副題は「法務省がひた隠す極刑のリアル」。先進国で死刑を実施しているのは、アメリカと日本だけ、全体主義国家では中国と北朝鮮が有名である。全体主義国家では人民統制の手段として死刑が実施されるが、公正な裁判がそもそも期待できないし、その実態は不明である。以前中国を旅行した時のガイドの話だと、麻薬犯と14歳以下の少女を凌辱した場合は即死刑だということだった。また死刑促進週間というのがあって、刑務所に入っている死刑囚を街中の公園に複数名連行して、一挙に銃殺するというのも週刊誌で見た。いわゆる見せしめだ。これぐらいやらないと治安維持ができないと当局は考えているのだろう。恐ろしい話である。
一方、アメリカは州政府が権限を握っているが、死刑のない州もあるし、実施する州でも死刑執行の情報は開示されている。ところが日本は副題の通り、死刑の詳細は伏せられており、実態を知っている人は少ない。そのせいだろうか、世論調査では日本国民の八割が死刑制度に賛成という結果が出ている。死刑執行を命じた法務大臣が、遺族の被害感情を鑑みると執行もやむをえないというコメントを付けるのが通例になっている。法務大臣は霞が関の立派なオフイスでハンコを押すだけで自分の手を汚すことはない。しかしこの執行命令書を実施する拘置所の刑務官たちの苦労を知る人は少ないのではないだろうか。死刑制度は官僚機構のおかげで成り立っている。末端官僚の苦悩は並大抵ではない。何しろ国家による殺人を実施する要員なのだから。本書にもあるように、暴れて嫌がる囚人をどうやって刑場に連れていくのか?執行後の体が左右に揺れないように抱きかかえる刑務官はどんな思いか?絞首刑にこだわる理由は何か?等々、死刑囚、元死刑囚の遺族、被害者の遺族、刑務官、検察官、教誨師、元法相、法務官僚など異なる立場の人へのインタビューを通して日本の死刑制度の全貌と問題点を描いた力作である。
死刑制度の問題点を描いたものとして私が最初に出会ったのは辺見庸氏の『いま語りえぬことのために(死刑と新しいフアシズム』(2013年刊 毎日新聞社)であった。次が小坂井敏晶氏の『増補 責任という虚構』(2020年刊 ちくま学芸文庫)であった。いずれも絞首刑の残虐さ、死刑囚の執行を待つ精神的ストレス、執行する末端官僚の苦悩をナチのジェノサイドを命じられたドイツ軍兵士の苦悩のアナロジーとして書かれており、説得力がある。まさに近代国家の官僚主義の成果としての死刑制度と言えるだろう。特に『増補 責任という虚構』の中で小坂井氏は、75歳の死刑囚が高齢と長年の独房生活で脚が弱り、車椅子生活だっのに執行された話を書いている。曰く、「あなたに想像してほしい。ひとりでは歩けない老人を絞首台まで連行し、車椅子から降ろしてロープに吊るすその光景を」と。死刑制度賛成多数の陰で行われている死刑の実態である。この辺のことに想像力を働かせる時代が来ているのだろう。
本書には被害者の遺族の立場で死刑を望まないという人のことも書かれている。原田正治氏で、1983年にトラック運転手だった弟は、雇い主の男に保険金目的で殺された。被告は死刑になったが、10年後に面会して話すうちに、相手の真摯な反省態度に心を打たれ、許せないという気持ちは変わらないものの、このまま死刑にしていいのだろうか、もっと対話が必要ではないかと思っていた矢先に死刑が執行された。この話は最近朝日新聞でも報じられており、原田氏は「被害者は死刑を望むと決めつけないでほしい。まずは加害者と対話できる仕組みを作り、それから死刑制度の是非の議論はすべきではないか」と言っている。最もだと思う。「遺族感情に鑑み」の中身を精査・研究すべき時が来ているのではないか。ヨーロッパ諸国では日本の死刑制度に対する批判が大きいと言われている。もしアメリカが死刑を廃止したら、日本はどうするかを考えておかなければならない。日本も人権抑圧国家だというレッテルを張られかねないだろう。中国をウイグル人ジェノサイド国家だとどの顔さげて言ってんだいと逆に中国から反撃されることは必定。
一方、アメリカは州政府が権限を握っているが、死刑のない州もあるし、実施する州でも死刑執行の情報は開示されている。ところが日本は副題の通り、死刑の詳細は伏せられており、実態を知っている人は少ない。そのせいだろうか、世論調査では日本国民の八割が死刑制度に賛成という結果が出ている。死刑執行を命じた法務大臣が、遺族の被害感情を鑑みると執行もやむをえないというコメントを付けるのが通例になっている。法務大臣は霞が関の立派なオフイスでハンコを押すだけで自分の手を汚すことはない。しかしこの執行命令書を実施する拘置所の刑務官たちの苦労を知る人は少ないのではないだろうか。死刑制度は官僚機構のおかげで成り立っている。末端官僚の苦悩は並大抵ではない。何しろ国家による殺人を実施する要員なのだから。本書にもあるように、暴れて嫌がる囚人をどうやって刑場に連れていくのか?執行後の体が左右に揺れないように抱きかかえる刑務官はどんな思いか?絞首刑にこだわる理由は何か?等々、死刑囚、元死刑囚の遺族、被害者の遺族、刑務官、検察官、教誨師、元法相、法務官僚など異なる立場の人へのインタビューを通して日本の死刑制度の全貌と問題点を描いた力作である。
死刑制度の問題点を描いたものとして私が最初に出会ったのは辺見庸氏の『いま語りえぬことのために(死刑と新しいフアシズム』(2013年刊 毎日新聞社)であった。次が小坂井敏晶氏の『増補 責任という虚構』(2020年刊 ちくま学芸文庫)であった。いずれも絞首刑の残虐さ、死刑囚の執行を待つ精神的ストレス、執行する末端官僚の苦悩をナチのジェノサイドを命じられたドイツ軍兵士の苦悩のアナロジーとして書かれており、説得力がある。まさに近代国家の官僚主義の成果としての死刑制度と言えるだろう。特に『増補 責任という虚構』の中で小坂井氏は、75歳の死刑囚が高齢と長年の独房生活で脚が弱り、車椅子生活だっのに執行された話を書いている。曰く、「あなたに想像してほしい。ひとりでは歩けない老人を絞首台まで連行し、車椅子から降ろしてロープに吊るすその光景を」と。死刑制度賛成多数の陰で行われている死刑の実態である。この辺のことに想像力を働かせる時代が来ているのだろう。
本書には被害者の遺族の立場で死刑を望まないという人のことも書かれている。原田正治氏で、1983年にトラック運転手だった弟は、雇い主の男に保険金目的で殺された。被告は死刑になったが、10年後に面会して話すうちに、相手の真摯な反省態度に心を打たれ、許せないという気持ちは変わらないものの、このまま死刑にしていいのだろうか、もっと対話が必要ではないかと思っていた矢先に死刑が執行された。この話は最近朝日新聞でも報じられており、原田氏は「被害者は死刑を望むと決めつけないでほしい。まずは加害者と対話できる仕組みを作り、それから死刑制度の是非の議論はすべきではないか」と言っている。最もだと思う。「遺族感情に鑑み」の中身を精査・研究すべき時が来ているのではないか。ヨーロッパ諸国では日本の死刑制度に対する批判が大きいと言われている。もしアメリカが死刑を廃止したら、日本はどうするかを考えておかなければならない。日本も人権抑圧国家だというレッテルを張られかねないだろう。中国をウイグル人ジェノサイド国家だとどの顔さげて言ってんだいと逆に中国から反撃されることは必定。