読書日記

いろいろな本のレビュー

万葉学者、墓をしまい母を送る 上野誠 講談社

2021-03-14 13:43:30 | Weblog
 上野氏は奈良大学教授で専門は「万葉集」である。近著に『万葉集講義』(中公新書)があり、これは品田悦一氏の『万葉集の発明』における「万葉ポピュリズム」批判と中西進氏の「令和」元号問題の政府側の当事者の間を取り持つようなスタンスの取り方であった。どちらの側にもうまく距離を取っていたと思う。しかし、『万葉集』に関しては長年の研究による成果を披露されており、有益な見解も多く良い本であった。本書は著者が2016年56歳のとき、94歳の母堂を7年間介護の上見送った顛末を書いたもので、高齢者の私にとっても身につまされる話であった。

 著者は福岡の出身で、東京の国学院大学で博士課程修了後、奈良大学に勤務して現在に至っている。福岡の実家は祖父が洋品店で財を成し、巨大な墓をこしらえて地元の名士として活躍した。冒頭その祖父の葬式の模様を描いているが、中学生の著者にとって、死者を送る葬式というものがいかに面倒なものであるかが述べられている。田舎の名士の葬儀とは大抵大掛かりなものだが、私自身にも記憶があり、同感する部分が多かった。ただ死者を湯灌するという風習は初めて知った。仏教の宗派は明確にされていないが、地域性が大きく影響しているのだろう。
 
 その後、上野家では1987年に、父が67歳でなくなり、2008年に兄が61歳で亡くなってしまった。本人は次男で姉が一人いるが、他家に嫁いでいるため、母の面倒を見なければならなくなった。そして2011年に母を奈良に呼び寄せての介護生活が始まった。これが7年続いたのである。親を介護施設に入れて面倒を見てもらうというのは、言うは易く行い難い面がある。まず経済的に多額の費用が必要になることが多い。息子が開業医であれば経済的負担はさほど問題にならないだろうが、大学教授といえども、月給取りのはしくれだから、そんなに多額の費用を負担するわけにはいかなかっただろう。しかも自分の大学での勉めもあるし、さぞかし大変だったろうと思う。そして本人が施設に適応できるかどうかも問題になってくる。そんな中、故郷から遠く離れた奈良の地で、いろんな病院を転々として母上にとっても苦労の多い年月であったろう。

 それでも息子としては母に孝行を尽くすというのは、やはり自然の情である。私(69歳)も92歳の母がおり、幸いなことに今は元気で、近所の人に支えられて一人暮らしをしているが、いつまでもこの状態でいられるはずはない。年金生活者故、仕事との両立云々は議論しなくてよいのは幸運だが、それでも著者のように母親孝行できるかどうか不安である。しかしやらねばならない。本書は家族の死を通して、葬儀の在り方、宗教観、死生観、家族観などを考える端緒を作ってくれた。最近は、家族葬というのが主流で、香典も受け取らないのが普通になっている。昔は香典帳に額を記載して、今度はその人の葬式の時に同額の香典を返すというしきたりだったが、それがなくなった。人の死を広く知らしめるというのが、ひっそりと死んでゆくという形に変わったといえる。これがいいのかどうかわからないが、今後孤独死も含めて無名の死が増えることは間違いない。

菅義偉の正体 森功 小学館新書

2021-03-02 10:00:39 | Weblog
菅首相は現在、がけっぷちに立たされたいる。直近では、山田内閣広報官が以前、菅氏の長男が務める会社から七万五千円分の食事の接待を受けたことが判明。本人は、予算委員会の席上でステーキと海鮮料理だと言っていたが、多分高級なワインをたらふく飲んだものと思われる。庶民感覚からして普通はありえないことだが、現実に起こっているのだ。すべて総務省ににらみを利かすオヤジのなせる業で、国民は誰でもわかるのに、当事者はそれを否定する。「うそつきは泥棒の始まりと」我々庶民は教育されてきたが、安倍政権以来、「嘘は方便」とばかり為政者とその取り巻きたちは利権をむさぼることに血道をあげている。結局、山田氏は首相の援護もかなわず、体調不良で辞職となった。

 緊急事態宣言の解除(首都圏を除く)に際して、記者会見を開く予定が、山田氏に司会をさせては、会食の問題を蒸し返されるという危惧があり、ぶら下がり会見となったが、この時は首相一人で記者たちに対応せざるを得ず、案の定資質のなさを露呈する結果となった。記者たちの遠慮会釈もない質問に色を成して反論する姿が全国に発信されてしまった。山田氏が仕切る記者会見ではこういう風にはならなかったのに。このリスクを予見できなかったということは周りの秘書たちがいかに無能であるかを表している。日本学術会議から始まって、コロナ対策の不備、オリンピック問題、そして接待問題と、これだけ短期に難問に直面した内閣は空前絶後である。そして迫る衆議院選挙、この内閣の行く末は暗いと言わねばならない。
 本書は菅首相をよいしょする類書とは一線を画して、辛口の伝記となっている。菅氏は所信表明演説で、自分は雪深い秋田の農家に生まれ、地縁、血縁のない横浜で、ゼロからのスタートで政治の世界に飛び込みましたと言い、「叩き上げ」「庶民派」のイメージをアピールしていたが、これは実態とかけ離れた嘘であることがわかる。彼が東京へでたいきさつはどうも謎めいている。東京にあこがれて東京の大学を目指して受験勉強をして頑張るという一般的なイメージではない。彼は東京に出るにあたってまず、高校の斡旋で東京の段ボール会社に就職をしている。ここに父親との家業(イチゴ農家)を継ぐか継がないかの確執があったのではないかと著者は推測している。結局、上京後、入社した段ボール会社を辞めて、法政大学の法学部政治学科に入学する。一部の報道では入学したのは法政の夜間だというのもあるが、間違いらしい。この辺を本人ははっきり言わないのがまた不思議だ。夜間の方が「苦学生」のイメージで支持率が高まるとでも思っているのだろうか。肝心の節目節目の経歴をうやむやにするこの人物ははっきり言って信用できない。

 菅氏の父親の菅和三郎氏は戦前秋田から満蒙開拓団で中国にわたり苦労をした人物で、向こうで農業をするのではなく、コネで満州鉄道に入社して比較的裕福な生活をしていた。終戦で引き上げるに際して、ロシア軍の侵攻で多くの開拓団の人々がなくなったが、和三郎氏は困難な状況の中で、同郷の人々の帰国に貢献した。帰国後は農業はコメではだめだということでイチゴ栽培に乗り出し成功した。そして秋田のイチゴ王と言われた。菅氏はそこの長男で、決して貧農の息子ではない。本書では「放蕩息子」と言っている。これが上京の紆余曲折を端的に物語っている。類書では、菅氏の父親についてこれほど詳細に書いたものはなく、貴重なものである。

 そして卒業後はいったん建設整備会社に入社したがやめて、大学の就職課の斡旋で法政OBの中村梅吉氏(元衆議院議長)の秘書になって、その後、横浜選出の小此木衆議院議員の秘書になって政界に入った。その後横浜の市会議員を経て、首相まで上り詰めたのだ。横浜の港湾荷役組合の幹部との関わりで人脈をつかんで行き出世していく様子は、まさに利権をめぐる縁故と情実の世界だ。この方法を国会議員になっても踏襲しているのだ。よってこの手法は地方議員のものであるため、一国の首相としての世界観を描けない。それが現在の混乱の大きな理由だ。正直、この人物が、習近平やプーチン、バイデンらと外交で渡り合えるとは思えない。尖閣、台湾、北方領土、沖縄基地問題等々難問が山積している。宰相がこれなんだからもっと官僚をうまく使ってチームで難問解決に臨むべきだろう。