読書日記

いろいろな本のレビュー

チャイナ・セブン 遠藤誉  朝日新聞出版

2015-01-23 09:38:32 | Weblog
チャイナ・セブンとは、中共中央政治局常務委員の7人のこと。この頂点に習近平国家主席がいる。本書の副題は「<紅い皇帝>習近平」で、彼の略歴・人物像を詳しく紹介している。著者の強みは中国で生まれ育ち、中国人のネットワークが多いことだ。今、共産党指導部は官僚の腐敗に対して強い態度で摘発を断行している。「虎もハエもたたく」と言うのがスローガンだが、その病理は底知れぬ深さを持ち、共産党の屋台骨を毀してしまうほどの深刻さを秘めている。共産党が巨大な利権団体に堕して行った契機は、小平の先富論で「先に金持ちになれるものはなって、後の貧しいものを助けよう」ということだったが、江沢民時代になって、幹部の露骨な利権獲得競争が始まり、今の状況になった。金持ちは貧者を顧みることはなく、権力による腐敗と拝金主義がはびこった。胡錦濤はそれを改めようとしたが、江沢民に阻まれて改革できなかった。習近平は江沢民の力が弱まった時期に国家主席になったので、胡錦濤時代よりはやりやすくなったと言えよう。
 本書では江沢民について、トップになるような人物ではないと厳しい評価をしているが、私も同感だ。共産党の生き残りのために反日教育を定着させ、自身は経歴を詐称して出世して行った俗物である。習近平は江沢民とうまく距離を取って、しかも彼の気にいられるようにふるまった。この身の処し方が、彼の身上である。
 彼は紅二代と言われる。父の習仲は毛沢東とともに中国共産党の創立に関わった同士だが、権力闘争に巻き込まれ16年間投獄された。息子の近平もその余波を受けて文革時は辛酸をなめた。下放先は陝西省の延安だ。ここは中国共産党が長征の末辿りついた革命の聖地で、毛沢東ゆかりの地だ。父親の政敵の地を選んだというところに彼の共産党魂の萌芽を見ることができる。すでにこの時から毛沢東を超える指導者になろうという決意を固めていたようである。以来三十数年、彼は夢を実現し主席の座に就いた。江沢民が敷いた反日路線をベースに、共産党の腐敗を一掃しようとしている。今のところ、彼に敵対する勢力はいないので、権力を意のままに揮うことができる。ここが毛沢東と違うところで、指導者が小粒になっており、カリスマ性はない。習近平は改革に対して本気だと著者は述べているが、腐敗の浄化のメルクマールは何かというと、それは大気汚染の問題だ。粗悪なガソリンを使い続けるのは石油閥が既得権益を守ろうとして金のかかる精製施設を作らないからであり、石炭も同様である。北京の青空が戻ることが、腐敗摘発の最終目標になる。それが失敗に終わると、中国共産党は崩壊の危機に瀕し、中国国民の健康被害が深刻化するであろう。次世代に先送りできない、待ったなしの勝負だ。

創価学会と平和主義 佐藤優 朝日新書

2015-01-06 09:34:45 | Weblog
 昨年の安部内閣の集団的自衛権の行使容認は公明党の賛成で認めることになったが、著者は、行使しようにもあちこちに「縛り」がかかっていて、ここまで煩雑で使いにくい集団的自衛権は他の国にはないと言う。閣議決定文に書かれた内容は、従来の個別的自衛権や自衛隊が持つ警察権で対応できる事柄を、集団的自衛権としてまとめ直したものだというのを憲法学者の木村草太氏の見解を引用して述べている。安部氏にとっては何が何でも「集団的自衛権行使」を閣議決定したいという気持ちが強かったようだ。祖父岸首相以来の悲願ということか。
 この「縛り」をかけたのが公明党で、もし公明党がブレーキ役として与党にいなければ、憲法に制約されない集団的自衛権の行使を容認することが閣議決定されていたと著者は言う。以下公明党の母体の創価学会の反戦平和の歴史を述べて、日本のプロテスタント教会(因みに著者はカルバン派のキリスト教徒)が反戦を貫けなかったのに対し、学会の初代会長の牧口常三郎、二代会長の戸田城聖は思想弾圧に屈せず、「獄中非転向」を貫いたことを大いに評価し、続く池田大作の平和主義にも賞賛の眼を向けている。まるで創価学会の先験的把握者・アプリオリな理解者とでもいうべき筆致で、おいおいそこまで誉めていいのかいという感じだ。特に学会と懇意にしているわけではないと最初に断っていて、学会の雑誌「潮」の原稿料は普通だと書いているところが面白い。この本は10万部突破と宣伝に書いてあったが、組織買いをしているのでは、と思わせるところもある。でも最近これほど学会に好意的な本はなかったことは確かだ。今後安部政権にどう注文をつけて行くのか、山口代表の動向に要注意だ。
 ところがこの公明党が、大阪で不穏な動きを始めた。あれだけ大阪都構想に反対していたのに、急に維新の会が進める住民投票に賛成だと言うのだ。これは学会から維新の会と対立するなという指令があったかららしい。この辺が公明党に対して世間が疑心暗鬼に陥る原因なのだが、佐藤氏の本で上がった株がまた下がったという印象は否めない。
 

間違いだらけのクルマ選び 徳大寺有恒・島下泰久 草思社

2015-01-01 11:59:08 | Weblog
 徳大寺氏は昨年11月、74歳で亡くなった。これが遺稿となる。この本は私の愛読書の一つで、毎年欠かさず読んでいた。辛口の評論で、メーカーに媚を売るということがない。それが人気の秘密だろう。いつも、「日本車のデザインに美が感じられない、日本の自動車会社は自動車の美というものがわかっていない」と嘆いておられた。この2015年度版の巻頭言にもそれが述べられている。曰く、絵画・彫刻に限らず音楽、文学、映画さらには建築、工業デザイン等々、「美」という共通項で繋がるもろもろは、私たちの暮らしに大きな価値をもたらしている。むろん自動車もそのひとつである。そう考えると毎年、世界中に何千万台と生まれてくるカーデザインの仕事は極めて重要だ。(中略)世界的なカーデザイナーはドイツでも日本でもなくイタリア出身者に多い。そいつはイタリアという環境のなせる技であろう。彼の地に生まれた者は一流の絵画、彫刻、建築等々(むろん自動車も)に囲まれ、それらのアートを空気を吸うようにして育つ。そのなかで美を美と感じるセンスが育まれていくのだ。こいつばかりは「お勉強」でどうにかなるというものではないと。以下、自動車立国の日本は、美の感性を持ったデザイナーを生みださなければならない。そのためには、われわれ庶民のひとりひとりが美を希求し、美を楽しむ心を持つことが大事だと述べる。誠に日本に対する遺言とも言うべきもので、蓋し至言である。
 私はイタリア車に乗ったことはないが、そのデザインは日本車にはない造形美があることは切に感じる。イタリア製のネクタイもその流れをくんでおり、愛用している。よって日本の車のデザインもパクリではなく、独自の美を追求する余裕が必要だ。文化の成熟度が車やネクタイのデザインに現れるのだ。
 日本人にとっての課題は美的感覚を養うことだというのは徳大寺氏の指摘だが、車を購入する際にも、「高級」ではなく、「高級感」に騙されてというか、妥協してしまうところが、美的感覚の要請に冷や水を浴びせていることも確かだ。某クルマについて、この車の狙いは明確。そこまで高価ではなく、でも見栄えがすることが重要だ。インテリアもやはり堂々としたというか立派に見える空間に仕立てられている。ダッシュボードはレザー張りだし、木目パネルは象嵌入り。でもこの日本的なベタな雰囲気に落ち着いてしまうのが悲しい。但しこのインテリアの素材は皆、フエイクだ。しかし、このようにフエイクであっても「高級感」に騙されて買ってしまうのである。これを徳大寺氏はヤンキー文化と呼んでいる。
 某メーカーのやり方について、インテリアの木目「調」過飾や「合成」皮革を多用することで高級「感」を演出する。まあ、高級とは言っていないから間違ってはいない。しかし商売、本当に上手であると感心しているが、これが支持されてこの手の車がよく売れることも確かで、ヤンキー文化全盛と言われる所以である。この図式は、中身のない政治家に騙される国民というアナロジーにもなりそうだ。