読書日記

いろいろな本のレビュー

逆転の大中国史 楊海英 文藝春秋

2016-10-31 16:22:16 | Weblog
 楊氏は中国内モンゴル出身の文化人類学者。北京第二外国語大学卒業後、来日、その後日本国籍を取得し、現在静岡大学教授。『草原の墓標』など文化大革命期の漢民族による内モンゴルに対する非情な弾圧を描いた作品がある。日本に帰化した文化人は他に四川省出身の石平氏が有名だが、楊氏はテレビで見たことはない。石平氏は北京大出身の元エリートで漢人だが、楊氏はモンゴル人で、漢人に対するルサンチマンがストレートに出てくるところに違いがある。
 習近平は中華民族の復興を掲げ、帝国主義を大いに喧伝して、世界の大国たらんことを目指しているが、そもそもこの領土拡大の発想は清朝を継承するものだが、清朝自体が満州族の王朝であるから、基本的に中華民族が継承すべきかどうかは議論があろう。中華思想と言っても、異民族と共存してきた歴史を無視するわけにはいかないというのが、楊氏の見解だ。
 曰く、漢人から「蛮族」と言われた周辺の遊牧民にも豊かな文明があり、それが漢民族にも影響をいろんな事例を挙げて説明してくれている。
 例えば「河」という」字は中国語で「he」と発音するが、これは元はアルタイ系の言葉だ。だから中国の北の「かわ」は殆ど「河」という名がついている。「黄河」など。ところが揚子江を過ぎたら、南は全部「江」になる。これは「jiang」と発音するが、タイ系の言葉であり、地名から見ても、揚子江の南にはタイ系の言葉の影響が残っている。「黄巾の乱」の後、漢人がわずか五百万人になったとき、事実上の漢人の絶滅だと岡田英弘氏が指摘しているのも無理はないだろうと。岡田氏の著書からの引用が多いのも本書の特徴だ。
 また、都市の商人は遊牧民から見ると農民以下だ。都市は人間を集約し、そこから動かないようにする装置であり、そこで商売をするのは金銭に執着する人々だと、漢人の拝金主義を批判してみせる。また法輪功については、これを「道教」と見なし、目指すのは不老不死で、勃興の背景には医療福祉制度の不備と貧富の差があり、そのために庶民は仕方なく気功流健康維持法を始めた。その過程で秘密結社化し、ときの権力者から弾圧されたのだと明快な分析がある。しかし中国の指導者は自身のことは道教にすがる。毛沢東が不老不死を実現するため少女と性行為をしたが、これも道教の実践だとのたまう。面白い。逆に言うと、道教がいかに民衆に浸透しているかという証明だ。
 また、唐王朝も漢人の国家ではなく、ソグド人のものだったというのも新鮮だ。安禄山や史思明はソグド人でゾロアスター教の信仰体系をおびた人だったという。そう言えば、詩人李白は西域の生まれだというのはよく知られた話で、彼が活躍できたのもそういう事情があったと考えると腑に落ちる。
 一読して、遊牧民に対する偏見が払拭されたことは確かで、今後の活躍を期待せずにはいられない。

道徳感情はなぜ人を誤らせるのか 管賀江留郎 洋泉社

2016-10-22 09:11:17 | Weblog
 著者名の管賀江留郎は「かんが えるろう」と読むらしいが、「考えるろう」の洒落かと思われる。実名を出すことが憚られる事情があるのだろう。著者プロフイールに「少年犯罪データベース主宰」とある。
 本書の前半は1941~42年と1950年に起こった兇悪殺人事件(浜松事件と二俣事件)についての細かな説明である。そしてそれが冤罪であり、首謀したのが静岡県警の紅林麻雄刑事で拷問によって自白を強制していたことが分かった。しかし紅林は犯人逮捕の功績によって捜査功労賞を受け、名刑事として君臨し、冤罪事件を重ねていくことになる。その間、警察内の紅林の操作方法に対する批判、遺族の状況、真犯人逮捕に至る状況などが細かく描かれる。これが「道徳感情はなぜ人を誤らせるのか」というタイトルとどういう関係があるのかわからなかったが、後半の第13章、421ページからやっとその説明に入る。
 冤罪加害者の紅林刑事は転落の後、耐えがたい境遇で憔悴しきったあげくに脳梗塞で頓死した。一方冤罪被害者の家族も無罪が確定しているにもかかわらず、世間から白い目で見られ、苦難の人生を送らざるを得なくなっている。このような「市民の間に盛り上がる囂々たる空気」がどうして形成されるのか。その拠り所として著者が持ってきたのがアダム・スミスの『道徳感情論』である。スミスはこの中で、「利害関係がまったくないはずの他人の喜びや悲しみに対する<共感>を持つことが人間の本性だ。どんな悪人であっても<共感>をまったく持たないということはない。これが社会を動かしている原理だ」と述べている。人間は他人を見ただけではその感情は判らないので、他人の立場を自らに置き換えて感情移入する。自分の感情も他人に<共感>してもらいたいと欲する。これが犯罪被害者に同情し、またまるで身内が被害にあったかのように犯人を憎む源泉となる。それが周りの人たちの感情とも<共感>して先述の「市民の間に盛り上がる囂々たる空気」は大きくなっていくのだ。それをコントロールするのが「公平な観察者」としての立場である。
 著者はこのような「道徳感情」が形成されるメカニズムを進化生物学、認知科学等の知見をもとに解明しているが、非常に興味深い。私にとって新しい知見が沢山あった。そして殺人の原理について次のように言う、戦場で英雄になりたいという華々しいものから、バカにされたのでカッとしたという詰まらないものまで、殺人はむしろ自分の〈評判〉のために行なわれることが多い。バカにされて黙っていれば〈評判〉が落ち、〈評判〉が落ちると自分にとって致命傷になると考えるからこそ、リスクやコストが大きいにも関わらず相手を殺そうとするのである。〈評判〉を気にしないものは、こんな無意味な殺人は犯さないと。この〈評判〉は世間的にどう評価されるかということだが、この世間がなかなか難敵で、息苦しい対象でもある。最近、寄り添って、共感することが流行りだが、少しズレると「善意」が暴走するリスクが生じる。アダム・スミスの「公平な観察者」が要請される所以である。

戦場の性 レギーナ・ミュールホイザー 岩波書店

2016-10-10 11:58:16 | Weblog
 副題は「独ソ戦下のドイツ兵と女性たち」で、第二次世界大戦でドイツがソ連に侵攻した際のドイツ兵とソ連女性たちとの性的接触の実相を描いたもの。ナチのソ連侵攻は「バルバロッサ作戦」と言われ、スラブ人の劣等国であるソ連を絶滅させるというヒトラーのレイシズムが発揮された恐るべきものであった。従ってドイツ軍の侵攻した村々では虐殺とレイプが日常的に行なわれ、特にソ連在住のユダヤ人に対しては過酷な弾圧が繰り返された。従って、女性に対するレイプの問題は、虐殺の蔭に隠れて顕現化しなかったが、戦後の資料発掘と住民のインタビューで確認されている。大戦末期にナチス崩壊前のドイツに侵攻したソ連軍によってこれと同じことがドイツ女性に繰り返されたことを思えば、「ソ連兵とドイツ女性たち」という書物も書かれなければならないが、共産主義国のベールは厚く困難が伴うであろう。
 因みに2015年のノーベル文学賞作家のスベトラーナ・アレクシェービッチの『ボタン穴から見た戦争』(2016年 岩波現代文庫)もこの件と関わる内容だ。、1941年にナチス・ドイツの侵攻を受けたソ連白ロシア(ベラルーシ)では数百の村々で村人が納屋に閉じ込められて焼き殺される事件があった。約40年後、当時15歳以下の子どもだった101人にインタビューし、戦争の記憶がどう刻まれているかを調べたものだが、ドイツ軍の侵攻によって、平和な生活が、突然暗転する様子が赤裸々に語られる。その中で、父親は言うに及ばず、母親がドイツ兵によって性的に虐待され殺されるという内容も語られている。従って性暴力は戦争につきものだというのは一種の真理として成立する。日本軍が中国の農村の女性にした行為も同じである。無力な女性を圧倒的な力(武力)で支配して、その尊厳を傷つける行為は、何も戦争に限らない。しかし、戦場ではそれが最も発露されやすいという特徴がある。現代では中東やアフリカの民族紛争において、女性が奴隷化されて、性被害に遭うことが報告されているが、この件に関しては歴史に学ぶということが無く、学んでも阻止できないというヒトの本能に帰せざるを得ない部分がある。ジェンダー問題が解決しない所以である。
 第三章以降、「取引としての性」「合意の上での関係」の事例が報告されているが、第一章の圧倒的な性暴力の報告のあとに語られるこれらの事象はどれくらいの頻度であったのか、知りたい気がする。「ドイツ兵と恋に落ちるソ連女性」って第一章を読んだ後では、なかなか信じられない。ドイツ兵がソ連の女性と笑顔で写っている写真が何枚も掲載されているが、実際はどうだったんだろう。写真って真実を語っているようで語っていないものだから。

北の富士流 松村友視 文藝春秋

2016-10-02 15:16:55 | Weblog
 北の富士は現在NHKの大相撲放送の解説者として活躍しているが、辛口のコメントとお洒落な服装で人気が高い。その人気を支えているのが、その長身と男前ぶりである。現在74歳だが、テレビに映るその姿は非常に若々しい。現役時代はプレイボーイとして鳴らしたそうだが、本書を読むと、非常に義理がたいところがあり、その明るい気さくな性格とも相まって、周りから愛される人物であるようだ。私は相撲フアンのひとりだが、現役時代の北の富士は土俵上で制限時間いっぱいになるまで、常にテレビカメラを意識して、男前に写るように顔の角度などをよく研究していた。私が子どもの頃の昭和30年代から40年代は、相撲中継はプロレスと並ぶ人気番組で、テレビを見て興奮のあまり死ぬ老人も結構いた。今では信じられない話だが。逆に言うとそれほど娯楽が少なかったのだ。その中で男前の北の富士は人気が高かった。中でも最高位東張出大関であった大阪出身の前の山との一戦は、いつもにらみ合いになるので見ものだった。前の山は少々あくの強い面相とキャラクターで、ヒールの役割を甘んじて受けていたような印象がある。
 この北の富士の伝記をを愛情あふれるまなざしで纏めたのは、夙にプロレスフアンとして名高い松村氏である。松村氏の作風は一言で言えば、洒脱ということになるだろうが、それは北の富士にも当てはまることで、洒脱の二乗効果がこの作品の価値を高めている。
 関係者のインタビューや世相の分析等々を織り交ぜた労作だが、最近の大相撲界の問題点にも鋭い分析を加えている。それは「立ち合いに両手をつく」問題である。テレビを見られた方はおわかりの通り、今は行司や審判員が厳しく監視しているため、「両手をつく立ち合い」がごく普通に行なわれているが、松村氏はこれに「待った」をかけている。氏によれば、相撲全盛時代の「栃若時代」あるいは「柏鵬時代」の立ち合いは、ビデオ等で見てみると、いわゆる「阿吽の呼吸」で必ずしも両手をついてはいない。相撲は「立ち合いがすべて」だというのはよくわかるが、それと「立ち合いに両手をつく」というのは別問題ではないかと述べている。私もこの意見に賛成で、せっかく時間いっぱいで盛り上がって立ち合ったのに、両手をついていないということで、行司や審判員によって相撲が中断される局面が何度もあり、非常に興ざめな感じがした。氏はこの「立ち合いに両手をつく」という〝正義〟がまかり通っているのは、相撲界が先年、〝八百長〟〝野球賭博〟〝いじめ〟〝薬物疑惑〟などで一時にクローズアップされ、どん底に突き落とされた時に、その浄化運動の改革案の目玉として、「立ち合いに両手をつく」に白羽の矢を立てたからだ。
 それ以降相撲界はもろもろの要素の積み重ねで連日「満員御礼」の盛況を取り戻している。しかし大相撲の神髄はそのような幼稚な教科書的なところにあるのではないという著者の言葉に耳を傾けるべきだろう。