副題は『「死の棘」の妻・島尾ミホ』である。660ページにわたる大作で資料の整理に多大の労力を費やしたと推察するが、非常に読みやすくて島尾ミホの人となりが鮮明に描かれている。ミホの夫は島尾敏雄で、「死の棘」の作者。この小説は妻ミホとの驚天動地の夫婦生活を日記形式で綴ったもので、映画にもなった。ミホの精神が異常をきたす中で、妻と向き合う敏雄の日常を記したものだ。
島尾敏雄は太平洋戦争中、予備学生として魚雷艇の訓練を受け、後に特攻志願が許されて震洋艇乗務に転じ、昭和19年11月、第18震洋特攻隊の指揮官として180余名の部下を引き連れて、奄美諸島加計呂麻島の基地に向かい、そこで出撃を待ったが、出撃前に終戦となった。その詳細は『魚雷艇学生』(新潮文庫)に書かれている。ミホはこの時、加計呂麻島の国民学校の教師で、敏雄と知り合い恋愛関係になり、昭和21年に結婚した。本書のカバーにミホの若い時のポートレートが使われているが、彫りの深い南国美人である。この時、敏雄29歳、ミホ27歳であった。本書によると特攻隊の指揮官時代に敏雄は梅毒を患っており、ミホにそれをウツしたことでトラブルが発生したようだ。敏雄の小説は、特攻隊の指揮官として死を決意したものの、終戦によって命拾いしたその空虚感をテーマにしたものが多く、非常に生真面目な感じを与えるが、実生活ではかなりの艶福家であったようだ。それがもとで、妻のミホとのいさかいが絶えず、彼女を精神的に追い詰める結果になった。
敏雄は愛人との交際ぶりを日記に書いており、それを見たミホが激情して、ある日訪ねてきたその女性に対して敵意むき出しで暴力をふるうというようなことが日常の一こまとして描かれているが、敏雄はその日記をわざとミホの目に入るように仕向けた可能性もあり、敏雄の創作方法の一面を垣間見たような気がする。
序章の口絵の所に、ミホが市川市の国府台精神病院に入院していた昭和30年8月19日、敏雄が書いた血判入りの誓約書の写真がある。それに曰く、「至上命令 敏雄は事の如何を問わずミホの命令に一生涯服従す 敏雄 ミホ殿 (如何なることがあっても厳守する。但し病気のことに関しては医者に相談する)」と。
この誓約書がこの夫婦のありようを端的に表している。敏雄は基本的に女性に対して優しい。だから持てたのだろうが、これだけ夫と妻の人格が格闘した夫婦は珍しいのではないか。特にミホはその感情の量がやたら多い。洪水のように溢れ出る喜怒哀楽を敏雄は黙って浴び続けたのであろう。ミホも後年作家として活動するが、これだけの思いがあれば書くことはいくらでもあっただろう。要するに二人はもともと作家的資質(破滅的傾向)に恵まれていたと言えるだろう。それゆえ日々の格闘も作家としての営為の範疇に入っていたので、凡人が想像するほど苦にならなかったのかもしれない。でも私だったら逃げるだろう。どろどろし過ぎている。
島尾敏雄は太平洋戦争中、予備学生として魚雷艇の訓練を受け、後に特攻志願が許されて震洋艇乗務に転じ、昭和19年11月、第18震洋特攻隊の指揮官として180余名の部下を引き連れて、奄美諸島加計呂麻島の基地に向かい、そこで出撃を待ったが、出撃前に終戦となった。その詳細は『魚雷艇学生』(新潮文庫)に書かれている。ミホはこの時、加計呂麻島の国民学校の教師で、敏雄と知り合い恋愛関係になり、昭和21年に結婚した。本書のカバーにミホの若い時のポートレートが使われているが、彫りの深い南国美人である。この時、敏雄29歳、ミホ27歳であった。本書によると特攻隊の指揮官時代に敏雄は梅毒を患っており、ミホにそれをウツしたことでトラブルが発生したようだ。敏雄の小説は、特攻隊の指揮官として死を決意したものの、終戦によって命拾いしたその空虚感をテーマにしたものが多く、非常に生真面目な感じを与えるが、実生活ではかなりの艶福家であったようだ。それがもとで、妻のミホとのいさかいが絶えず、彼女を精神的に追い詰める結果になった。
敏雄は愛人との交際ぶりを日記に書いており、それを見たミホが激情して、ある日訪ねてきたその女性に対して敵意むき出しで暴力をふるうというようなことが日常の一こまとして描かれているが、敏雄はその日記をわざとミホの目に入るように仕向けた可能性もあり、敏雄の創作方法の一面を垣間見たような気がする。
序章の口絵の所に、ミホが市川市の国府台精神病院に入院していた昭和30年8月19日、敏雄が書いた血判入りの誓約書の写真がある。それに曰く、「至上命令 敏雄は事の如何を問わずミホの命令に一生涯服従す 敏雄 ミホ殿 (如何なることがあっても厳守する。但し病気のことに関しては医者に相談する)」と。
この誓約書がこの夫婦のありようを端的に表している。敏雄は基本的に女性に対して優しい。だから持てたのだろうが、これだけ夫と妻の人格が格闘した夫婦は珍しいのではないか。特にミホはその感情の量がやたら多い。洪水のように溢れ出る喜怒哀楽を敏雄は黙って浴び続けたのであろう。ミホも後年作家として活動するが、これだけの思いがあれば書くことはいくらでもあっただろう。要するに二人はもともと作家的資質(破滅的傾向)に恵まれていたと言えるだろう。それゆえ日々の格闘も作家としての営為の範疇に入っていたので、凡人が想像するほど苦にならなかったのかもしれない。でも私だったら逃げるだろう。どろどろし過ぎている。