読書日記

いろいろな本のレビュー

ジャズのことばかり考えてきた 児山紀芳 白水社

2019-09-23 09:59:53 | Weblog
 児山氏はジャズ評論家として有名で、油井正一氏亡きあとのジャズ評論界を先導する人物であったが本書の刊行(2018年7月)後83歳で胃がんのために亡くなった。誠に惜しい人を亡くしたものだ。氏は大阪の生まれで、1970年代はスイングジャーナル編集長を2期17年勤め、ニューヨークへ渡って得意の英語でジャズマンに直接インタビューする記事を多く書いて人気を集めた。私は70年代の前半に学生生活を送った者であるが、スイングジャーナルは愛読書で毎月楽しみにしていた。そこで紹介された新譜はジャズ喫茶へ行ってリクエストして聞いた。
 
 私が行っていたのは、JR中野駅南口にあった「クレッセント」という店で、店内は広くて席が確保しやすかった。当時阿佐が谷に住んでいたので、便利だったことが大きい。一杯350円のコーヒーで二時間以上粘ったものだ。また中野駅北口のサンプラザ近くの「ビアズレー」という店もよく行った。そこは名前通り、オーブリー・ビアズレーの絵が店内いっぱいに掛けられてあって、コレクションLP6000枚というのが売りで、「クレッセント」よりは狭いが、壁いっぱいに収納されたレコードが壮観だった。
 
 当時よく聞いたのは、テナーサックス奏者ハンク・モブレーの「ディッピン」というアルバムで、その中の「リカードボサノバ」がお気に入りの曲だった。今ではこのブルーノート盤は復刻されて手に入りやすいが、当時は廃盤になっており、容易に入手できなかったのでリクエストで聞くしかなかったのだ。このようにジャズ喫茶は貧乏学生の憩いの場所で、至福の時を過ごせるという意味で別天地だった。スイングジャーナルは私とジャズ喫茶と繋ぐ役割を果たしていたと言える。
  
 児山氏は得意の英語でニューヨークに渡り、そこの風を読者に届けてくれていたのだ。穐吉敏子、ヘレン・メリル、ソニー・ロリンズ、マイルス・デイビス、ジョン・ルイス等々のインタビューでジャズマンを取り巻く現状とアメリカの国情を我々日本人に知らしめたという意味で貢献度は大きい。本書の表の見開きには、若き日のジョー・ザヴィヌルとチック・コロアと語る児山氏のモノクロモザイク仕様写真が裏の見開きにはアート・ペッパーの写真が載せられている。本書によると児山氏はアート・ペッパーが麻薬で強制入院させられていた頃から関わって、彼のカムバックに貢献したようだ。なかなかできることではない。そういうメンタリティーがあるからこそジャズマンに信頼されて貴重なインタビューも可能になったのだろう。
 
 児山氏はスイングジャーナル編集長をやめてからもいろいろ活動をされていたが、なかでもNHK・FMのジャズ番組のパーソナリティーで蘊蓄を傾けておられた。ある時、児山氏はリュブリャナ・ジャズフエスティバルのことを大阪弁アクセントでしゃべっておられたが、聞きなれない名前だったので印象に残っている。当時リュブリャナは旧ユーゴスラビア領の都市だったが、その後のユーゴ紛争でジャズフエスティバルは中止になった。リュブリャナは現在スロベニアに属し、日本からの観光客も訪れるようになったが、ジャズフエスティバルが行なわれるような文化都市が戦乱に巻き込まれるとは児山氏も思ってもみなかったであろう。ジャズは世界を結ぶきずなの役割を果たす。世界中でジャズ・フエスティバルが行なわれ、平和が維持されるならば、これに勝るものはない。児山氏もそれを願っておられるであろう。氏のご冥福をお祈りする。合掌。
 
 

暴力と適応の政治学 岡本正明 京都大学学術出版会

2019-09-03 11:01:33 | Weblog
 副題は「インドネシア民主化と地方政治の安定」。インドネシアは人口2億3000万人で世界第四位。世界最大のムスリム人口を有する国家だ。最近ニュースで首都ジャカルタの人口集中を分散するため首都移転を打ち出した。ジョコ・ウイドド大統領の手腕が問われるところだ。そのジョコ大統領は5年前地方政治家から当選して、民主化の定着と安定の象徴として話題になった。しかしその民主化は非民主的な勢力の暴力支配によって安定したという逆説的現象を現地でのフイールドワークによって実証したものである。

 スカルノ大統領のあとを襲ったスハルト軍事政権は共産党を解体して成立した。その際、陸軍のみならず、陸軍の支援を受けた社会組織、イスラム組織が共産党員狩りをして、死者は100万ともいわれる。その暴力組織はジャワラと言われる無法者の集団である。

 本書に紹介されている、かつてスハルト政権下で共産党員狩りに参加したジャワラの系譜のパンチャシラ青年団の元幹部がその罪を裁かれずに、逆に英雄として日常を平穏に過ごしている中で、「あなたが行なった虐殺をもう一度演じてみませんか?」というキャッチコピーのもと作られた映画「アクト・オブ・キリング」は衝撃的だ。私もこの映画を見たが、そのインタビューの中で、彼は1000人ほど殺したが、血を流さず針金で絞殺する方法を実演していた。しかも彼はこの殺人をまったく悪いと思っておらず、正しい行為だったと自分に言い聞かせている感じだった。

 暴力集団が権力側と癒着して人民を支配するというのは、発展途上国によく見られる現象だが、インドネシアも例外ではない。インフオーマルな集団の脅しによって民情が安定するということは統治の不安定な国家においては必要悪の面もあるだろう。インドネシアの場合、地方に行くとこれがかなり浸透している。ジャワラのメンバーは勇敢さ、男らしさを尊び、拳術や呪術に長け、自尊心を傷つけた相手への暴力の行使をためらわず、語り口は粗野であけすけである。
 それとこれを補完する存在としてウラマーがある。彼らはコーランへの造詣が深く呪力を持つとされ、イスラム寄宿塾プサントレンを所有しているイスラム指導者である。この二つがインドネシアの地方政治を語る上で欠かせない。

 著者はバンテン州におけるジャワラの実相を、ハサン・ソヒブという人物を例にあげて、彼の一族が暴力的言動でいかに政治権力を手に入れて、利権を獲得していくのかを描いている。著者の方法はフイールドワークであるから、実際にジャワラのメンバーと接しなければならない。素人記者が暴力団の事務所にインタビューに行くようなものである。

 しかし著者は恐れず飛びこんでいく。地元ジャワラ主宰の交流会で、インドネシア固有のムード歌謡のダントットにあわせて4人の若い女性歌手と舞台で踊る写真を見て、著者の本気度がよくわかった。実力者ハサン・ソヒブは亡くなったが、娘のアトットが州知事になっており、ジャワラの支配は終わらない。

 民主主義とはいえ、これだけの民族と言語と島を含んだ国を安定的に治めて行くのは並大抵ではない。今後はジャワラといかに折り合いをつけて安定した政治を行なうのかが、中央政権並びに地方政権の課題だろう。話題の首都移転にはまたジャワラが暗躍するのだろう。

ヤンキーと地元 打越正行 筑摩書房

2019-09-02 07:43:06 | Weblog
 副題は「解体屋、風俗経営者、ヤミ業者になった沖縄の若者たち」である。著者は広島出身で琉球大に進学し、社会学者を志して首都大学東京の大学院へ。沖縄での生活をもとに地元のヤンキー(不良・チンピラ)を取材して書籍化したものである。

 社会学者の方法としてはアンケートを用いて量的に調査するのと、参与観察やインタビューで質的に調べるのとがあるが、本書は後者である。従ってヤンキーの生活を調べるためにまず彼らと親しくなってインタビューを行なわなければならない。著者は沖縄本島を南北に貫く国道58号で暴走族を原付バイクで追いかけて、声をかけて、パシリ(使いぱしり)をする中で人間関係を築いていった。

 彼らの学歴はたいてい中学卒で勉強に縁がなかった子がほとんどで、親もそのような経歴を辿った例が多い。勉強が嫌で暴走族に入るが、そこは厳しい階級社会で、先輩の理不尽ないじめに耐えなければならない。建設業界に入った元暴走族も同じで、足場の組み方や型枠の作り方等々、先輩からの厳しい指導に耐えなければならない。この厳しい日常生活を送る上で、男女関係はいわば砂漠のオアシス的な役割を担うことになり、彼らは十代で結婚することが多い。女子はキャバクラに勤めていて、男子と知り合うことが多い。若年結婚ゆえ子どもができてからの離婚も多く、子連れで再婚というパターンを繰り返している。

 沖縄は失業率が高く、大卒でもなかなか就職は大変だが、彼らヤンキーはさらに過酷な日常を送っている。地元のつながりで仕事を得られたとしても、上下関係は厳しく、低賃金でも文句は言えない。ミスがあれば殴られることも多いし、不況になれば真っ先に首を切られる運命だ。彼等ヤンキーが語る日常は誠に過酷なもので、沖縄の下層社会の一断面が余すところなく語られる。そこには学歴のハンデを負いながら懸命に生きる若者の姿が浮かび上がってくる。これが本書の素晴らしいところだ。

 因みに橘玲氏の近著『上級国民・下級国民』(小学館新書)によると、上流・下流のメルクマールは学歴格差だと言い、非大卒より大卒の方がポジティブ感情が高いと指摘している。そして現代日本社会において、「下流」の大半は高卒・高校中退の「軽学歴」層だと述べる。さらに彼等は「ほとんどポジティブなもののない」人たちだとして細かな分析をしている。

 この分類によれば沖縄のヤンキーは「下級国民」で「ほとんどポジティブなもののない」人たちということになるが、彼らが本書のインタビューで語る人生はポジティブで実存的である。
橘氏の本は結果として、インテリが上から目線で低学歴の人間をあざ笑うという感じが透けて見えるが、これらの本は自分がインテリだと思っている人間で鬱屈した者が買って溜飲を下げているのだろう。大卒にも厳然としたヒエラルキーがあるのだから。

 そもそも下級の国民は読書をしないのだから、彼らがこの種の本を読んで「何くそ」と奮起することはない。まさに「自称インテリの友」以上のものではありえない。この点から言うと『ヤンキーと地元』は「下級国民の友」となりうる好著だ。