読書日記

いろいろな本のレビュー

アメリカの金権政治 軽部謙介 岩波新書

2009-06-28 14:12:55 | Weblog

アメリカの金権政治 軽部謙介 岩波新書



 アメリカの政治は金で動く。これはオバマでも変え難いのが実情らしい。資金集めに血眼の政治家、利得追求が第一の献金者、カネの亡者となったロビイスト。本書はアメリカのマネー政治の実情をドキュメントしたものである。
 特に第一章のロビイストのスキャンダル報告は、徳なき人間のさもしい行状が白日の下に晒されて悲しい。アメリカ先住民族のインデアンのコミュニティーにおけるカジノ解禁にまつわる話だ。彼らは生活の手段としてカジノを経営していたのが、これが禁止になって途方に暮れていた。ここに強欲なロビーストが登場して、カジノ復活を政治家に働きかけると言って近づき、彼らを騙して大金を巻き上げるというものだ。ジャック・エイブラモフというロビーストの逮捕・起訴されるまでの展開を克明に追っている。少数民族の弱みに付け込んでカネを巻き上げるというのはまさに人間として許しがたいが、逆にいうとカネがすべてというアメリカの現状を逆照射するものだ。民主主義の範を以って任ずるアメリカだが、その腐敗は日本の比ではない。政治資金規正法に抵触云々の日本の政治家が可愛く見えるほどである。日本の構造改革がこの金権体質のアメリカ主導で行われたということをよく覚えておく必要がある。新自由主義派にコロッと騙されて悪のグローバリズムに席巻されてしまった。このアメリカにまともに物を言える政治家が居ないということが問題だ。
 今日本は自民党政権が末期状況を呈しているが、その自民党の足元を見たような発言を臆面も無くやる宮崎県知事。私を総理大臣にしてくれとは思い上がりも良い所。マスコミの寵児が何を勘違いしているのか。逆に言うと日本のメディアのレベルの低さがこのような手合いを大量生産してきたということだろう。何かこの国はおかしい。レベルが低い。森巣 博は近著『越境者的ニッポン』(講談社現代新書)で日本の非常識ぶりを海外生活者の目で批判している。レベルの低いメディアに誘導される無知な国民。宮崎県知事のあのマニアックな目でこの国を何とかしたといったのを見た時、私は戦慄を覚えた。彼と同類の大阪府知事のギトギトの脂っこい顔を見たときも一緒だった。何とかして欲しい。神様お願い。

大韓民国の物語 李榮薫 文藝春秋

2009-06-27 09:25:39 | Weblog

大韓民国の物語 李榮薫 文藝春秋



 韓国の事大主義とそれに伴う小国意識はつとに有名だが、それは時としてナショナリズムの嵐となって表面化する。その韓国の歴史教科書について、批判したのが本書である。現役のソウル大学教授であることが、韓国内に衝撃を与え、猛攻撃を受けた。国賊扱いされたものと思われる。しかし、著者は『朝鮮後期土地所有の基本構造と農民経営』『朝鮮土地調査事業の研究』等、実証主義の経済学者であり、張ったりとは無縁の人物である。自国可愛さのあまり、批判に対して過剰反応するのは韓国の通弊だが、それをものともせず出版したというのは、学者の良心の発露であり、真に国を思う憂国の志士である。
 韓国の歴史教科書の一番の問題点は「近現代史」である。自ら勝ち取った独立ではないという引け目が、解放者である連合軍に対する非難となって描かれる。曰く「直接、我々に光復をもたらしたのは連合軍の勝利だった。連合軍が勝利した結果として光復がもたらされたことは、我が民族が望む方向に新しい国家を建設するのに際し障害となった」と。これは即ち、連合軍による解放が、新しい国家の建設に障害となったということである。著者は言う、「これはいったい何たるお話でしょうか。私はこのような愚にもつかない主張が、政府の検定を通過した教科書に堂々と載せられていることを見ると、率直に言って韓国にもやはり北朝鮮にひけをとらない偽善の知性が跋扈していると考えます」と。まさに正鵠を得た表現で、同感である。日本の教科書の歴史認識は誤っていると批判できる立場にいまだ至らないという感じだ。
 成熟した民主主義国には程遠い苛立ちが、連合国、日本に対する批判として噴出するが、その典型的なものが、「日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法」である。60年以上も前の親日派を調べ上げ、法律によって彼らの名前を公表しようとするもので、なんとも気の遠くなるような話だが、韓国は真面目にしっかりとやろうとしているのだ。死者の墓を暴いて遺骨を白日のもとに晒そうというすごい法律だ。遺骨も風化した可能性の方が高いのに、この執念。この特別法の「提案理由」に次のようなくだりがある。(著者引用)
 我が国が解放されてから半世紀が過ぎようとしているのに、当時の日本帝国主義に協力した者達が犯した反民族行為に関する真相を明らかにしようとする努力や、実質的な調査が不完全だったため、この間において我が社会の正義というものが翳り、また歪曲された歴史が是正されないなど、多くの弊害が存在しているため云々
 著者はこれについて「死者の亡霊が歴史と宗教の形態で生者を支配しているという、前近代的な思考方式に他ならない」と一刀両断にしている。責任を他者になすりつけるという心性は、事大主義と裏腹の小国意識が悪い形で出たものに他ならない。自国の歴史を客観的に見て、冷静に政治的施策に反映させることが急務だ。贔屓の引き倒しになってはいけない。日本もこれを「他山の石」とすべきだろう。

沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 佐野眞一 集英社

2009-06-20 08:56:07 | Weblog

沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 佐野眞一 集英社



 沖縄は太平洋戦争末期の激戦地、ここでは現地住民を巻き込んだ悲劇が星の数ほど生まれた。戦後はアメリカの管理下に置かれ、本土の経済発展から取り残された。1972年5月15日に本土復帰を果たすが、戦後史の影の部分を担ってきた感がある。沖縄については夥しい数の本が書かれてきたが、著者によると、ほとんどが《被害者意識》に隈取られた《大文字》言葉で書かれており、それに対しては、目の前の現実との激しい落差に強い違和感を覚えるとの事。さらに続けて、沖縄本を覆う違和感とは大江健三郎の『沖縄ノート』に象徴される「本土から沖縄に怒られに行く」「戦争の被害をすべて引き受けた沖縄に謝りに行く」という姿勢である。沖縄県民を一点の汚れもない純粋無垢な聖者のように描き、そうした中で自分だけは疚しさを持つ善良な日本人だと宣言し一人悦に入っているという小林よしのりの批判に同感し、沖縄県民を聖者化することは、彼らを愚弄することとほぼ同義だと述べる。そこで、読者がこれまで見たことも聞いたこともない「小文字」の物語だけを書こうというのである。
 平和学習で沖縄に修学旅行に行くというのはまさに上記の発想によるものである。沖縄に学ぶという姿勢は戦後一貫して保持されてきた。最近も集団自決は軍の強制があった、無かったということが裁判になったが、もと軍人から批判されたのが大江健三郎の『沖縄ノート』であった。裁判所の判決は強制はあったということで終わったが、思うにあった地域と無かった地域があったということであろう。いわばコインの両面を議論しているに過ぎない。最近は沖縄返還交渉で密約があったかなかったかということで話題になっている。アメリカ側には密約があったという証拠の文書が残されているにもかかわらず、日本政府は無いの一点張りだ。毎日新聞の西山太一元記者は密約があったという記事を書いて罪に問われたが、最高裁で有罪の判決を受け、未だに名誉回復されていない。この件で山崎豊子が小説を書いている。このように沖縄に関する話題は尽きない。
 著者は沖縄県警、やくざ、怪人、猛女、パワーエリート、歌手などを取材し未知の沖縄を我々に提示してくれる。沖縄も人間の世界、聖人君主の集まりではないことが今更ながらに理解できる。なかでも沖縄人の奄美大島出身者に対する差別は尋常でないことが、驚きだった。本土から差別される沖縄が、奄美大島を差別する。差別の重層化だ。この一点をとっても沖縄を神聖視することの愚がわかろうというものだ。沖縄かぶれのインテリに奉げた書という意味で、存在感はある。



怖い絵 中野京子 朝日出版社

2009-06-13 11:35:58 | Weblog

怖い絵 中野京子 朝日出版社



 副題は名画に塗りこめられた恐怖の物語。西洋の古今の絵画の時代背景、作者の経歴などを交えて絵画の見方を解説したもの。宗教画は徳にキリスト教の教養がなければ理解できないものが多く大変参考になる。続編の「怖い絵2」も同趣向の内容で読んでいて飽きない。
 ドガの『エトワール、または舞台の踊り子』は可憐なバレエダンサーを描いて人気が高いが、ドガが踊り子を描いた十九世紀中ごろはバレーの人気は衰え、中心はロシアへと代わって行った。パリ・バレエ界は堕落し、オペラ座は上流階級の男たちのための娼館となっていたのだ。そこに常駐していた娼婦が即ち踊り子であった。ドガ描くところの踊り子も例外ではない。そして背後の書割の陰に佇む黒服の男こそ、エトワール(スター)のパトロンなのだ。森鴎外の『舞姫』に出てくるエリスもダンサーとして糊口を凌いでいたが、娼婦まがいの仕事をしていたものと思われる。高校の教科書でこれを掲載しているものが多いが、エリスの境遇をシカと理解したうえで無いと、最後に太田豊太郎がエリスをあっさり捨てるところが、理解できないだろう。エリート豊太郎は娼婦エリスを捨てる。これが「才子佳人小説」の決まりきったパターンである。『舞姫』もこれを踏襲していることは間違いない。また、ベーコンの『ベラスケス(教皇インノケンティウス十世像)による習作』も原画の独創性を基にしたもので、和歌の「本歌取り」を思わせる。その他名作についての鑑賞の勘所を懇切丁寧に説いて切れているので、参考になる。
 これを読めば、絵画に無知な彼女を美術館に誘って、知ったかぶりができそうだ。そのためにも二冊とも購入すべきである。

出口なお 安丸良夫 洋泉社MC新書

2009-06-07 09:03:49 | Weblog

出口なお 安丸良夫 洋泉社MC新書



 大本教の開祖、出口なおの生涯を描いてその宗教の本質に迫ろうとしたもの。出口なおは文盲に近く、その筆先は稚拙な文字で書かれている。その神は病治しの神ではなく、この世界の根本的な変革即ち立替えの切迫と人々の改心の必要を告知するもので、この点は「おかげ」をいただくことを中核に教義そのものが構成されている金光教などとは異なり、病人をさがし出して病気なおしの奇跡を行い、それによって教勢を拡大した天理教とも異なっている。大本教は最初宗教団体として認められるまで、金光教の傘下に入っていた。その後独立するが、なお自信は自分に取り憑いた神の正体が分からずにいたのである。それを分析したのが、のちに娘婿になる出口王仁三郎である。彼は国学的神道説の系譜の神道思想と鎮魂帰神法を身につけた霊学の「先生」として教団に参加したので、なおの終末観的危機意識とは齟齬を来たして混乱が生じた。そこでなおの神格(丑寅の金神)を日本書紀の稚日女尊(天照大神の娘)と読み替えた。これによって、天照大神の委任を受けてこの地上を支配する神となり、神格が大きく発展した。
 その後、大本教の教義は多義的に解釈されていったが、その基本線は①天皇制国家主義(国家主義)、②鎮魂帰神による神霊の実在の確証、③立替え立て直しの三つの要因の複合にあった。そして大正期に爆発的に発展したが、その後、天皇制国家の終末を予言するような王仁三郎の言説がもとで弾圧を受けることになった。
 なおは大正七年十月二日、「鉄の棒が針になるとこまでの」辛苦と苦難の生涯を八十二歳でおえた。近代社会を「悪」として措定し、異なった文明の形を要求したラヂカリズムが一文盲の女性に体現されたというのは驚きにあたいする。物質に害された日本の状況を見ると、人生を戦い抜いた人間の崇高さがひときわ実感される。これが本来の宗教家というべきななのだろう。

朱子 木下鉄也 岩波書店

2009-06-06 16:42:23 | Weblog

朱子 木下鉄也 岩波書店



 北宋の思想家朱熹の思索の跡を、『大学』『中庸』に対する彼の注釈の冒頭に現われる「理」「事」や「命」「性」などのキー・タームをもとに読み解いたもので、今まで手薄だった朱子学の研究に新境地を拓いている。そもそも朱子学は封建的な大義名分論としてイメージされるが、「朱熹」その人は朱子学者ではない。
 彼が生きた北宋時代は皇帝のもとで官僚制度が完備された時代であった。国家は体系的に文節される各「職」によって担われ、そしてそれぞれの職については細かな「職務事項」が箇条書きされ、一種の法令として公開されていた。それぞれの「職」に任ぜられる国家職員が職員として行う活動は予め明示されている国家作用について公開された約束を実現する行為であった。国家を法令として公開された職のパブリックな体系=機関と理解する、とは、その構成員=職員各位にはその活動を分担する「職務」が課せられていると捉えることである。ある特定の活動が「職務」として課せられている時、そのことを「為すべしとパブリックに課されている活動」という意味で、ただの「活動」例えば身体的欲求を満たすための活動などから区別して「つとめ」と呼ぶことができるだろう。朱熹の生きた時代とは、このような「債務」と「職務」に通用する「つとめ」の感覚が国家職員の中に育ちさらに広く「つとめ」の感覚が支える信用秩序創出の可能性が育ちつつある時代なのであったと著者は述べる。官僚がこのような意識で仕事をすれば、国の繁栄充実は自ずから保証されるだろう。皇帝は絶対権力者だが実務は官僚に任せるしかない。全体のバランスを見て政治的な決断を下すことになる。なんでもかんでも口出しする為政者は国を混乱に陥れる。わが国では霞ヶ関の官僚に対する風当たりが最近強いが、これをぶっつぶしては国が成り立たない。彼らの優秀な能力を発揮させるのが政治家の仕事である。橋下、東国晴、森田などの知事の頭よりよっぽど賢い連中が官僚になっているはずだ。民意で選ばれたと事あるごとに彼らは主張するが、今の普通選挙は民主主義を体現する唯一の方法ではない。これに関しては『民主主義という錯覚』薬師院仁志 (PHP)に詳しく書かれている。ルソーやモンテスキューは、議員や統治者をくじ引きによって選ぶことが民主主義にかなうものだと論じたことはあまり知られていない。しかしくじ引きが民主主義の本質だという指摘は奥が深い。くじ引きが神の意志という考え方もある。実際、本邦足利将軍、義教はくじ引きで選ばれたのだ。岩清水八幡宮の神殿でくじ引きが行われたということは、くじの結果は神の意志ということで、だれも文句が言えないということになる。足利時代においてルソーのいう民主主義的手続きによって将軍が選ばれたといいうことは興味深い。薬師院氏の著書は上記のようなバカ知事(石原東京都知事も含めるとよい)が選挙で選ばれてしまうという欠点を憂慮して書かれたものに違いない。普通選挙と民主主義は関係ないのだ。著者曰く、民主主義は強制されるものではない。人々がそれを望んで、はじめて受け入れられるものである。だから、たとえ国民主権や普通選挙を謳う憲法が存在したとしても、国民が民主主義を望まないのであれば、民主主義的な国家など生まれようが無いと。あのヒトラーも選挙で選ばれたのだという事を我々は思い出す必要がある。(閑話休題)
 宋代についてこのような分析をした書物は今までなかったと思う。宋代官僚制の本質を鋭く突いた記述である。この時代に朱熹が到達した認識は、人には「万物(生きとし生けるもの)」を生み出し育む「天地(自然)」から託された責務がある。この託された「いのち」を十全にいきるという責務は、いわば「自然」より任ぜられた職務である。生きてある限り「自然」と「生きとし生けるもの」の前に質されている「人としてのつとめ」である。これが朱熹の生涯を賭けた思索の帰結であり、同時代に示し、そして後世に遺した哲学であったとパブリックな存在としての人間のあり方を取り上げている。今までの朱子学に対する偏見が洗い流されるような見解である。公と私の問題は近現代の哲学の重要なテーマである。それを12世紀に生きた朱熹がすでに取り上げているのは驚きである。