サブタイトルは「北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件」である。本書は木村氏の昭和40年(1965)刊行の「獣害史最大の惨劇・苫前羆事件」を文庫化したもの。今回新たに第二部として「ヒグマとの遭遇」と題して著者自身のヒグマ遭遇体験なども収録した特別編集版となっている。カバーのヒグマが牙をむいた写真が大迫力だ。事件が起こった時は、大正四年(1915)暮、場所は北海道苫前村三毛別の奥地の六線沢。ここは開拓農民が暮らす場所で、苫前村の中心地まで30キロもある辺地であった。この村を冬眠の時期を逸したヒグマがわずか二日で六人の男女(胎児一人を含めれば7人)を殺害したのである。
12月9日の午前10時半頃、太田三郎宅にヒグマが侵入、内妻のマユと預かり子の幹夫が殺害された。太田は村の作業で留守にしていて難を逃れた。マユはその場で食害されたうえ連れ去られた様子で、捜索の結果近くのトドマツの根元に埋められていた。その様子は次のように描かれている「捜索隊ら数人が、先刻熊が飛び出てきたトドマツの辺りへ行くと、熊の姿はすでになく、血痕が白雪を染め、トドマツの小枝が重なったところがあった。その重なった小枝の間からマユの片足と黒髪がわずかに覗いている。くわえられてきたマユの体はこの場所で完膚なきまでに食い尽くされていた。残されていたのは、わずかに黒足袋と葡萄色の脚絆をまとった膝下の両足と、頭髪を剝がされた頭蓋骨だけであった。衣類は付近の灌木にまつわりつき、何とも言えぬ死臭が漂っていた。誰もがこの惨状に息を飲むばかりであった。夕刻五時ごろマユの遺体は太田家に戻った」。ヒグマの恐ろしさが身に染みて感じられる場面である。現代でも時々山菜取りに出かけた人が熊に襲われて食害されるという事件が起こっている。本州などから観光に来て一人で山に入り被害に遭うことが多い。ヒグマは雑食の猛獣でありその習性を理解しておかないと、いつ被害に遭うかわからない。
吉村昭の名作『羆嵐』(新潮社・昭和52年刊 昭和57年文庫化)はこの木村氏の著作がもとになっている。木村氏によると、昭和49年1月、旭川営林署の勤務室に吉村氏から電話があり、木村氏の著作を小説化したいのでお会いしたうえで直接承諾を頂ければという申し出があったという。面会の席で木村氏は二つ返事で快諾した。その後吉村氏は350枚の小説として『羆嵐』を完成させた。事件がショッキングであるだけに、これを小説化することは案外難しかったようだ。『羆嵐』ではマユ発見の場面はどう描かれているかというと次の通りである。
傾斜をおりてきたかれらを、区長たちがとりかこんだ。「少しだ」大鎌を手にした男が、眼を血走らせて言った。「少し?」区長がたずねた。「おっかあが、少しになっている」男が、口をゆがめた。区長たちは、雪の付着している布包みを見つめた。遺体にしては、布のふくらみに欠けていた。大鎌を雪の上に置いた男が、布の結び目をといた。区長たちの眼が、ひらかれた布の上に注がれた。かれらの間から呻きに似た声がもれた。顔をそむける者もいた。それは、遺体と呼ぶには余りにも無残な肉体の切れ端に過ぎなかった。頭蓋骨と一握りほどの頭髪、それに黒足袋と脚絆をつけた片足の膝下の部分のみであった。「これだけか」区長が、かすれた声でたずねた。男たちが、黙ったままうなずいた。
「おっかあが、少しになっている」が吉村氏の真骨頂と言える。ヒグマの恐怖をたったこれだけで細大漏らさず表現している。一流の小説家であることの証だと思う。ヒグマは翌日の12月10日の午後8時40分に太田家から500メートル川下の明景家に窓から侵入し明景金蔵とここに避難していた斎藤タケと子供の巌(6歳)と春義(3歳)、さらにタケが身ごもっていた胎児まで食害した。結局このヒグマは12月14日午前10時に射殺された。身の丈2,7メートル、体重340キロ、推定7~8歳のオスであった。
この事件から、熊の行動パターンとされる定説が確認された。それは次の通り、① 火煙や灯火に拒否反応を示さない。 ② 遺留物があるうちは熊はそこから遠ざからない。 ③ 遺留品を求めて何度でもそこに現れた。
④ 食い残しを隠蔽した。 ⑤ 最初に味を覚えた食物や物品に対する執着が強い。 ⑥ 行動の時間帯に一定の法則性がない。 ⑦ 攻撃が人数の多少に左右されない。 ⑧ 人を加害する場合、衣類と体毛を剥ぎ取る。 ⑨ 加害中であっても逃げるものに矛先を転ずる。 ⑩ 厳冬期でも、冬ごもりしない個体は食欲が旺盛。 ⑪ 手負い、穴持たず、飢餓熊は凶暴性をあらわにする。以上11項目、これだけ見ても手ごわい相手だということがわかる。
木村氏はこれを踏まえて、動物写真家、星野道夫氏が1996年(平成八)8月8日、ロシア領カムチャッカのクリル湖畔でヒグマに襲われて亡くなった事件や、1970年(昭和四十五)7月、夏季合宿訓練で日高山系縦走中の福岡大ワンゲル部員五人のパーティー中三人が、カムイエクウチカウシ山のカールでビバーク中にヒグマの犠牲になった事件を分析しており、ヒグマとの向き合い方を提起されているのでぜひ参考にしてほしい。三毛産別事件から108年、ヒグマは虎やライオン同様、猛獣であることを改めて認識しなければならない。
12月9日の午前10時半頃、太田三郎宅にヒグマが侵入、内妻のマユと預かり子の幹夫が殺害された。太田は村の作業で留守にしていて難を逃れた。マユはその場で食害されたうえ連れ去られた様子で、捜索の結果近くのトドマツの根元に埋められていた。その様子は次のように描かれている「捜索隊ら数人が、先刻熊が飛び出てきたトドマツの辺りへ行くと、熊の姿はすでになく、血痕が白雪を染め、トドマツの小枝が重なったところがあった。その重なった小枝の間からマユの片足と黒髪がわずかに覗いている。くわえられてきたマユの体はこの場所で完膚なきまでに食い尽くされていた。残されていたのは、わずかに黒足袋と葡萄色の脚絆をまとった膝下の両足と、頭髪を剝がされた頭蓋骨だけであった。衣類は付近の灌木にまつわりつき、何とも言えぬ死臭が漂っていた。誰もがこの惨状に息を飲むばかりであった。夕刻五時ごろマユの遺体は太田家に戻った」。ヒグマの恐ろしさが身に染みて感じられる場面である。現代でも時々山菜取りに出かけた人が熊に襲われて食害されるという事件が起こっている。本州などから観光に来て一人で山に入り被害に遭うことが多い。ヒグマは雑食の猛獣でありその習性を理解しておかないと、いつ被害に遭うかわからない。
吉村昭の名作『羆嵐』(新潮社・昭和52年刊 昭和57年文庫化)はこの木村氏の著作がもとになっている。木村氏によると、昭和49年1月、旭川営林署の勤務室に吉村氏から電話があり、木村氏の著作を小説化したいのでお会いしたうえで直接承諾を頂ければという申し出があったという。面会の席で木村氏は二つ返事で快諾した。その後吉村氏は350枚の小説として『羆嵐』を完成させた。事件がショッキングであるだけに、これを小説化することは案外難しかったようだ。『羆嵐』ではマユ発見の場面はどう描かれているかというと次の通りである。
傾斜をおりてきたかれらを、区長たちがとりかこんだ。「少しだ」大鎌を手にした男が、眼を血走らせて言った。「少し?」区長がたずねた。「おっかあが、少しになっている」男が、口をゆがめた。区長たちは、雪の付着している布包みを見つめた。遺体にしては、布のふくらみに欠けていた。大鎌を雪の上に置いた男が、布の結び目をといた。区長たちの眼が、ひらかれた布の上に注がれた。かれらの間から呻きに似た声がもれた。顔をそむける者もいた。それは、遺体と呼ぶには余りにも無残な肉体の切れ端に過ぎなかった。頭蓋骨と一握りほどの頭髪、それに黒足袋と脚絆をつけた片足の膝下の部分のみであった。「これだけか」区長が、かすれた声でたずねた。男たちが、黙ったままうなずいた。
「おっかあが、少しになっている」が吉村氏の真骨頂と言える。ヒグマの恐怖をたったこれだけで細大漏らさず表現している。一流の小説家であることの証だと思う。ヒグマは翌日の12月10日の午後8時40分に太田家から500メートル川下の明景家に窓から侵入し明景金蔵とここに避難していた斎藤タケと子供の巌(6歳)と春義(3歳)、さらにタケが身ごもっていた胎児まで食害した。結局このヒグマは12月14日午前10時に射殺された。身の丈2,7メートル、体重340キロ、推定7~8歳のオスであった。
この事件から、熊の行動パターンとされる定説が確認された。それは次の通り、① 火煙や灯火に拒否反応を示さない。 ② 遺留物があるうちは熊はそこから遠ざからない。 ③ 遺留品を求めて何度でもそこに現れた。
④ 食い残しを隠蔽した。 ⑤ 最初に味を覚えた食物や物品に対する執着が強い。 ⑥ 行動の時間帯に一定の法則性がない。 ⑦ 攻撃が人数の多少に左右されない。 ⑧ 人を加害する場合、衣類と体毛を剥ぎ取る。 ⑨ 加害中であっても逃げるものに矛先を転ずる。 ⑩ 厳冬期でも、冬ごもりしない個体は食欲が旺盛。 ⑪ 手負い、穴持たず、飢餓熊は凶暴性をあらわにする。以上11項目、これだけ見ても手ごわい相手だということがわかる。
木村氏はこれを踏まえて、動物写真家、星野道夫氏が1996年(平成八)8月8日、ロシア領カムチャッカのクリル湖畔でヒグマに襲われて亡くなった事件や、1970年(昭和四十五)7月、夏季合宿訓練で日高山系縦走中の福岡大ワンゲル部員五人のパーティー中三人が、カムイエクウチカウシ山のカールでビバーク中にヒグマの犠牲になった事件を分析しており、ヒグマとの向き合い方を提起されているのでぜひ参考にしてほしい。三毛産別事件から108年、ヒグマは虎やライオン同様、猛獣であることを改めて認識しなければならない。