読書日記

いろいろな本のレビュー

岬にての物語 三島由紀夫 新潮文庫

2019-05-26 08:28:58 | Weblog
 本書を読むきっかけは前掲『京都思想逍遥』(小倉紀蔵 ちくま新書)で、小倉氏が『金閣寺』ゆかりの三島に言及した時に表題作の美文を称賛していたことによる。本書は作者が二十歳から四十歳にかけて書いたもので、既刊の新潮文庫の短編集五冊から漏れた十三編が収められている。一読して改めて三島の小説家としての技量を認識させられた。構成がしっかりしており、そこに絢爛たる修辞技巧がちりばめられている。流石ノーベル賞候補に挙げられただけのことはある。
 『金閣寺』では、この建物を再生不能な美の象徴として認識し、これを消滅させることによって世間に衝撃を与えようと放火する主人公の心情を描いていた。その場合、金閣寺と対照されていたのが人間の命である。一見すると人間の命は再生不可能で一回きりで、金閣寺は再生可能だと思われるが、三島は人間は種のレベルで考えると一個体が死んでも種としての人間は生き残っていく、しかし金閣寺という美の象徴は一回きりの存在なのだということを逆説的表現している。哲学書をパラフレイズしたようなしたような感じで、いわば高踏的なのだ。これを嫌う人は嫌い、好む人はとことんフアンになるだろう。
 表題作は、11歳の夏に母と妹と行った房総半島の鷺浦という海岸での思い出を、一人称「私」によって夢想的に回想し物語られる作品である。これを書いている最中三島は8月15日の敗戦を迎えた。私はある日美しい岬の方へ向かったが、そこに荒廃したちいさな洋館があった。中からオルガンの音が聞こえてきた。私はそこへ忍び込んだ。すると18歳くらいの美しい女性が出てきた。そして20歳くらいの青年が入ってきた。やがて私と彼女と彼は岬の突端に出かけかくれんぼをすることになった。私が鬼になり100を数えている時、断崖の方から鳥の声に似た悲鳴か笑い声のような短い叫び声が聞こえた。それが私には高貴な鳥の声か、「神々の笑いたもうた御声」のように聞こえた。私は二人を捜すが見つからなかった。私は泣いた。その時私は幼いながらも二人の悲劇を理解し、岬の先端を見た。私は断崖に身を伏せて奈落の美しい海を覗いた。それは不思議なほど沈静な渚であった。
 敗戦のレクイエムというべきもので、詩のような雰囲気を持った作品である。最近三島の作品が刊行されているが、この国の行く末を案じて自衛隊乱入を決行して自決した彼の真意をもう一度考えるのも、昨今の政治状況の劣化を食い止めるよすがとなるのではないか。「などてすめろぎはひととなりたまひしか」という三島の言葉は我々に深い洞察を求めているように思われる。他の十二編も素晴らしい出来だ。

死にゆく人の心に寄りそう 玉置妙憂 光文社新書

2019-05-14 14:48:58 | Weblog
 玉置氏は現役の看護師であると同時に女性僧侶でもある人で、夫をがんで亡くしたあと、自分で法事をしたいと出家した。本書によると、夫は57歳のとき大腸がんと診断され手術、手術は成功したが3年後膵臓と胆管あたりへの転移が疑われて再手術、グレーな部分を大きく切り取る大手術だった。この再手術から2年後に亡くなった。夫はこの2年間は在宅で治療も入院も拒否して自分の好きなことをして死ぬという選択をした。彼女は看護師故、治療をしないことに対する葛藤は様々あったが受け入れて、夫の看取りをやり遂げた。その様子が克明に描かれていて、読む者の心を打つ。看護師として多くの患者の死を見てきた著者ではあるが、死の3カ月前からの死にゆく人の体と心に起こることの患者の描写はリアルだ。24時間前には、尿が出なくなり、目が半開きになり、涙が出る。そして顎を上下に動かした下顎呼吸になる。これは私も経験したことがあるので、父と義理の母の時を思い出した。この看取りの間、患者にどう対応すべきかをいろいろ書いてくれているので参考になる。高齢化時代の日本の生き方(死に方)の流儀がこれからは必要になってくるので、著者のような看護師で僧侶という人間が今後必要とされてくるだろう。高野山で真言宗の僧侶となるべく厳しい修行をされたようだが、医療と宗教のケアは先駆的な仕事になるのではないか。
 台湾では臨床宗教師という職業が市民権を得ていて、活動が盛んに行なわれているようだ。ただ台湾は宗教に対して非常に熱心で、敬虔な信者が多いので、日本も同じようにできるかどうかはわからないが、死にゆく人に対する心のケアは必要だ。死ぬ前に良い人生だったと思えるようにケアすることは並大抵ではないが、逆にいうとやりがいのある仕事でもある。今回、玉置氏が夫の看取りから、出家、そしてスピリチュアルケアに従事するという体験をされたことは、今後の終末医療に一筋の光明を灯してくれたと言えるだろう。南無大師遍照金剛。