50万部突破したようだ。低迷する日本の経済に対する正鵠をえた分析が読者に支持されたのだろう。一読して日本の問題は「現役世代の減少」と「高齢者の激増」の同時進行にあり、これは大都市圏も地方も関係がない。高齢者が増えるということは生産年齢人口が減少することで、内需は構造的に縮小しているのだ。ものが売れないのはここに原因がある。著者曰く、「いくら生産年齢人口が減少しようとも、労働生産性さえ上げられれば、GDPは落ちない」というマクロ経済学の絶対的な定理が、「GDPさえ成長していれば、それが世界の隅々に波及して皆がハッピーになる」という思い込みと合体して、日本の経済関係者の間に究極の油断を生んでいる。団塊の世代の高齢化によって消費はますます減少していく。なぜなら、高齢者の多くは特に買いたいモノ、買わなければならないモノが無い。逆に「何歳まで生きるかわからない、その間にどのような病気や身体障害に見舞われるかわからない」というリスクに備えて、「金融資産を保全しておかなければならない」というウオンツだけは甚大にある。実際、彼ら高齢者の貯蓄の多くはマクロ経済学上の貯蓄とは言えない。「将来の医療福祉関連支出の先買い」、すなわちコールオプション(デリバティブの一種)の購入なのです。先買い支出ですから、通常の貯金と違って流動性は0%、もう他の消費には回りません。これが個人所得とモノ消費が切断された理由ですと。
 私はこの説明を読んで、腑に落ちた。人間60を越えると、将来の不安からか、やたら支出を制限して小金を貯めようとする。特に何を買うのでもなく、ただ漫然とだ。葬式金だけ置いて後は使ってしまおうというきっぷのいい老人は少ない。結局は使えないままあの世に旅立つことになる。現世の金はあの世持ち込めないのに、使う勇気がないのだ。結局は孫・子に使われたり、税金でごっそり持って行かれたり、国庫に入ったりするわけで、消費が低迷するのは当然だ。特に女性にこの傾向が顕著のような気がする。お金があれば精神的に安定する、お金大好きという女性は多い。また親の遺産相続をする年齢も本書によると67歳ぐらいで、その遺産も消費にまわされる可能性は少ないという。これでは生産年齢層に所得移転が行なわれず、一番お金が必要なところに回らない。これからの国の課題はそこだ。埋蔵金をどんどん世の中に送りこむシステムを考えると同時に、お金があれば安心という人間を啓発することも大事になってくる。宗教や哲学や文学の出番が来ていると思うのだが、どうだろうか。知的想像力の中に死の恐怖を昇華させて、いつ何があっても動じない精神を涵養するのである。老人よ、お金をどんどん使って若い者の所得の増加に貢献しよう。

逆説の日本史17 井沢元彦  小学館

2011-05-22 08:30:24 | Weblog
 日本史の常識を覆すシリーズの第17巻。副題は「アイヌ民族と幕府崩壊の謎」で、例によって「謎解き」のパターンである。アイヌとロシアと江戸幕府(松前藩)の幕末の動向については夙に渡辺京二氏が発表した好著、『黒船前夜』(2010年 洋泉社)に詳しいが、本書の週刊ポスト連載時はまだ未刊であったためか参考文献に入っていない。渡辺氏によれば、この時期、幕府は松前藩を作って蝦夷開拓の契機にすべくアイヌ統治に全力を傾けたが、辺境地のこととて本州のようにはいかない。間宮林蔵に探検させていたぐらいだから、地勢調査は緒についたばかりだった。おまけにコメができないので松前藩には石高がないのだと。したがって松前藩のアイヌ支配は井沢氏の言う通りだまし討ち等、卑劣な手口が横行していた。その蝦夷地にロシアが交易を求めてやってきたが、幕府は厳しい鎖国政策のを盾にノーの態度をとり続けた。おかげでレザノフは一年もの間、長崎港での滞在を余儀なくされた。渡辺氏はこの時日本は開国とそれに伴う近代化のチャンスを失ったと言う。井沢氏も同様の記述で、その原因を幕府の朱子学的発想に求めている。わかりやすく言うと幕末の倒幕志士のスローガン「尊王攘夷」である。この頑迷な思想が幕府の開国を阻害し、近代化を遅らせ、諸外国との外交下手の伝統を作りだしたのだと。
 江戸幕府を支えた思想は儒学であるが、それも朱子の哲学(理気二元論)であった。具体的には名分を正すということで、上下関係の厳格化と中華思想が柱となったが、井沢氏はそれに本居宣長の国学の思想(天皇が絶対神だという考え方)がミックスされていると指摘する。宣長の考え方も天皇から庶民という階層を意識した名文論なのだが、それが平田篤胤によって継承された。神道を基礎においた国学の展開を本居宣長、平田篤胤、荷田春満、賀茂真淵(国学の四大人)に焦点を合わせて、キリスト教の神と比較して述べた部分はなかなか読ませる。神は俗事に関与しないということを『旧約聖書』の「ヨブ記」を引いて説明しているところに私は一番感銘を受けた。よく勉強していると思う。「神に祈れば救われる」ということは無いのである。神は御利益とは無縁なのだ。
 著者によれば、朱子学の政治への悪影響は三つあるという。一つは、新しい事態に柔軟に対応できないこと。その理由は先祖つまり今とは全く違う前提で生きてきた人々のルールを「祖法」という形で絶対化するからで、これは儒教の「孝」と関係がある。二つは、日本人が意識していない朱子学の最大の欠点だが、歴史を捏造することである。現実よりも理想を重視する朱子学のもとでは「実際あったこと」は無視され、「あるべき姿」が歴史として記述される。三つは、外国人を「夷」と決めつけ、その文化を劣悪なものとして無視すること。以上をまとめて幕末の「祖法」を考えると、神格化された東照大権現こと徳川家康がそれにあたる。「鎖国」は家康が決めたこと故、それを覆すことは不可能。ロシアとの交易の機会を逃した理由はここにある。これで馬鹿げた「鎖国」の謎は解けた。これだけの内容を1600円の本で読めるというのは稀有のことである。井沢氏には今後ますますの精進をお祈りする次第である。

オウム真理教の精神史  大田俊寛  春秋社

2011-05-14 17:08:52 | Weblog
 「最終解脱者」麻原彰晃を教祖とし、超人類によるユートピア国家の樹立を目論み、ハルマゲドン誘発のため生物化学兵器テロに踏み切ったオウム真理教。その幻想は何処に由来し、何故にリアルなものになりえたのかをロマン主義、全体主義、原理主義の三点から分析したものである。高が邪教集団を学問的な三点主義で分析とは「鶏を割くにいずくんぞ牛刀を用ゐんや」の感無きにしもあらずだが、三つの主義の説明はそれだけで十分読み応えがありよくまとまっている。中でも全体主義をこのカルト集団の説明に援用したところは興味深かった。著者曰く、全体主義的な政治体制が成立するために、その必須の前提条件となるのは、近代的な群衆社会が形成されるということである。(中略)近代の社会システムが深く浸透するようになると、人々は故郷を離れて大都市へ参集し、その多くは会社や工場で働く労働者となった。こうした環境において、群衆のなかに芽生えてくるのは、眼に見えるものによっては世界を十分に理解できないという感覚である。しかし自らを包み込んでくれる不可視の統一体系を提示されると、いとも簡単にその実在を信じ込んでしまう。そして政治家は、群衆のこうした傾向を巧みに利用する。政治家は群衆に個々人がそこに自らの生の基盤があることを実感し、自我を没入させることができるような「世界観」を提示しようとする。全体主義とは一言で言えば、孤立化した個々の群衆を特定の世界観の中にすべて融解させてしまおうとする運動なのであると。アーレントの『全体主義の起源』を引きながらナチスの台頭を例にとって説明している。規模は違うがメンタリティーは同じだという気はする。麻原はヒトラーに擬せられている。ヒトラーも苦笑しているだろう。
 また原理主義はアメリカのキリスト教原理主義を例にとって説明しているが、佐々木中は近著『切りとれ、あの祈る手を』(河出書房新社)で原理主義に触れて、次のように言っている、「原理主義という言葉自体が、なんでも投げ込んでおける屑かごのような曖昧な概念になり果てしまっています。悪しき原理主義と定義すべきものは何か。それは、自分とテクストの区別がつかなくなっている者、そしてその病んだ状態ということに他なりません。多くの暴力的な原理主義は、いわば無原理主義であって、依拠していると称するテクストにまったく根拠を置いていない。(中略)オウム真理教だってそうです。仏教だのキリスト教だの我儘勝手に過去の聖典を引いていますが、実はまともに聖典を読んでいない。今さら、ブッダは修行を否定している、なんて言わなくてはいけないんですか。あのブッダですら最終的な解脱、すなわち涅槃(ニルヴァーナ)に達したのは死んだ時ですよ。生きているうちに最終解脱なんてことはあり得ない。麻原のように、生きているうちに「最終解脱者」を名乗るなどというのは沙汰の外です。まったくの論外ですよ」とにべもない。高が邪教集団に学問的分析はいかがなものかという私の疑念はまんざら間違いではなかったようだ。因みにこの佐々木氏の本は「読むこと」の意味を説いたもので、非常に刺激的だ。
 結論的にはオウム真理教には「精神史」というたいそうなものはなかったが、この教団の人をだまして入信させる手口は全体主義が群衆をだまくらかすやり方と同じということである。孤独な社会は理性的なものを抑圧して爆発的な感情に走る危険性を孕んでいる。要注意だ。

ユダヤ人の起源  シュロモー・サンド  浩気社

2011-05-07 14:21:07 | Weblog
 この書はユダヤ人によるシオニズム批判である。最後はシオニズムの結果誕生した国家、イスラエルの批判となっている。シオニズムとは、長く離散の状態にあったユダヤ教徒が約束の地、シオン(エルサレム)に帰還することで、始まりは19世紀後半、ヨーロッパやロシア各地で排外的なナショナリズムが生まれ、ユダヤ人が追いつめられたときである。当初シオニズムはユダヤ教の教えに反するということでユダヤ教徒からは否定されていた。その後、1948年にイスラエルが建国されたわけだが、その陰にはナチのジェノサイドに責任を感じた欧米諸国の協力もあった。
 シオニズムの前提となるのはシオンからの追放だが、著者によればこれがそもそも疑わしいという。まず第一にローマ人はいかなる「民族」の組織的追放も決して実行したことはなかった。ユダヤ人は離散したが、各地でユダヤ教を広げ信者を獲得して行った。こうしてユダヤ人が増えたのはローマ帝国、アフリカ、ロシア等でユダヤ教の改宗者が増えたためである。(この件は第三章「追放の発明ーー熱心な布教と改宗」に詳しい)したがってユダヤ人というものがアプリオリなものとして存在するわけではなく、19世紀のヨーロッパのナショナリズムの中で生み出されたものなのだ。ユダヤ人というのはユダヤ教徒であって、民族(エスニック)とは関係がない。本書の原題は「ユダヤ人の発明」なのだが、まさにユダヤ民族・人種は「発明」されたのである。故国喪失と追放の神話はキリスト教の精神的遺産の中で維持された後、そこから再びユダヤ人の伝承の中へ浸透してきたものであり、それに続いてネイションの歴史に刻み込まれた絶対的真実へと姿を変えたのであった。
 一方、シオニズムによって建国されたイスラエルはパレスチナ人を追い出し、彼らの土地を奪うことでできた。以来パレスチナ人との争いは周知の通りである。近年イスラエルの強硬姿勢は批判の的だが、ジェノサイドに負い目を持つ欧米諸国はその批判に応えることができない。反ユダヤ主義のレッテルを貼られるのが怖いのだ。アメリカは特にそうである。「民族」という虚構で集められた「ユダヤ人」の国家は他と比べて異様な姿を現している。イスラエルはユダヤ人のための国家で、ユダヤ人の定義は、ユダヤ教徒であることが基本で、その母から生まれたものだけがユダヤ人ということで、他の宗教・民族には不寛容だ。他民族との融和・共生という発想の無さがパレスチナ人問題の解決を阻害している。本書ではユダヤ人自身からそれに対する批判が提起されたことはある意味画期的だ。内部から変革しなければ国際的な孤立を招くだろう。
 

盤上のアルフア  塩田武士  講談社

2011-05-07 12:34:39 | Weblog
 タイトルのアルフアとは狼の群れのボスのことらしい。基本的に群れの中で交尾できるのはこのアルフアで、交尾中に他のオスの妨害にもめげず戦い抜く姿にインスパイヤーされた男の生き方を描く。男の名前は真田信繁で将棋のプロを目指す。家庭的には不幸で、母は男を作って出奔、父は育児を放棄、伯父の家に預けられ苦労の連続。将棋は父から指導を受けてたしなみはあったが、ある日、謎の真剣師に出会って将棋の魅力にはまりプロ棋士になりたいと思うようになった。真剣師とは掛け将棋で生きている人のこと。プロ棋士は簡単になれるのものではないのだが、現世の不幸を払拭してこれ一本に賭けられるものとして意識されている。狂言回し役が、新聞記者の秋葉隼介。自身は事件記者から将棋観戦記者に配置換えを食らい、腐っているという設定だが、新聞記者としての体験に負うところが多いのだろう。真田は33歳で、年齢制限で本来ならプロ棋士の養成機関である奨励会の三段リーグに参加できないが、特別に編入試験を受けて奨励会員の二段・初段7人と戦って6勝すれば合格できる。結局初戦は敗れたが、あと6連勝するという小説ならではの奇跡の展開を見せる。
 しかし、合格しても三段リーグを抜けるのは簡単ではない。したがって無事プロの4段になってめでたしめでたしという話ではないので、それが却ってこの小説に陰翳をもたらしている。喜怒哀楽、幸・不幸、運命的な出会い等々、ある限りの要素を全部つぎ込んで書いた感じの小説だ。腰巻には「第五回小説現代長編新人賞選考会満場一致の完全受賞作」とある。確かによくまとまっているが、読んでいると次の展開が予想できてしまって意表をつくということがない。2作目が難しいだろうと思う。実は真田信繁は作者の創作ではない。モデルは瀬川4段という人物で、もと奨励会員だ。年齢制限で大会後、アマ棋界で大活躍しプロにも互角の勝負ができるほど腕をあげて、編入試験で四段になった。彼は退会後、大学に行きサラリーマンになった。本書はそれをデフオルメして書いている。そのほうがドラマになりやすいことは確かだ。棋士の次は何で勝負に出てくるのか、お楽しみ。