加藤氏は著名な文芸評論家であったが、2019年に72歳で亡くなった。巻末の瀬尾育生氏の解説によれば、2018年の11月末に急性骨髄性白血病になり、その後重篤な肺炎を起こして亡くなったとのことである。本書は著者が加療中の都内の病院の病室で二週間で書いたものだ。内容は1966年の東大入学以来、1972年までの履歴を書いたもので、東大紛争にどうかかわったかを時系列で書かれている。
その書き方について著者は言う、当初、オレは、それをいまのオレの観点から、「あっけらかん」とした視点でさっと描いたら、いまの若い人にもこれがどんな出来事だったかわかり、ある程度は面白がられるし、そこで起こったことが共有されれば、それは現代人にも有益なことだろう、くらいの気持ちで、この出来事に触れてみようと考えていた。何しろ、これまでの60年代後半から70年代初頭にかけての学生の反乱、学園闘争などについて書かれたものは、小説でもエッセイでも、沈鬱で、情緒的で、くら~いものが多い。そうでない文体でこの出来事を内側で経験した者の目で描けたらさぞ面白かろうと、明るい気分で思っていたのだ。
しかし、あらかじめ白状しておくと、やってみてオレはこのことが、オレにとってパンドラの箱を開けるのにも似た、過去の冥界巡りの入り口になることに気づいた。思っていたよりも、もっと深く、オレはこの時代のオレ自身の経験に囚われている、囚われてきたことに気づかされたわけさ。でも、途中で引き返すことはできない。このまま進むと。
この語り口で全編統一されているのであるが、いかにも暗鬱な時代を語るには最適かもしれない。この「語り口」の問題については氏の1997年の『敗戦後論』(講談社)でハンナ・アーレントの『イエスラエルのアイヒマン』について、アーレントがユダヤ人虐殺の罪で裁判にかけられたアイヒマンのレポートという重い主題について、ユダヤ人の批判も含めて軽妙な語り口で述べたことで批判を受けた事実を踏まえて、あえてその方法を取ったということである。
著者は山形県出身で高校時代は大江健三郎の作品に親しみ、文芸部で活動していた。東大では大江と同じ仏文科に進んだ。卒業後は国立国会図書館に勤務。その後明治学院大学、早稲田大学の教授を務めた。氏は文章を書けば饒舌だが、しゃべると東北弁交じりの朴訥な語り口で、一見すると暗い感じだった。ある時NHKの番組で、作家の故、安岡章太郎から「君、暗いね」というような感じで言われていたのを思い出す。でもインテリ学生として時代に真摯にかかわっている姿は強烈に伝わってくる。
その東大闘争の中で「戦線離脱宣言」をして、いわゆる転向した仲間について、そのような自分なりに築き上げた思想を実行する力を持たなかった自分に忸怩たる思いを抱き、後年その思想の力学を発見したと述べる部分は印象的だ。それを幕末の尊王攘夷派の急先鋒で最過激派の薩摩・長州両藩が一転して開国に「転向」した事例と重ね合わせて論じている。攘夷行動のはてに欧米列強にコテンパにやっつけられて、これでは植民地化されるという危惧が転向へと導いたと言うのだ。この時、攘夷が理不尽の感覚に発してしっかりと「人々とつながっていた」ことが、大事なことではないかと。言い換えると、尊王攘夷に凝り固まったその「内在」的な思考から、他者との関係のうちから行動指針と皇道の意味を割り出す「関係」の思考へと自らの愚直蒙昧な行動の徹底性によって「押し出されていった」のだと。転向をけしからんと一方的に非難しないとことが、この人らしい。
著者はかつて『敗戦後論』で、アメリカから結果として押し付けられた「日本国憲法」の下で、「平和主義」を実践する中での「ねじれ」の問題を提起した。曰く、日本の三百万の死者を悼むことを先に置いて、その哀悼を通じてアジア二千万人の死者への謝罪に至る道は可能かと。これは即ち、自国の死者への哀悼を先にして、そのことがそのまま私たちを他国の死者の謝罪の位置に立たせることへと続くあり方の創出という主張である。死者だけに戦争責任を押し付けてはならないのだ。今にして思えば、これはまっとう至極な話で、今後とも日本の課題であり続けるだろう。ここでもう一度加藤氏の著作を読み返す必要がある。そして1970年に自衛隊に決起を促して自決した三島由紀夫の真意も、50年を経た今、探っていく必要がある。この混迷した世界状況の中で、国家としての真の自立が求められる。
その書き方について著者は言う、当初、オレは、それをいまのオレの観点から、「あっけらかん」とした視点でさっと描いたら、いまの若い人にもこれがどんな出来事だったかわかり、ある程度は面白がられるし、そこで起こったことが共有されれば、それは現代人にも有益なことだろう、くらいの気持ちで、この出来事に触れてみようと考えていた。何しろ、これまでの60年代後半から70年代初頭にかけての学生の反乱、学園闘争などについて書かれたものは、小説でもエッセイでも、沈鬱で、情緒的で、くら~いものが多い。そうでない文体でこの出来事を内側で経験した者の目で描けたらさぞ面白かろうと、明るい気分で思っていたのだ。
しかし、あらかじめ白状しておくと、やってみてオレはこのことが、オレにとってパンドラの箱を開けるのにも似た、過去の冥界巡りの入り口になることに気づいた。思っていたよりも、もっと深く、オレはこの時代のオレ自身の経験に囚われている、囚われてきたことに気づかされたわけさ。でも、途中で引き返すことはできない。このまま進むと。
この語り口で全編統一されているのであるが、いかにも暗鬱な時代を語るには最適かもしれない。この「語り口」の問題については氏の1997年の『敗戦後論』(講談社)でハンナ・アーレントの『イエスラエルのアイヒマン』について、アーレントがユダヤ人虐殺の罪で裁判にかけられたアイヒマンのレポートという重い主題について、ユダヤ人の批判も含めて軽妙な語り口で述べたことで批判を受けた事実を踏まえて、あえてその方法を取ったということである。
著者は山形県出身で高校時代は大江健三郎の作品に親しみ、文芸部で活動していた。東大では大江と同じ仏文科に進んだ。卒業後は国立国会図書館に勤務。その後明治学院大学、早稲田大学の教授を務めた。氏は文章を書けば饒舌だが、しゃべると東北弁交じりの朴訥な語り口で、一見すると暗い感じだった。ある時NHKの番組で、作家の故、安岡章太郎から「君、暗いね」というような感じで言われていたのを思い出す。でもインテリ学生として時代に真摯にかかわっている姿は強烈に伝わってくる。
その東大闘争の中で「戦線離脱宣言」をして、いわゆる転向した仲間について、そのような自分なりに築き上げた思想を実行する力を持たなかった自分に忸怩たる思いを抱き、後年その思想の力学を発見したと述べる部分は印象的だ。それを幕末の尊王攘夷派の急先鋒で最過激派の薩摩・長州両藩が一転して開国に「転向」した事例と重ね合わせて論じている。攘夷行動のはてに欧米列強にコテンパにやっつけられて、これでは植民地化されるという危惧が転向へと導いたと言うのだ。この時、攘夷が理不尽の感覚に発してしっかりと「人々とつながっていた」ことが、大事なことではないかと。言い換えると、尊王攘夷に凝り固まったその「内在」的な思考から、他者との関係のうちから行動指針と皇道の意味を割り出す「関係」の思考へと自らの愚直蒙昧な行動の徹底性によって「押し出されていった」のだと。転向をけしからんと一方的に非難しないとことが、この人らしい。
著者はかつて『敗戦後論』で、アメリカから結果として押し付けられた「日本国憲法」の下で、「平和主義」を実践する中での「ねじれ」の問題を提起した。曰く、日本の三百万の死者を悼むことを先に置いて、その哀悼を通じてアジア二千万人の死者への謝罪に至る道は可能かと。これは即ち、自国の死者への哀悼を先にして、そのことがそのまま私たちを他国の死者の謝罪の位置に立たせることへと続くあり方の創出という主張である。死者だけに戦争責任を押し付けてはならないのだ。今にして思えば、これはまっとう至極な話で、今後とも日本の課題であり続けるだろう。ここでもう一度加藤氏の著作を読み返す必要がある。そして1970年に自衛隊に決起を促して自決した三島由紀夫の真意も、50年を経た今、探っていく必要がある。この混迷した世界状況の中で、国家としての真の自立が求められる。