読書日記

いろいろな本のレビュー

シニアになって、ひとり旅 下川裕治 朝日文庫

2024-06-19 09:22:47 | Weblog
 タイトルが何とも寂しい感じだが、著者は1954年生まれで今年70歳だ。私は1951年で彼より三歳年上。年上だからといって自慢できることはない。彼の作品は近年朝日文庫で読めるが、大抵のものは読んでいる。昔は海外旅行のレポが多かったが、コロナの影響で旅行記が書けなくなったと言っている。そうなればたちまち収入減となり、生活が厳しくなる。自営業の厳しいところだ。今回は国内旅行記で、著者の人生回顧が織り込まれているところがミソだ。七章建ての構成で、デパート大食堂、キハ車両、暗渠道、フエリー、高尾山登山、路線バス、小豆島でお遍路となっている。

 この中で一番懐かしさを覚えたのは、第一章の「デパート大食堂が花巻にあった」である。マルカン百貨店は花巻市の老舗で、昔は繁盛していたが昨今の不景気で食堂のみが残ったという。そのマルカンビルの6階に著者は向かう。そこにあったのはたくさんの料理サンプルだった。お子様ランチ、プリン、カレー、ハンバーグetc。そこで著者はカレーとラーメンを注文する。因みにカレーは500円と安めの設定。これはフアミリー向けの工夫らしい。実際ここにはこども連れの家族がたくさん来ていた。それを見て著者は寒気を覚える。その理由をこう述べる。シニア世代の僕は、百貨店の大食堂を知っている。その空間に放り込まれたとき、懐かしさを通り越して寒気を覚える。子供時代の日々は、それほど甘美ではない。絡み合った両親との関係や妹との軋轢が渦巻いている。その世界が堰を切ったように浮かび上がってしまう。「ここはヤバい」僕はそう思ったと。どうも下川家の百貨店大食堂行は、団らんの場所ではなかったようだ。

 著者は自分の家族と百貨店大食堂の思い出をこう述べる。「子供の頃、たまに家族で長野市の丸光百貨店の大食堂に行った。日曜日だった。父親はいつもいなかった。父親は高校の教師だったが、高校野球に染まった人生を歩んだ。日曜日は対外試合でいなかった。そんな父親を母はどう思っていたかはわからない。しかし日曜日の昼時、母は何を思ったのか、僕と四歳年下の妹と三人で百貨店の大食堂に向かった」。これが先述の「寒気を覚える」の要因だと思われるが、百貨店の大食堂に集う一見幸福そうに見える家族も抱えている問題は多様だ。当たり前の話だが。

 私の百貨店大食堂の思い出は著者ほど心理的に込み入っていない。夏の海水浴に和歌山市の磯ノ浦に母と行って、帰りに市内の丸正百貨店の大食堂でお子様ランチを食べて、母の知り合いのKさん宅を訪問して帰るという感じだった。二歳下の弟も一緒だったが父親は同行することはなかった。父は下川氏の父上と同じ高校教師だったが定時制に努めていた。だから昼間は家にいることが多く、一緒に紀ノ川に魚釣りに行ったことを覚えているが家族で出かけることを好まなかったようだ。それでも家族関係について苦悩することはなく至って平穏に過ごしていたことは両親に感謝しなければならない。

 人生70歳を過ぎると、身内や友人との別れが多くなるが、それを乗り越えて生きていかねばならない。若い頃に見た風景と今見る風景は同じ風景であっても見た時に回顧が伴うという意味で番って見える。本書にはそういう感じが横溢していて共感できた。次の旅行記を楽しみに待ちたいと思う。


カーストとは何か 鈴木真弥 中公新書

2024-06-08 08:23:30 | Weblog
 副題は、インド「不可触民」の実像 である。インドは今や中国に代わって大国の地位を獲得しつつあるが、国内に眼を向けるとカースト制度による混沌があるようだ。著者はフイールドワークによって、不可触民(ダリト)の実相を報告してくれている。フイールドワークは国情の把握に有力な方法だが、現地の協力者を探すのが大変な苦労だ。これは『中国農村の現在』(中公新書)でも同じだった。中国では国内の政治体制による困難さがあり、インドではカースト制度による差別問題の困難さがある。でもこれだけの本にまとめたのは賞賛に値する。

 著者によると、カーストとは、結婚、職業、食事などに関して様々な規制を持つ排他的な人口集団である。各カースト間の分業によって保たれる相互依存の関係と、ヒンズー教的価値観によって上下に序列化された身分関係が結び合わさった制度である。バラモン クシャトリア、ヴァイシャ、シュードラの下に位置付けられているのが不可触民(ダリト)で皮革加工、清掃など穢れとされる職業に従事する。この身分差別はヒンズー教と関わっているところがポイントで、仏教が衆生済度を旨としているところと大いに違っている。宗教が民衆を分断するというのはどういうことなのであろうか。私はこの問題には不案内だが、研究する価値はありそうだ。

 冒頭に二人の政治家の紹介がある。一人は非暴力主義不服従による独立運動を展開したM・F・ガーンディー。もう一人は不可触民廃止運動を強力に展開したB・R・アンベードカルである。ガーンディーはカーストについては肯定的で、職業の世襲を重視し、先祖伝来の職業を継承することは社会的義務と主張していた。一方アンベードカルは不可触民差別の元凶はヒンズー教と考え、死去二か月前に仏教に改宗した。二人の死後、それぞれ「ハリジャン運動」「ダリト運動」として継承されている。ガーンディーは不可触民制を差別する側の心の問題と捉え差別するカースト・ヒンズーの改心によって問題を克服しなければならないと説いた。それに対してアンベードカルは不可触民が非差別的状況から抜け出すにはカースト・ヒンズーの憐憫にすがるのではなく、不可触民自身が教育を受けて広い視野を持ち従属的状況を自覚し、自力で改革に取り組まなければならないことを主張し続けた。 個人的にはアンベードカルの主張の方がわかりやすくて正論だと思う。学歴によって差別を乗る超えるというのは日本でもあることだからだ。しかし、本書後半で不可触民出身の高学歴カップルの話題が載っているが、その出自を隠すことに精力を費やす苦労が語られる。また高等教育での差別によって自殺者が増加しているという話を聞くと差別意識を払拭することの難しさを思わざるを得ない。

 さて不可触民の生活実態はどうかという問題だが、第三章の「清掃カーストたちの現在」と第四章の「インド社会で垣間見られるとき」に詳しい。ここはフイールドワークの成果だと言える。指定カースト「清掃人」の中でも「屎尿処理」とそれ以外の「清掃人」の扱いは明確に区別されると書かれている。中でも汲み取り式便所を掃除する「屎尿処理」はヒンズー教で最も不浄視され過酷な労働を強いられている。汲み取り式便所は乾式便所と言われるが、これを手作業で掃除する女性の写真が載せられているが言葉を失う。これはヒンズー教の浄・不浄の観念のもとで発達した身分意識だが、人権侵害の何物でもない。同じページにムンバイの下水清掃人の写真もあるが、三人の男性の体は汚物まみれだ。このトイレ問題は社会の民度をはかるメルクマールになるので、国を挙げてキャンペーンを今以上に強力に展開する必要があるだろう。それにしても「屎尿処理人」のカーストが解放されない限り解決は難しそうだ。

 それと「清掃カースト」の住居のにおいと彼らの食事(豚食と飲酒)が感覚的に差別感情を引き起こしやすいという指摘だ。ヒンズー教ではイスラム教と同様豚は不浄の動物と考えられ忌避の対象である。このにおいと食事は日々の生活を構成する重要な要素であるので、この点から言っても、差別意識を助長することはあっても、払拭するのは困難だ。時間が解決するという問題でもないので、IT王国インドの行方はそれほどバラ色ではない。全体主義国家中国のように9億の農民を犠牲にするという政策を臆面もなくとれるならいいが、インドは一応民主主義国家を標榜している手前、不可触民(ダリト)問題はを放置できないだろう。アンベードカルが不可触民差別の元凶はヒンズー教と考えたのは正鵠を得ている。宗教に組み込まれた差別問題は難問である。日本の部落問題の比ではない。