本書は週刊ポストの書評欄で紹介されていたのを機に読んだ。週刊ポストはいつも喫茶店で読むが、書評欄は結構面白い。初出は『すばる』(2019年11月号)で単行本は2020年2月、第43回すばる文学賞受賞作である。最近の若い人の小説は読まないが、あらすじが面白いので読んでみた。
主人公の間橋薫は三十歳、恋人の田中郁也(塾の講師)と半同棲の生活を送っている。二十一歳の時に卵巣の手術をして以来、男性とは付き合ってしばらくたつと性交渉を拒むようになった。郁也と付き合い始めたときも、そのうちセックスしなくなるなると宣言した薫だが、「好きだから大丈夫」だと彼は言って普段と変わらない生活を送っていたある日、郁也に呼び出されてコーヒーショップに行くと、彼の隣にはミナシロ(水名城)と名乗る女がいて、郁也の子供を身ごもっているが育てる気はないので子供を引き取ってほしいと要求する。女は郁也とセックスする代わりに金をもらっていたのだ。
薫は郁也とは同棲しているが、三か月以上性交渉はない。浮気相手は言う、「子どもを育てたくない。産むのだって怖いし、痛いから本当は嫌だけど、おろすのはもっと恐い。だけど育てる気はありません」と。そして彼女が薫に提案した内容は、1 郁也と自分が結婚する。2 自分が子どもを産む。3 その後郁也と自分が離婚。4 その後郁也と薫が結婚する。5 郁也と薫が子どもを育てるというもの。小説は勿論このように進行するわけではない。ネタばらしは控えるが、ミナシロという郁也の浮気相手に振り回される主人公の心理描写が本作のポイントと見た。卵巣の手術をしたということがセックスに消極的になって、恋人の浮気を許し、子どもを育ててくれという途方もない理不尽な要求を本気で考える原因になっている。自分では産めなかったかもしれない子どもである。この件で田舎(四国)の親も登場するのは、薫のアイデンティティーが都会ではなく田舎にあることを示しており、田舎者の実直さが表れていて微笑ましい。
その後は再び郁也との生活に戻るが、子宮で感じる性行為なしの日常だ。なんか観念的でまどろっこしい。ヘンリー塚本のAV(能天気に浮気行為を繰り返す人妻)を見たらもっと実存的な日常が発見できるかもしれない。最近の小説は性描写は観念的で、昔の梶山季之のそれに比べると本当につまらない。観念の遊戯が純文学の基本みたいになってちまちまとして面白味がない。先日も芥川賞と直木賞の発表があったが、どちらも二人ずつの受賞だった。これは甲乙つけがたいというより本屋の意向を受けたものではないか。本の売り上げを意識したものとしか思えない。直木賞の受賞作は時代物が多いが、時代考証を素人なりにうまくまとめたもの勝ちという傾向があるのは否定しがたい事実である。時代物に名を借りたライトノベルという感じか。従って泡沫のように作家が生まれては消えという状況になっている。
主人公の間橋薫は三十歳、恋人の田中郁也(塾の講師)と半同棲の生活を送っている。二十一歳の時に卵巣の手術をして以来、男性とは付き合ってしばらくたつと性交渉を拒むようになった。郁也と付き合い始めたときも、そのうちセックスしなくなるなると宣言した薫だが、「好きだから大丈夫」だと彼は言って普段と変わらない生活を送っていたある日、郁也に呼び出されてコーヒーショップに行くと、彼の隣にはミナシロ(水名城)と名乗る女がいて、郁也の子供を身ごもっているが育てる気はないので子供を引き取ってほしいと要求する。女は郁也とセックスする代わりに金をもらっていたのだ。
薫は郁也とは同棲しているが、三か月以上性交渉はない。浮気相手は言う、「子どもを育てたくない。産むのだって怖いし、痛いから本当は嫌だけど、おろすのはもっと恐い。だけど育てる気はありません」と。そして彼女が薫に提案した内容は、1 郁也と自分が結婚する。2 自分が子どもを産む。3 その後郁也と自分が離婚。4 その後郁也と薫が結婚する。5 郁也と薫が子どもを育てるというもの。小説は勿論このように進行するわけではない。ネタばらしは控えるが、ミナシロという郁也の浮気相手に振り回される主人公の心理描写が本作のポイントと見た。卵巣の手術をしたということがセックスに消極的になって、恋人の浮気を許し、子どもを育ててくれという途方もない理不尽な要求を本気で考える原因になっている。自分では産めなかったかもしれない子どもである。この件で田舎(四国)の親も登場するのは、薫のアイデンティティーが都会ではなく田舎にあることを示しており、田舎者の実直さが表れていて微笑ましい。
その後は再び郁也との生活に戻るが、子宮で感じる性行為なしの日常だ。なんか観念的でまどろっこしい。ヘンリー塚本のAV(能天気に浮気行為を繰り返す人妻)を見たらもっと実存的な日常が発見できるかもしれない。最近の小説は性描写は観念的で、昔の梶山季之のそれに比べると本当につまらない。観念の遊戯が純文学の基本みたいになってちまちまとして面白味がない。先日も芥川賞と直木賞の発表があったが、どちらも二人ずつの受賞だった。これは甲乙つけがたいというより本屋の意向を受けたものではないか。本の売り上げを意識したものとしか思えない。直木賞の受賞作は時代物が多いが、時代考証を素人なりにうまくまとめたもの勝ちという傾向があるのは否定しがたい事実である。時代物に名を借りたライトノベルという感じか。従って泡沫のように作家が生まれては消えという状況になっている。