読書日記

いろいろな本のレビュー

資本主義はなぜ自壊したのか 中谷巌 集英社インターナショナル

2009-09-26 09:43:35 | Weblog
 新自由主義経済学者である著者が、アメリカのサブプライムローン破綻による世界経済の恐慌を目の当たりにして、これではダメだということで新自由主義からの転向を宣言した書である。小泉構造改革の先駆的な広告司令塔的役割を担って来ただけに発売と同時に大きな話題になった。そして今回の衆議院総選挙で自民党が惨敗を喫したことを思えば、政治の大転換を予言した書とも言える。一読して、暴走する資本主義に対してその波に呑み込まれた日本の問題点と反省が縷々述べられ、アメリカかぶれの経済学者(自分も含めて)の責任が批判的に描かれている。1960~1970年代のアメリカの豊かさは日本の比ではない。テレビでみるアメリカの中流階級の輝くばかりの生活は我々貧乏な日本人からすれば羨望の的であった。「パパは何でも知っている」というテレビドラマはそういうアメリカの中流家庭の日常を描いて、大いに視聴率を上げていた。高校生が車を所有して日常的に運転するという生活がそもそも日本ではありえないことだった。広い家に大きな冷蔵庫、広いキッチンに大型犬、美人の妻にエリートの夫、アメリカはまさに地上のパラダイスだった。そういうアメリカの名門ハーバード大学大学院に一橋大学を出て学んだ著者は日本のエリートで、アメリカに魅了され、批判的にみる視点を持ち得なかったとしても無理はない。
 本書はこの懺悔の部分が一番面白く読めた。その他は経済史・世界史の復習のような感じで、特に目新しい記述はないが、経済においても「信頼」というものが、大切であると説く部分に懺悔の心情が色濃く出ていると感じた。「信なくんば立たず」というやつである。政権を取った民主党はこの自民党が残した新自由主義による負の遺産をどう処理するのか、興味深い。同じ轍を踏まないことを祈るばかりだ。それにしても、小泉元首相の下で、アメリカの言いなりになって規制緩和の旗を振った竹中平蔵氏はいつ懺悔・転向の書を出すのだろう。

キルリアン 藤沢周 新潮社

2009-09-23 19:42:55 | Weblog

キルリアン 藤沢周 新潮社



 これはまた一風変わった小説だ。いわゆるストーリーテリングなものではなく、言葉の意味を再確認するようなきわめてストイックなものだ。作者の分身と思われる鎌倉在住の作家、寒河江(50歳)が主人公だ。冒頭、円覚寺の山門で関係を結んだ女性の回想から、過去・現在、有と無、現実・非現実のあわいで彼は鎌倉の深い闇を注視する。このうちにこもるような感じは古井由吉の小説とよく似ている。世界を言葉で認識するのが人間だが、とりわけ作家は言葉によって架空の世界を構築せねばならないが、物と言葉の間には大きな溝がある。自己以外のものは、女も黒揚羽蝶も土蜘蛛も等価値であり、主人公の意識では例えば恋愛小説は意味が無いのだ。小説の中で、寒河江は若い編集者に原稿の依頼を受ける、それは鎌倉か故郷新潟を舞台にした近未来小説だった。その瞬間「近未来小説?しかも鎌倉か新潟?原風景と近未来?一瞬、古く陰気な浴室の壁に八本の足を広げている土蜘蛛の姿が脳裏をよぎって、噴き出しそうになった珈琲を無理に飲み込んだ。」と当惑してしまうのだ。
 小説家は身過ぎ世過ぎのために編集者の要求を受け入れながら書いて行かざるをえない側面がある。その中で言葉の意味を、限界を認識する営為はそれ自体貴重なものであるが、今後寒河江が小説家として生きるためには言葉に取り込めない豊穣な世界をいくばくか取り込んで、読者の供して行かなければならないだろう。その取り込んだ断片は鋭利であればあるほど読者を感動させることができる。書くことの哲学的思索を本編で試行したあと、どう展開して行くのだろう。次作が重要な鍵を握ることは間違いない。

歳月の鉛 四方田犬彦 工作社

2009-09-19 10:25:33 | Weblog

歳月の鉛 四方田犬彦 工作社



 『ハイスクール1968』の続編とある。それは1960年代の後半に、都心の国立の中高一貫校に在籍した著者がエリート高校生の日常を綴る中で、時代の諸相を描いたものだった。勉強のできる生徒の集まった学校の実態は、それを知らぬものにとっては興味の対象になるかも知れない。そういう文脈の中で自己を語るのはかなり勇気がいると思うのだが、著者は逡巡なく語っているところをみると相当自分に自信があるのだろう。本来過去は美化されやすいので、話半分で読むことが肝要だ。
 さて本書は東大入学後の日常を前作と同様、時代の流れを織り込みながら書いたものだ。当時の日記をもとにしているが、本来これも気恥ずかしい行為で、永井荷風や島尾敏雄の日記はそれなりに読めるが、大学生の日記ではとても鑑賞に堪える代物ではない。著者によると、「1970年代のわたしを特徴づけているのは不活性と停滞であった。そしてもし人生を構成しているもろもろの時期が、ヨーロッパ中世に行われていた錬金術の過程に対応しているとすれば、その当時のわたしはニグレクト、つまり鉛のように暗くて重い卑金属が、まどろみの中でゆっくりと変化に向かって立ち上がろうとする時期に相当していたような気がする。」らしい。思わせぶりな文章である。天下の英才の中で自分の相対的な位置が低下したことを嘆いているだけではないのか。私も1970年代に大学生活を送ったが、著者と反対ののびのびしたものだった。70年代が雌伏の時で、将来に雄飛するための下積みの研鑽期であり、それがあればこそ今の地位と名声があるというまことに卑俗なサクセスストーリーをぺダンチックな言説で言い換えただけのものと見た。これだけ自分の人生にこだわる人間も珍しいのではないか。願わくは、特異の評論で時代の病根をえぐるような問題提起をしてもらいたいものだ。

日本を貶めた10人の売国政治家 小林よしのり編 幻冬社新書

2009-09-14 09:05:39 | Weblog
 タイトルが刺激的だ。いかにも売らんかなという感じ。中国の奸漢追放キャンペーンのようだ。この手の本は結構多いが、新興の書店によってなされる場合が多い。本書によると売国政治家ワースト10は、一位 河野洋平 二位 村山富市 三位 小泉純一郎 四位 小沢一郎 五位 中曽根康弘 六位 野中広務 七位 竹中平蔵 八位 福田康夫 九位 森喜朗 九位 加藤紘一となっている。選んだ連中はサンケイ新聞御用達の連中だから、始めから偏向しているのは明らかで、編者の小林に至っては「東大一直線」丸出し、どうにも止まらないという雰囲気で、本気で読む事が憚かられると言ってもよい。案の定中味のない本だったが、関岡英之の小泉批判、木村三浩の竹中批判は正鵠を得ていた。竹中は政治家とは言えないが、二人ともデリカシーの欠如した人間という共通項があり、個人的に好かないので、批判を読んで溜飲を下げた。しかし、第一部の座談会はひどい内容だ。品がない。大江健三郎のよく使うデーセンシィーの欠如だ。日本が悪くなったのは、あいつの責任だと後になってワーワー言うのは、ジャンケンの後だしと同じでずるい。
 今回の総選挙で民主党が圧勝して鳩山首相が実現するが、彼ら右派からすれば不倶戴天の敵が政治をするわけで、来年あたりもう一度新しい本を出す必要があるだろう。名づけて「日本をダメにする予定の左翼政治家」。今から楽しみだ。とりわけ文部科学省はどう変わるのか、興味深深だ。

唐代の人は漢詩をどう詠んだか 大島正二 岩波書店

2009-09-13 15:46:08 | Weblog

唐代の人は漢詩をどう詠んだか 大島正二 岩波書店



 漢詩ブームであるらしい。これはNHKの「漢詩をよむ」で石川忠久先生が中国語による朗読を披露されたことによると思われる。漢詩は訓読による朗読が普通だが、これを中国語で朗々と読まれたことで、人気が出たのだ。石川先生は六朝文学の研究家で、特に陶淵明について詳しい。日本漢文教育学会の会長をされている。気さくな人柄で人気が高い。NHKでの漢詩の講義も洒脱で楽しかった。
 詩吟でも歌われる場合訓読形式だが、中国語による朗読も魅力的だ。ただ高校などでは漢文専門の教員が少ないので、中国語のできる人は少なく、教科書の漢詩を中国語で朗読できる人はすくない。したがって漢詩の授業では押韻は指導するが、平仄までは指導しない。一部の私学とか国立の付属高校ではやっているかもしれないが、少数である。最近独力で漢詩普及の道を開拓されている鈴木淳次という人がいる。愛知県の県立高校の教員をされているが、「漢詩を創ろう」と題するインターネットのサイトを十年前に開設、今やヒット数は三十五万を超えている。高校では通信制で漢詩創作講座を担当されている。またリヨン社から二冊の漢詩創作の本も出されている、非常に奇特な方である。最近の漢文はセンター試験に出題されるからというためだけに存在している感がなきにしもあらずだが、こういう先生がいることは漢文学会にとっても誠に心強い。
 本書は漢詩を現代中国語ではない唐代の発音に復元してみようということで、韻の説明から始まって、韻書の紹介、平仄の説明などを問答形式で分かりやすく説明している。中原音韻の復元は高度な言語学の知識が必要だが、カール・グレンなどの説を援用して初学者にも理解できるように努めている。高校の国語の先生にはぜひ読んでいただきたい。そうすれば読んで訳すだけの授業から脱却できるかも知れない。
 

バカ丁寧化する日本語 野口恵子 光文社新書

2009-09-05 22:25:42 | Weblog
 最近ばか丁寧な言い回しがはびこっているが、その代表が「させていただく」だ。これをやたら使いたがる人が多い。第一章「させていただきたがる人々」はそれに冠する論考だ。一見謙譲語と見られないこともないが、似て非なるものだ。私は個人的には好まない。何か卑屈な感じがするからだ。ある選挙の立候補者が選挙演説で「皆様にお訴えさせていただきたく云々」と語ったという例が挙げられいるが、丁寧にものを言ったという実感が話者にはあるのだろう。しかし、明らかにおかしい。こんな候補者、まともな日本語を使おうとしている選挙民からは顰蹙を買って落選するに違いない。
 消費者保護法の制定以後、サービス業の世界でもやたら敬語が増えた気がする。これはクレームの増大と相関関係がありそうだ。「様」がその一例だ。「~さん」が「~様」に駆逐されたと言っていい。悪貨が良貨を駆逐するように。敬語を使う場合は著者も指摘するように、心がこもっていなければ意味がない。店員がお客に背中を向けて「ありがとうございました」と言っても意味はないのだ。したがって、敬語の、それも正しくない敬語の乱発は現代の空疎な人間関係を逆に浮き彫りにしていると考えられ、喜ばしい現象ではない。マニュアル化された敬語は使う側の想像力で補わないと、客に不快感を与えてしまい、リピーターを取れなくなってしまう。サービス業界はこれを肝に銘じなければならないだろう。人を、状況を見て的確に使うことだ。さわやかな敬語を聞いたときの爽快感は例えようもない。
 私個人は、尊敬語と謙譲語はそれぞれ「為手尊敬」と「受け手尊敬」ということでしっかり学ばせればよく、これで古文と同様、二方面に対する敬意も理解できるし使えるようにもなると思う。