読書日記

いろいろな本のレビュー

実録海軍兵学校 海軍兵学校連合クラス会編著 光人社NF文庫

2018-12-25 21:11:33 | Weblog
 海軍兵学校は戦前、陸軍士官学校と並ぶエリート校であった。当時の秀才は旧制中学で国のために戦うという教育を受けており、彼らはこぞって海兵・陸士を目指した。この二校は軍国主義教育の精華と言えるが、陸士は東條英機を始め戦争指導者を輩出し、日本を誤った方向に導いたという負の歴史を有しているのに対して、海兵は連合艦隊司令長官山本五十六を始め当初は対米戦争に反対の意志を表明していたことなどから、陸士よりもその教育内容が喧伝されることが多い。本書も海兵OBが自分たちが受けた教育の内容について回想したもので、中には戦死した者の遺書もある。
 一体にエリート教育は将来の国の繁栄を図るべく、人材を育てあげる目的で為されるものだが、平和な時代は旧制高校・帝国大学というコースがエリートの養成機関になり、戦時に於いては陸士・海兵のような軍人養成機関が第一義的な役割を果たすことになる。目の前の戦争にいかにして勝つかという至上命題に対して答えを出さなければならないのだ。その意味で、彼らは太平洋戦争中は何よりも国の宝として大切にされ、存在感も非常に大きかった。エリートであるがゆえにいわゆるノブレス・オブリージュの精神も叩き込まれて、国(天皇陛下)のために死ぬことをほぼ義務づけられていたと言っても過言ではない。中には部下に死を強制して、自分はのうのうと生き残った軍人もいたが、まあそれは結果論であって、成り行き上そうなったこともあったであろう。
 戦争はない方がいいに決まっている。人が人を殺すのだから。それでも、歴史上戦争が無くなったことはない。クラウゼビッツは戦争は外交手段の一つだと言っているが、武器をちらつかせて相手を威嚇して外交を有利に展開するのは個人のレベルでもよくあることなので、わかりやすい。よってエリートがその役目を担うことは憚られるというメンタリティーは確かにある。「鉄は刀にしたくない」ということわざがそれを言い当てている。本来エリートは軍人としてではなく政治家・官僚などで国の繁栄を目指すのが本道なのだ。しかし昭和という時代は戦争の世紀になってしまった。その中で海兵は如何なる教育をしてきたのかということは、少しく興味のある話題である。
 海兵62期のH氏は「日本海軍の伝統について」という文章を寄せているが、その中で、日本海軍は世界最強の海軍国英国の海軍を範として制度、組織、教育訓練、各所の名称、部署、内規、日課など、すべて英国式を導入し、ジェントルマン教育がなされたと言っている。また海軍軍人は軍人勅諭を守り、忠節を尽くすを本分とし、政治に関わらないように諭されている。これは陸軍が武装集団としての力を背景に政治に容喙したのとは対蹠的であると悖言う。有名な五省は軍人勅諭を敷衍したものらしい。一、至誠に悖るなかりしか 二、言行に恥づるなかりしか 三、気力に缺くるなかりしか 四、努力に憾みなかりしか 五、無精に亘るなかりしか これを毎日の自習時間の最後に瞑目して黙誦し、一日の行為を反省自戒したという。今どこかの私立高校でやっていそうな題目だ。いろいろ自戒するものがあるなかで、「金銭に恬淡なれ」「公私の別をつけるべし」というのもあったという。これなどは現代人の欠けている徳目なので、教え込む値打ちがある。しかし今学校は腫れものを触るような教育しかできないので、難しいかもしれない。「鉄は熱いうちに打て」ができないのが今ごろの学校だ。
 海兵はこのようにジェントルマン教育を施してきたのだが、敗戦濃厚になった時、人間魚雷回天を生みだし、起死回生を目論んだ生徒を生みだしたのも事実だ。結果として優秀な頭脳を自爆のために使ったことになる。返す返すも残念なことである。「もしも彼ら生きてありせば」と思うのは私だけではあるまい。
 天皇陛下が誕生日の記者会見で、先の大戦で死んだ人々を悼み、平成という時代が戦争の惨禍に巻き込まれなかったことに安堵しますというメッセージを読まれていたが、陛下の人間性がにじみ出た内容で、感動した人は多かったと思う。それに比べて政権担当の政治家のレベルの低さよ。もっと人間修養に努めたまえ。

異形の維新史 野口武彦 草思社文庫

2018-12-14 14:51:28 | Weblog
 野口氏はもと神戸大の国文科の教授で近世文学の研究家であった。最近は忠臣蔵や幕末の歴史について浩瀚な資料を駆使して読み応え有る評論・エッセイ・小説を発表している。御年81歳、落語、講談、文楽の世界でいうと、名人の域に達しつつあると言えるだろう。それほど読んでいて面白い。本書の腰巻の惹句に「語られることのなかった幕末の綺譚集」とあり、中身は「戊辰戦争でのヤクザたちの暴走、岩倉使節団の船中『ワイセツ』裁判、悪女・高橋お伝の名器解剖等々」日本史の教科書ではお目にかかれない話題が続く。
 江戸から明治への転換点では、体制のドラスティックな変更があり、その中で人々はそれぞれの持ち場において様々の試練を経験することになった。上は為政者から下は草の根の庶民に至るまで、様々な人間模様が展開され、それを写し取る歴史・文学も勢い豊饒なものになったのは、後世の文学者・歴史家にとっては幸運だったと言える。
 収められた七編の作品は、いずれも主人公の存在感を描いて秀逸だが、それを支えているのが著者の表現力である。野口氏は若いころから小説を書いておられ、実際私も40年以上前に『紅旗』という作品を読んだことがある、題から連想すると、藤原定家関連の古典小説かと思いがちだが、現代版のエロチックな者であった。話の展開は忘れてしまったが。ことほど左様に、氏の小説家としてのキャリアは長いのである。
 例えば、高橋お伝にまつわる「名器伝説」の一節はこうだ。「昨日と同じ窓枠に陣取り、解剖室を窺って見ると、だだっ広い板敷の部屋にぽつんと解剖台が置かれ、その上に横たえられたお伝の胴体が白布をかぶせられている姿は昨日のままだったが、死体からにおってくる異臭は昨日よりはるかに強く、鼻を衝くような防腐剤のにおいを圧倒する存在感を放っていた。それはあたかもお伝の首のない胴体が、自然の摂理を味方に付け、医学界の大立者を頤使(アゴで使う)しているかのようだった」。名器伝説のあるお伝の刑死体を目的不明のまま興味本位で解剖する医者たちの下劣さが、お伝の死体に復讐される様子をものの見事に描いている。「私の体触るんじゃねーよ」と言っているがごとく。
 「木像流血」では廃仏毀釈で岩清水八幡宮のお寺が災難にあって、神社側が集めた有象無象の人間を次のように描く。「だが、作七がこりゃ敵わんと直感的に思ったのは、集められた人間の顔立ちに見られる名状しがたい下司っぽさだった。日頃見下している八五郎の顔つきなどこれに比べれば春のそよ風みたいなものだ。この連中ときたら、眉はゲジゲジ状、鼻は粘土をこねてぺっちゃりとくっつけたよう、目はどれも三白眼で、額はあくまで狭く、生まれてこのかた物を考えたことなど一度もないような手合いだった。こういう連中が神主や禰宜の尻馬に乗って そや、そや とゲラゲラ笑いながら賛同したり、ソリャチャウデ、反対や とみな一斉に抗議の声をあげたりする。そんな風に付和雷同する叫び声がその場の多数意見とみなされてものごとが強引に運ばれてゆくのだった」。廃仏毀釈の理不尽さが目に浮かぶ。ここにも権力側と非権力側の圧倒的な落差が読みとれる。
 全編野口流のレトリックがちりばめられ、読書の楽しみを満喫できる。最後に文庫版あとがきで、現・支配権力者(長州閥の系譜)は現行政治を歴史的な栄光に満ちた維新政府の延長上に位置づける演出しているが、明治維新の仮面劇を上演しているかの感があり、支配権力者の知的レベルでさえ、歴史知識は大衆読み物並みとの指摘には同感する。氏の次の作品が待ち遠しい。

大東建託の内幕 三宅勝久 同時代社

2018-12-03 10:31:08 | Weblog
 世の中には持つ者と持たざる者がいる。お金に土地に車に有価証券にと多岐にわたるが、多くの土地を持つ者は、その有効利用に腐心する。将来自分が亡くなったとき、遺産相続はどうするか、税金対策はどうするか等々、悩ましい問題が控えている。持つ者の宿命である。「児孫に美田を残さず」は西郷隆盛の言葉だが、世の中西郷みたいに恬淡な人ばかりではない。どちらかというと強欲な人間の方が多い。ここに賃貸アパート・マンションを経営して、土地の有効利用・節税をしませんかという商売が成り立つ素地が生まれる。これ自体は不法でも何でもないので、大手の商社や中小の工務店などが参画して凌ぎを削っている。その中で大東建託はその強引なセールス手法で販売を伸ばし、全国のあちこちで、この会社が建てた賃貸マンション・アパートを見かける。マンションだと建設費用が何億とかかるので、その費用返済に最初の20年ぐらいかかり、急に家賃収入で儲かるという話ではない。ただ借金をして建てたということで、節税になるのだろう。長いスパンで考えないといけない問題だ。それを顧客の無知に付け込んで、強引なセールスを展開し、問題を起こしていると著者は指摘する。
 本書は三部構成で、第一部は「使い捨てられる社員たち」の表題で、ブラック企業特有の長時間労働、欠陥建築の尻拭い等で、社員が過労死寸前まで追い込まれている状況をレポートしている。第二部は「家主の夢と現実」で、社員が顧客にうまい話を持ちかけて無理やり、アパート・マンションを建てさせる手法を紹介している。田舎の土地持ちは法令に通じていないのをよいことに、つけ込むわけだ。社員は悪意の第三者として描かれている。第三部は「自壊への道」と題して、労組結成で対抗「二年間契約取れなければクビ」の異常、取材に応じたら懲戒処分された、八千代支店と赤羽支店で自死が相次いで発生、松本支店殺人未遂事件、「優秀な」営業マンはなぜ破滅したのか、について書かれている。そして本書の出版に際しては、会社に不利益をもたらす社員の発言を正当な事実確認を行なわず一方的に掲載しており、訴訟に持ち込むという会社側の弁護士からのいやがらせがあったことも書かれている。
 この会社の手法はいわば、オレオレ詐欺の延長線にあるようなもので、営業社員も契約をたくさん取った場合、月1000万にもなったと言っている。どう考えても堅気の仕事ではない。逆にうまくやれば、仕事は苦しいが儲かるということで入社してくる者が多くいるのではないか。儲けたらそれでいいというエゴイズム。これでは会社はささくれだって人間味が無くなるのは当然である。最近労働者不足で、外国人労働者に頼らざるを得ない状況は、政府の出入国管理法改訂で明らかになった。経済界からの強い要請を政府は先延ばしできず、拙速にも今国会での成立を図っている。沢山の業種、それに携わる労働者、彼らは生きがいを持って働いているのだろうか。昔は「世のため人のため」というのが基本的な労働コンセプトだったが、今そんなことをいうと笑われる気がする。私が思うに、今は人間相手の仕事が増えすぎて、自然相手の仕事が少ないのが問題なのだ。人間もグローバル化とやらで世界中の人間を相手にしなくてはいけなくなった。世の中がストレスフルなのはこれが原因だ。人間嫌いが自然に入って生きていける仕事を育てる必要がある。学歴やコミュニケーション能力で勝負!こんなのはもういいよと言えるようにするのも必要だ。