読書日記

いろいろな本のレビュー

オレの東大物語 加藤典洋 集英社

2020-11-21 10:46:30 | Weblog
 加藤氏は著名な文芸評論家であったが、2019年に72歳で亡くなった。巻末の瀬尾育生氏の解説によれば、2018年の11月末に急性骨髄性白血病になり、その後重篤な肺炎を起こして亡くなったとのことである。本書は著者が加療中の都内の病院の病室で二週間で書いたものだ。内容は1966年の東大入学以来、1972年までの履歴を書いたもので、東大紛争にどうかかわったかを時系列で書かれている。

 その書き方について著者は言う、当初、オレは、それをいまのオレの観点から、「あっけらかん」とした視点でさっと描いたら、いまの若い人にもこれがどんな出来事だったかわかり、ある程度は面白がられるし、そこで起こったことが共有されれば、それは現代人にも有益なことだろう、くらいの気持ちで、この出来事に触れてみようと考えていた。何しろ、これまでの60年代後半から70年代初頭にかけての学生の反乱、学園闘争などについて書かれたものは、小説でもエッセイでも、沈鬱で、情緒的で、くら~いものが多い。そうでない文体でこの出来事を内側で経験した者の目で描けたらさぞ面白かろうと、明るい気分で思っていたのだ。
 しかし、あらかじめ白状しておくと、やってみてオレはこのことが、オレにとってパンドラの箱を開けるのにも似た、過去の冥界巡りの入り口になることに気づいた。思っていたよりも、もっと深く、オレはこの時代のオレ自身の経験に囚われている、囚われてきたことに気づかされたわけさ。でも、途中で引き返すことはできない。このまま進むと。

 この語り口で全編統一されているのであるが、いかにも暗鬱な時代を語るには最適かもしれない。この「語り口」の問題については氏の1997年の『敗戦後論』(講談社)でハンナ・アーレントの『イエスラエルのアイヒマン』について、アーレントがユダヤ人虐殺の罪で裁判にかけられたアイヒマンのレポートという重い主題について、ユダヤ人の批判も含めて軽妙な語り口で述べたことで批判を受けた事実を踏まえて、あえてその方法を取ったということである。

 著者は山形県出身で高校時代は大江健三郎の作品に親しみ、文芸部で活動していた。東大では大江と同じ仏文科に進んだ。卒業後は国立国会図書館に勤務。その後明治学院大学、早稲田大学の教授を務めた。氏は文章を書けば饒舌だが、しゃべると東北弁交じりの朴訥な語り口で、一見すると暗い感じだった。ある時NHKの番組で、作家の故、安岡章太郎から「君、暗いね」というような感じで言われていたのを思い出す。でもインテリ学生として時代に真摯にかかわっている姿は強烈に伝わってくる。

 その東大闘争の中で「戦線離脱宣言」をして、いわゆる転向した仲間について、そのような自分なりに築き上げた思想を実行する力を持たなかった自分に忸怩たる思いを抱き、後年その思想の力学を発見したと述べる部分は印象的だ。それを幕末の尊王攘夷派の急先鋒で最過激派の薩摩・長州両藩が一転して開国に「転向」した事例と重ね合わせて論じている。攘夷行動のはてに欧米列強にコテンパにやっつけられて、これでは植民地化されるという危惧が転向へと導いたと言うのだ。この時、攘夷が理不尽の感覚に発してしっかりと「人々とつながっていた」ことが、大事なことではないかと。言い換えると、尊王攘夷に凝り固まったその「内在」的な思考から、他者との関係のうちから行動指針と皇道の意味を割り出す「関係」の思考へと自らの愚直蒙昧な行動の徹底性によって「押し出されていった」のだと。転向をけしからんと一方的に非難しないとことが、この人らしい。

 著者はかつて『敗戦後論』で、アメリカから結果として押し付けられた「日本国憲法」の下で、「平和主義」を実践する中での「ねじれ」の問題を提起した。曰く、日本の三百万の死者を悼むことを先に置いて、その哀悼を通じてアジア二千万人の死者への謝罪に至る道は可能かと。これは即ち、自国の死者への哀悼を先にして、そのことがそのまま私たちを他国の死者の謝罪の位置に立たせることへと続くあり方の創出という主張である。死者だけに戦争責任を押し付けてはならないのだ。今にして思えば、これはまっとう至極な話で、今後とも日本の課題であり続けるだろう。ここでもう一度加藤氏の著作を読み返す必要がある。そして1970年に自衛隊に決起を促して自決した三島由紀夫の真意も、50年を経た今、探っていく必要がある。この混迷した世界状況の中で、国家としての真の自立が求められる。

銀閣の人 門井慶喜 角川書店

2020-11-07 10:42:14 | Weblog
 本書は銀閣寺を創建した室町幕府八代将軍(在位1449~1473)・足利義政の人生をたどったもので、政治家でありながら芸術・文化に傾倒していくプロセスが描かれている。彼は金閣寺で有名な足利義満の孫で、父は六代将軍足利義教、母は日野重子、早世した七代将軍足利義勝の同母弟にあたる。

 彼が文化芸術に内向する要因は、応仁の乱という京都を中心に展開された守護大名の戦に巻き込まれたということと、政治的人間だった妻・日野富子との愛憎半ばする夫婦生活と富子の実家の日野家との確執、さらに金閣寺を創建した偉大なる祖父・足利義満への反発等があげられるが、著者はそれらの事項を丁寧に追って芸術家・義政を描いている。現実が厳しければ厳しいほど、その逃避手段を考えるのが人の常だが、義政は東山の地に精神の理想郷を作ろうとした。しかも金閣寺のアンチテーゼとなるものを。

 その核となるのは「わび・さび」の理念であり、これを継承化したのが銀閣寺である。その銀閣寺東求堂の中の一室「同仁斎」が義政の美意識の結晶となったのだ。この部屋は付け書院と違い棚を並び備えた四畳半で、茶室の始まりとされる。しかし義政はこの部屋を書斎とのみ考えていた。この五畳でも六畳でもなく四畳半という間取りは義政のアイデアで、半畳というところが独創的だ。普通、人はすっきり割り切れるのが好きで「あまり」が出るのを嫌うが、あえて自慢の書院を四畳半にしたところに芸術家義政の真骨頂がある。このミクロコスモスの中に彼は永遠の美を見出したのだ。それは現実の人生がいかに過酷であっても、ここにはそれを補って余りある安逸の世界が広がっているのだ。

 足利将軍は政権基盤が弱く、守護大名との確執をいかに乗り越えるかが大きな課題であった。それゆえに管領家の人事に口を出したりして争いが起こることもしばしばであった。応仁の乱はまさにその典型と言えよう。現実の過酷さを表す事件として挙げられているのが、義政の父義教が赤松満祐の屋敷で宴会に招待され、そこで暗殺される場面だ。本書では、この席に五歳の義政が同席しており、父の首がはねられるのを目撃したと書いてある。危うく難を逃れて逃げ帰ったがこれがトラウマとして残ったことは間違いない。この足利義教は五代将軍足利義持の同母弟で、義持は病死するのだがその前に後継者を指名しなかったので、くじ引きで選ばれた。その時は出家して青蓮院門跡となっていたが、還俗して六代将軍となった。就任後幕府の権威を回復するために恐怖政治を敷いたので、反発を受けて先のように暗殺される結果となった。

 義政にとって父がかくも簡単に暗殺されるのを目の当たりにして、現実逃避のメンタリティーは弥増しに増したことだろう。この暗殺の場面はリアルで著者の筆致が冴えわたっている。この原体験こそは現実の生きがたさを象徴するものであり、義政が東求堂・同仁斎に向かうベクトルとなったことは確かだ。