読書日記

いろいろな本のレビュー

最後の将軍 司馬遼太郎 文春文庫

2023-02-16 10:59:17 | Weblog
 以前掲載した『天狗争乱』(吉村昭)で、天狗党は徳川慶喜に尊王攘夷の旗印となってもらうべく京都に向かったが、結局相手にしてもらえず投降した。そして彼らの助命嘆願に耳を貸さず処刑してしまったことについてなんと無慈悲なことかと書いた。自分のことだけを考える貴人特有のいやらしさが出ているが、このことを考えるために再読した。著者曰く、「側近の原市之進が慶喜を将軍にするため水戸では過激尊王攘夷派でありながら、景気の側近になると開国派になり、かつての同志であった武田耕雲斎以下を越前敦賀で断罪に処する旨の勇断を慶喜に迫り、説きぬいた挙句それを断じせしめた。(中略)慶喜が将軍になれば市之進はその幕営にあってかれの一手で天下の権を自由にすることができるのである」と。

 原市之進は水戸藩士で、慶喜の側近。彼のために忠実に働いたが、その功績を妬むものも多く、兵庫開港が尊王攘夷からの変節とみなされ暗殺された。その側近に強く言われたから天狗党を断罪したということだが、彼らはもとは水戸藩の同志、その300人以上の同志をこのような悲惨な結果に追い込むには慶喜自身の心にある種の闇があるのではないか。それを表すのが鳥羽伏見の戦いの後、配下を見捨てて大阪城から逃亡した一件。その際会津藩主の松平容保を連れて行ったが、容保は敗れた家来を残して逃げることに難色を示したが、押し切ってしまった。容保はのちにその行動を批判されることになる。面目丸つぶれである。しかも会津藩は朝敵にされて官軍に攻め滅ぼされた。著者は慶喜を「才華があふれ、権謀が多過ぎ、頭脳の回転が常人よりも早すぎ、かつその進退の計算の計算が深く、演技がありすぎることが、愚者たちにこの男を妖怪のように見せかけている」と述べる。もしこの男が権力を握って野心を発揮する立場あったとしたらどうなっていただろう。

 この慶喜の、常人にはうかがい知れぬ内心をもっていた人物の生涯を様々なエピソードで綴ったのが本書である。私はこの「妖怪」の本質を表すのが女性に対する対応だと考える。著者も「慶喜の、その生涯の癖は好色であると言っていい」と述べている。具体的には、17歳で初めて側女と同衾したとき、その秘所を子細に検分し、翌日画仙紙にその絵を描き、絵の具で入念に彩色したうえで、側近に女はみなこのようなものかと問いただしたという話。出典はどこなのだろう。あるいは著者の創作か?それにしても驚くような話である。慶喜は維新後、勝海舟のおかげで、処刑を免れ三十代半ばで静岡で引退生活を送ることになったが、77歳で亡くなるまで趣味の世界に没頭した。和歌・俳句、囲碁・書、能といった伝統的なものから、写真、サイクリング、ドライブまで及んだ。その傍ら、側室のお幸とお信に明治4年から明治21年まで、合わせて20人以上(夭折も多い)を生ませている。17年間で20人以上子供を産ませるとはまさにアンビリーバブル。側室の立場からは慶喜の要求をはねつけることは難しかったと思われるが、毎晩毎晩交代で相手をさせられたらかなわない。慶喜はそれも頓着しなかったのであろう。「妖怪」の本質はここにありと言えそうだ。

 古来独裁者にこのような人間は多いが、慶喜の場合30代半ばで野に下って権力を放棄したので、そのエネルギーを趣味と女性にぶつけるしかなかった。これは国にとって良かったのか悪かった」のか、それはわからない。

オーウエルの薔薇 レベッカ・ソルニット 岩波書店

2023-02-11 11:18:51 | Weblog
 ジョージ・オーウエルは、『アニマルフアーム』や『1984』で有名なイギリスの作家だが、彼の庭師的な側面を取り上げて、「薔薇を植えるオーウエル」というイメージを従来の「オーウエル像」に対置させたものだ。詳細な伝記ではなく、「薔薇」に関する話題や、スターリン支配下における遺伝学論争(植物の)などを交えてオーウエルの周辺を彩っている。作者は、オーウエルが1936年に植えた薔薇を、2017年にウオリントン村のオーウエルの旧宅を訪ねて確認した。そのうえで彼の著作の再読にかかって「もう一つのオーウエル」を見つけたという次第。

 1940年にオーウエルは「仕事以外での私の最大の関心事は庭いじり(ガーデンニング)、特に野菜の栽培である」とアンケートに答えており、実際熱心に実践した。このことに関して著者は、「嘘と虚妄の時代にあって、庭は成長の過程と時の推移、物理学、気象学、水文学(すいもんがく)、生物学といったものからなる王国を自ら学ぶための一つの手立てなのである」あるいは、「食用植物を育てることは一つの試金石になりうるし、言葉の中をさまよい歩いたあとで、正気に返り、自意識の方途にもなりうる」と、作家活動にとっての効用を述べている。オーウエルの著作のディストピアの陰鬱な世界に対峙するのがガーデニングの世界であるという指摘は興味深い。日常生活の細々とした事象に喜びを覚え、それを表明するオーウエルの姿が彷彿とされる。

 著者はさらに進んで、英国の庭が「非政治的空間」ではないことを述べる。イングリッシュガーデンの構造は、綿密な設計の上に配置され管理されたものであり、それをめでる人々の特権ーーそれは共有地の囲い込みの歴史や植民地支配で得られた富に支えられていた。このような庭に立ちそれを絵画にとどめたのがオーウエルの高祖父チャールズ。ブレアである。彼は奴隷労働からなるジャマイカの砂糖プランテーションで財を成した。著者はオーウエル自身が無縁でなかった英国の庭と風景をめぐる因果な歴史も描いて見せる。植民地支配者の末裔であるという慙愧の念はオーウエルの創作活動の原点ともいえるが、彼は『ビルマの日々』の中で主人公のビルマ在住のチーク材商人にこう語らせている。「われわれインド在住の白人連中は、自分たちが泥棒で、つべこべ言わずに泥棒稼業を続けて行くんだと認めさえすれば何とか我慢できるものになるのだが」と。この負い目が後の全体主義批判のエネルギーになっていることは間違いない。

 『アニマルフアーム』や『1984』は全体主義、具体的にはスターリニズム批判であるが、その要点は事実と虚構の区別、真と偽の区別をわかりやすく説明したことにあると著者はいう。さらにオーウエルが成し遂げたたぐいまれな仕事は、ほかの誰もしなかったような仕方で、全体主義が自由と人権にとってのみならず、言語と意識にとって脅威であることを名指し記述したことだという。『1984』のニュースピークの話はまさにこのことを指摘している。本書はオーウエルが愛したガーデニングとオーウエルがもっとも批判した全体主義が不思議な糸で結ばれていることをさりげなく描いて、「オーウエル賛歌」となっている。

 ソ連崩壊後、全体主義国家でいま注視すべきは中国で、『1984』の世界が現実に起こっている。オーウエルが言った事実と虚構の区別、真と偽の区別がつかなくなって国民は混乱の極みに陥っているのだ。このような時代だからこそ「オーウエルを読む」ということが重要だと言えるだろう。

「男はつらいよ」を旅する 川本三郎 新潮選書

2023-02-04 12:53:57 | Weblog
 川本氏は昨年12月21日(水)の朝日新聞朝刊に「思い出して生きること 妻に先立たれ14年悲しみや寂しさは消えずに共にある」という文章を寄稿した。氏は1944年生まれで、今年78歳、朝日新聞記者を経て執筆活動に専念して多くの著作を出版されている。2008年に7歳年下の夫人を癌で亡くされ、子供がいない故、以来一人暮らしが続いている日常と感慨を述べたものだが、いい文章だった。著者紹介欄に最新作として『ひとり遊びぞ 我はまされる』(平凡社)が紹介されていたので、読んでみた。これは新聞原稿の元になったもので、妻へのオマージュというべきものだった。


 その中で氏は一人暮らしの徒然に鉄道旅行をして全国各地を回っているという記述があった。そして以前、映画「男はつらいよ」のゆかりの地を訪ねた本を出したことがあるというので読んだのが『「男はつらいよ」を旅する』である。初出は2017年5月で、北海道から沖縄まで、映画のロケ地をほとんどカバーしており、おまけに作品のコメントも面白くて、登場人物の個性も過不足なく描かれていて、一気に読んでしまった。山田洋次監督の手法をマンネリだと言って批判する向きもあったが、でもあれだけ長い年月、あれだけ人気を博すというのは、映画に共感する人が多かったということである。庶民の視線に立っての映画作りは山田監督ならではのものがあり、今も人気は衰えていない。私も退職後は寅さんが訪れた土地を旅したいと思っていたが、たまたま昨年12月に所属のハイキングクラブの例会で備中高梁を訪ねる日帰り旅、タイトルは「備中松山城と武家屋敷散策」というのがあり、参加した。その時のレポートを会報に載せてもらったので、ここで紹介したい。


                                 備中松山城と武家屋敷散策に参加して

 今回は青春18切符を使っての旅で、行き先が岡山県の高梁市と備中松山城とあって大いに興味が湧き参加した。備中高梁は前から行ってみたいと思っており、渥美清主演の映画「男はつらいよ」の第8作「寅次郎恋歌」(昭和46年)と第32作「口笛を吹く寅次郎」(昭和58年)の舞台にもなった静かなまちである。参加者は7名で、大阪から姫路までは新快速ですぐだったが、相生から岡山までは各停のゆっくりした旅になった。岡山で伯備線に乗り換えて高梁到着が12時8分。乗合タクシーで城の麓まで行く。あとは歩いて標高430メートルの松山城を目指す。かなりきつい。でも結構人が多い。山頂到着。石垣が美しい優美な城が見えてきた。500円を払って門をくぐると、猫城主の「さんじゅーろー」が出迎えてくれる。別に客に媚びるわけでもなく、泰然としている。城中はきれいに整備されていて、城の歴史がよく理解できた。目まぐるしい城主の交代が武家時代の厳しさを感じさせる。天守からの眺めは絶景であった。厳しい日程だったが、非常に充実した一日になった。(以上)


 この旅行で「青春18切符」はローカル線愛好者にとっては、有難いものだということが分かった。「青春」とあるが使っているのは「老人」が多いらしい。これから大いに利用したい。ちなみに第32作「口笛を吹く寅次郎」(昭和58年)のマドンナ役は竹下景子で、当時30歳。本書では言及されていないが、清楚なたたずまいといい、演技力といい、彼女の代表作ではあるまいか。彼女も今や69歳。時の流れは残酷だ。