読書日記

いろいろな本のレビュー

中国「絶望」家族 メイ・フオン 草思社

2017-10-28 14:02:29 | Weblog
 10月25日に5年に一度の中国共産党大会が終わり、今後5年の新指導部(政治局常務委員)が選出された。習近平と李克強以外の5人は新メンバーで、全員60代。通例後継者として50代の委員を選ぶのだが、今回は見送られた。これは5年後も習近平が引き続き総書記として君臨するための布石だというのが大方の見方である。大会での3時間半の演説が話題になった。かつてのソビエト共産党のようだ。それにしても最近の習政権の言論弾圧の強化を目の当たりにすると、国内の格差・人権問題に非常に敏感になっており、強権で反政権の言動を封じ込めようとする意志が強固である。そして唱えている題目が、「新時代の共産主義」である。西欧の民主主義とは違う中国独自のやり方でやっていくということだが、独裁の危惧はどうしても払拭できない。毛沢東と鄧小平と並ぶカリスマになろうとしているようだが、奈何せん彼らのようなオーラがない。軍部も掌握して、こわもての外交を目指しているようだが、国内問題でつまずく危険性もある。それが経済問題だ。10月27日の朝日新聞の「中国、社会主義強国の道」という題のフオーラムで、現代中国研究家の津上俊哉氏が、習近平への権力集中は、経済分野では感じられないと述べたうえで、次のように言う、「中国には避けられない未来があります。一人っ子政策を緩和しましたが子どもはさほど増えず、労働人口の減少で経済成長は鈍化します。そして30年以降は高齢化による年金の負担が爆発的に増大する事態が待っています。その手前の段階で、すでに公共投資の債務が積み上がっている。国際通貨基金(IMF)は,22年には中国の政府、民間を合わせた債務がGDP比で300%近くに達すると警告しています。厳しい未来がはっきりしているのに、習氏の報告に抜本的な対策はない。それでいて30年後には世界のトップレベルになると、輝かしい未来が裏付けなく提示されている。私の目から見ると空虚で、説得力がないのです」と。津上氏の見解は最近の記事の中では秀逸で、傾聴すべきだと思う。氏の発言で出てきた「一人っ子政策」について、それが中国にどういう影響を与えたのかを論じたのが本書である。
 この政策が発表されたのが、1980年9月25日。以来35年間続けられたが、労働人口の減少と父母の高齢化に伴う介護の問題等が危惧されて廃止になった。しかし、それで子どもが増えるかと言うとそうでもないのが現状だ。今のサラリーではとても2人目を生む自信がない等々、一人っ子に慣れた生活習慣と社会システムはそう簡単に変えられないのが現状だ。この政策がとられた背景には、国民一人当たりのGDPを手っとり早く上げるためには、生産性を上げると同時に、人口増加を抑制しなければならないという課題があった。すると人口増加を抑制する方がはるかに容易だと考えた指導部はこれを実行に移したのである。この政策の理論的根拠はロケット学者の宋健という人物で、彼は中国の出生率を抑制する数学的方法論を編み出し、指導部がこれを採用したのである。そして併行して一人っ子政策を厳重に取り締まる計画出産委員会ができた。人口警察とも言われる巨大な組織で、8500万人のパートタイム指導員がいて、無理やり2人目を人工中絶させたことも多々あったようだ。政策を順守するために人権を無視したやり方が横行する。共産党の官僚主義の悪しき一面が現れ、人民を恐怖に陥れるのだ。その他一人っ子政策による余波と言うべき問題が具体的にレポートされており、読み応えがあった。
 習政権は一人っ子政策の負の遺産をどう継承し、問題解決していくのか。前途は多難である。

知ってはいけない 矢部宏治 講談社現代新書

2017-10-18 09:15:41 | Weblog
 副題は「隠された日本支配の構造」で、日米安保条約に付随するさまざまな密約の実態を白日のもとに晒したものだ。10月12日の新聞に「沖縄米軍ヘリ炎上・大破 高江民有地に不時着」という見出しで米軍の大型輸送ヘリコプターCH53が基地外の民有地の牧草地に不時着し、炎上、大破した。住民や乗組員7人にけがはなかった。CH53は2004年8月に米軍普天間飛行場近くの沖縄国際大学に墜落する事故を起こしていると伝えている。オスプレイ墜落等、米軍の住民に脅威を与える事例が頻繁に起こっている。米軍は日本の空を訓練という名目で我がまま放題に飛び回っている。最近北朝鮮問題で、トランプ大統領が危機を煽る言説を繰り返していることもあって、日本駐留の米軍はますます活動を活発化させている。日本の首相は日米同盟による強固な連帯を強調している手前、防衛大臣も米軍に抗議したというばかりで、本気で訓練をやめてもらいたいということは言わないし、言えないということが本書を読んでわかった。
 本書の冒頭に、日本とロシアの北方領土返還の話題が紹介されているが、なぜ返還交渉が進まないのかというと、もし返還されたとしてもそこに米軍基地を置かないという約束をしてはならないという原則があるからだという。これは外務省がつくった高級官僚向けの極秘マニュアル(「日米地位協定の考え方増補版」1983年12月)のなかに、「アメリカは日本国内のどんな場所でも基地にしたいと要求することができる」「日本は合理的な理由なしにその要求を拒否することはできず、現実に提供が困難な場合以外、アメリカの要求に同意しないケースは想定されていない」という見解が明確に書かれており、結論は日米安全保障条約を結んでいる以上、日本政府の独自の政策判断で、アメリカ側の基地提供要求に「NO]ということはできないということを外務省は認めているのである。これではロシアは返還交渉に応ずる筈がないのは明白だが、メディアはこのことを報じない(一部の識者は前から指摘していたが)。結局、経済交流を交渉のきっかけとしようということで、日本が北方領土に経済支援をすることになったが、的外れもいいとこだ。
 このようにとても独立国とは思えない状況になっている原因は、本書の72ページにある、安保法体系の構造にあると著者は言う。すなわち「安保条約」+「地位協定」+「日米合同委員会」という三重構造が日本をアメリカの属国たらしめているのだ。特に「日米合同委員会」が問題で、日本の高級官僚と米軍の幹部が毎月二回会合し、原則非公開、ここでの決定事項は日本の国会の承認を必要としないというもので、国会・憲法よりも上位の存在とうことだ。これに対してはスナイダー前駐日大使が「軍人が他国の官僚と直接協議をして指示を与えるなんて、、、、、、こんな占領中にできた〝異常な関係〟はすぐにやめるべきだ」と怒ったと言う。アメリカの外交官でさえ怒ったぐらいのものを日本は唯々諾々と受け入れているのである。憲法改正云々、戦後レジュームの改革を言う前にこの問題を解決した方がいいのではないか。このまま行くと自衛隊はアメリカ軍の指揮下で戦争をさせられるのは明らかだ。本書が部数を伸ばして人々が「知ってはいけない」ことを「知ってほしい」

枕草子のたくらみ 山本淳子 朝日新聞出版

2017-10-13 08:47:29 | Weblog
 副題は、「春はあけぼの」に秘められた思い となっている。『枕草子』は高校教科書の定番で、中宮定子に仕えた清少納言の機知がいかんなく発揮された作品として有名だ。だが、同時代のライバルであった紫式部は清少納言のことを「得意顔でとんでもなかった人。あれほど利口ぶって、漢字を書いてばらまいているが、学識は大したことはない」(紫式部日記)とぼろくそに批判している。逆に言うと、それぐらい中宮定子のサロンの様子が清少納言によって理想的に描かれていたことが分かる。著者はそこに『枕草子』の製作の意図があるという。即ちこの作品は一条天皇の中宮として全盛を誇った定子が、中宮彰子の台頭によって没落し、24歳で亡くなったその悲劇のヒロインに対するオマージュ(賛辞)だというのだ。確かに定子を「こんな素晴らしい人は見たことがない」(初めて宮に参りたるころ)という調子で誉めたたえている。そして兄の伊周とのウイットに富んだやり取りなど、中関白家の全盛時代を偲ばせる記述が多い。
 清少納言は正暦四年(993)28歳で出仕した。その時、定子は17歳であった。定子は14歳で入内しており、清少納言は定子のサロンで機智のレッスンを受けたのである。その中で清少納言の文学的才能と教養が発揮されたことになる。ところが長徳元年(995)定子の父の関白道隆が43歳で死去、さらに翌年の長徳二年に、伊周は弟の隆家と謀って、花山院を襲い矢を射かけるという事件が勃発し中関白家は壊滅状態になり、定子は責任をとって中宮の位はそのままで出家することになった。その間、定子は一条天皇の第一皇女脩子内親王を出産、三年後の長保元年(999)第一皇子敦康親王を出産、しかしその翌年長保二年秋、24歳で崩御した。入内から10年であった。
 著者によると、『枕草子』は長徳二年(996)秋頃から執筆が開始されたとある。よって全盛を誇った定子のサロンが没落する予感があるなかで、定子の光と影ではなく、光だけを描いて後世に残そうとしたという著者の見解はなるほどと思わせる。
 そして「春はあけぼの」の冒頭「春は、あけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」を著者はこう訳す。「春は、夜が終わり朝の気配が漂い始めるころ。漆黒の闇がうつろい、ようやく明らかになってゆく空と山のあわいに、ほんのかすかに曙光が射して、定子様、あなたという紫雲が光を浴びてそこにいらっしゃるとき」と。
 『枕草子』は平安に暮らす女房の視線で、その日常を明るく軽やかに描いた随筆として有名だが、実はその明るさの中に定子の悲劇的な人生が逆照射されていたのだ。まさに目から鱗の指摘で、学界に一石を投じたのではないか。それぐらい刺激的な本であった。