読書日記

いろいろな本のレビュー

安部公房とわたし 山口果林 講談社

2013-11-20 16:06:04 | Weblog
 私はこの本を読むまで、二人が愛人関係だったということを知らなかった。それは多分、山口果林という女優にあまり興味がなったということかもしれない。私の記憶では清純な役が多かったように思うが、本書を読むと、安部との愛欲生活が赤裸々に描かれていて少々驚いた。
 山口は桐朋学園大学演劇科に入学して、そこの教員だった安部と知り合ったのだが、その時彼女は18歳、安部は41歳。その後愛人関係になり、安部が68歳でガンで死去するまで関係が続く。師弟関係から男女関係へ発展するのはよくあることだが、それにしても27年間は長い。夫婦よりも強い絆で結ばれていたことが分かる。
 それにしてもなぜ今これが書かれなければならないのか。山口は今66歳、人生の総括のために書かれたのであろうか。一読して、これは山口果林版『ヰタ・セクスアリス』ではないかと感じた。幼児期の性被害体験(山口に実家は本屋で、住み込みの店員に被害を受けた)、その後変遷を経て、安部公房の愛人となって、女優活動を続けた。結局、安部が離婚して、二人が正式の夫婦になることは無かったのである。ノーベル文学賞候補にもなった文豪の個人生活の一端が見えて興味深かったが、山口の筆致からは、ただの俗世間のおじさんという印象しか浮かんでこないのは、どうしてなのだろう。
 表紙や口絵に使われているのは、十代から二十代と思われるものばかりで、どれも可愛く写っており、さすが女優という感じだが、グラスを持って全裸でベッドに寝そべっている、アフターアワーズ丸出しの写真はいかがなものか。その横にトレードマークの黒ぶちメガネを外した安部の写真がレイアウトされている。要するに二人の関係を写真で要約したという感じで、文章を読むよりこちらの方がインパクトがあった。30代以降の写真が一枚も無いということは、山口にとってこの十代から二十代が頃が人生の花であったということだろう。

小林一茶 青木美智男 岩波新書

2013-11-10 14:58:27 | Weblog
 副題は「時代を詠んだ俳諧師」。本書は日本近世史の研究者の一茶論で、著者の青木氏は本書を書き上げた直後、調査のため訪れた金沢で急逝されたと後書きにある。享年77歳であった。ご冥福をお祈りする。副題の通り、幕末維新の前段階と言われる文化文政年間の日本の状況をつぶさに描いた句が多く紹介されており、類書には見られない新鮮さがある。
 一茶は40歳から亡くなる65歳までに14000余りの句を残している。多作の俳人である。信州柏原で生まれ、15歳で江戸奉公に出た。継母のさつとの軋轢が大きかった。一茶は生涯この継母を恨んだ。45歳から遺産相続の問題に関わり、江戸と柏原を行き来することが多くなったが、この継母との関係もあって、和解まで6年かかっている。
 一茶は世の中の底辺を支える庶民に対する共感の句を多く作っているが、とりわけ農民に対する目線が特徴だと青木氏は言う。
 耕さぬ罪もいくばく年の春(「文化句帖」文化二年) 鍬の罰思ひつく夜や雁の鳴(「文化三ー八年句日記写」文化四年) これらの句からわかるように一茶は自身を「田も耕さないで食べるだけ、織り物も織らないで着るだけ」という「不耕の民」の典型であると常に感じていたらしい。農民の苦しい生活はよくわかっていたが、自分は江戸奉公で田舎を捨てて、都市生活者になったという後ろめたさがあった。
 一茶は25歳頃、葛飾派小林竹阿(二六庵)の内弟子になり、俳諧師の道を歩むことになる。本所相生町あたりの裏長屋に住んでいた。
 秋の風乞食は我を見くらぶる、元日もここらは江戸の田舎哉(「文化句帖」文化元年)
 30歳の3月、四国・九州へ旅立つ。この旅は6年続く。この間、「君が世」という言葉を盛り込んだ句をたくさん作っている。
 君が代や蛇に住み替る蓮の花(「寛政句帖」寛政四年)寛政年間の政治状況をもとに深読みすれば、「君が代」は徳川の世、「蛇」=田沼意次政権、「蓮の花」=松平定信政権と読めると青木氏は言う。
 この「君が代」の言葉は、国学の隆盛と関連していると著者は説く。なるほど、寛政四年にロシア使節ラックスマンが漂流民大黒屋光太夫らを護送して根室へやってきた。この時、けふからは日本の雁ぞ楽に寝よ(「七番日記」文化九年)と詠んで、シベリアから渡ってくる雁に「日本」と意識して描いている。「君が代」に「日本」一茶流ナショナリズムの吐露と言える。このように時代の状況をストレートに詠む姿勢は一茶の面目と言うべきもので、誠に興味深い。しかも基本は庶民目線で、節季候(せきぞろ)の見向きもせぬや角田川、節季候を女もすなりそれも御代(「七番日記」文化九年)などが詠まれた。節季候(せきぞろ)は歳末から新年にかけて二~三人で特異な扮装して門づけする人々のこと。
 このように日本史家によって小林一茶の新側面が取り上げられたことは誠に喜ばしい。
 一茶の還暦の句は 六十年踊る夜もなく過ごしけり(「文化句帖」文政五年)であった。

サリンジャー ケネス・スラウエンスキー 晶文社

2013-11-02 13:34:18 | Weblog
 副題は「生涯91年の真実」。サリンジャーと言えば、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が有名で、今でも版を重ねている。1951年の出版で、以来62年の歳月が流れている。私は1970年代の前半に学生生活を送ったったが、利沢行夫先生がアメリカ文学の講義でサリンジャーを取り上げていたと記憶する。、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の主人公はホールデン・コーフイールドという若者だが、1950年代の多くの若者が周囲の世界に対する幻滅や挫折感をホールデンに投影して、共感したことでベストセラーになった。作者のサリンジャーは私生活を隠して、謙虚さを追求していたことが、読者には魅力的で、近寄りがたい聖人の雰囲気が生まれていた。
 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は当時買って読んだ記憶があるが、本自体はどこかへ行ってしまったが、角川文庫で四冊残っていた。それは、昭和44年(1969)刊の『フラニーとズーイ』『九つの物語』、昭和45年の『倒錯の森』、同47年の『大工らよ、屋根の梁を高く上げよ』だ。翻訳は故鈴木武樹氏。氏は当時気鋭の英文学者で明治大学助教授。テレビ番組でも活躍していた。(大橋巨泉のクイズダービーではなかったかな。)
 この中の『九つの物語』の冒頭の「バナナ魚にはもってこいの日」についてレポートを書いたらしく、そのメモが本に挟んであった。それにはグラス家の長男のシーモアの自殺に関する考察が書かれていた。
 シーモアは第二次世界大戦中、連合軍によるノルマンディー上陸作戦に参加したのを始めとして、その後、多くの激戦に従事し、その衝撃でノイローゼになり、未だに回復できない人物として描かれている。本書を読むとサリンジャーも同じ体験をしており、戦争のトラウマがあったようだ。特に「防諜部隊」で働いて、ダッハウはじめ強制収容所の惨状を目撃。ナチスのユダヤ人に対する蛮行を体験した。帰還後、人間の存在についての疑問から、宗教について深く考察するようになり、ヒンズー教にも関わった。シーモアはサリンジャーの分身と言える人物だが、1965年ニュヨーカー誌に発表された「ハプワース16、1924」にも登場し、こう宣言する、「ああ神よ、あなたに謎が多いということはありがたいことだ。よけいにあなたを好きになったよ。いささか頼りないけど、僕をいつまでもあなたの下僕だとお考えください」と。サリンジャーの作品の宗教性は軽んじるべきではない。よって、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』もありきたりの青春小説の文脈で読むべきではない。人間存在に苦闘するサリンジャーを意識して読むことが求められる。
 本書は650ページに渡る大部の書物だが、翻訳は達意の文章で大変読みやすい。訳者の田中啓史に感謝。