以前掲載した『天狗争乱』(吉村昭)で、天狗党は徳川慶喜に尊王攘夷の旗印となってもらうべく京都に向かったが、結局相手にしてもらえず投降した。そして彼らの助命嘆願に耳を貸さず処刑してしまったことについてなんと無慈悲なことかと書いた。自分のことだけを考える貴人特有のいやらしさが出ているが、このことを考えるために再読した。著者曰く、「側近の原市之進が慶喜を将軍にするため水戸では過激尊王攘夷派でありながら、景気の側近になると開国派になり、かつての同志であった武田耕雲斎以下を越前敦賀で断罪に処する旨の勇断を慶喜に迫り、説きぬいた挙句それを断じせしめた。(中略)慶喜が将軍になれば市之進はその幕営にあってかれの一手で天下の権を自由にすることができるのである」と。
原市之進は水戸藩士で、慶喜の側近。彼のために忠実に働いたが、その功績を妬むものも多く、兵庫開港が尊王攘夷からの変節とみなされ暗殺された。その側近に強く言われたから天狗党を断罪したということだが、彼らはもとは水戸藩の同志、その300人以上の同志をこのような悲惨な結果に追い込むには慶喜自身の心にある種の闇があるのではないか。それを表すのが鳥羽伏見の戦いの後、配下を見捨てて大阪城から逃亡した一件。その際会津藩主の松平容保を連れて行ったが、容保は敗れた家来を残して逃げることに難色を示したが、押し切ってしまった。容保はのちにその行動を批判されることになる。面目丸つぶれである。しかも会津藩は朝敵にされて官軍に攻め滅ぼされた。著者は慶喜を「才華があふれ、権謀が多過ぎ、頭脳の回転が常人よりも早すぎ、かつその進退の計算の計算が深く、演技がありすぎることが、愚者たちにこの男を妖怪のように見せかけている」と述べる。もしこの男が権力を握って野心を発揮する立場あったとしたらどうなっていただろう。
この慶喜の、常人にはうかがい知れぬ内心をもっていた人物の生涯を様々なエピソードで綴ったのが本書である。私はこの「妖怪」の本質を表すのが女性に対する対応だと考える。著者も「慶喜の、その生涯の癖は好色であると言っていい」と述べている。具体的には、17歳で初めて側女と同衾したとき、その秘所を子細に検分し、翌日画仙紙にその絵を描き、絵の具で入念に彩色したうえで、側近に女はみなこのようなものかと問いただしたという話。出典はどこなのだろう。あるいは著者の創作か?それにしても驚くような話である。慶喜は維新後、勝海舟のおかげで、処刑を免れ三十代半ばで静岡で引退生活を送ることになったが、77歳で亡くなるまで趣味の世界に没頭した。和歌・俳句、囲碁・書、能といった伝統的なものから、写真、サイクリング、ドライブまで及んだ。その傍ら、側室のお幸とお信に明治4年から明治21年まで、合わせて20人以上(夭折も多い)を生ませている。17年間で20人以上子供を産ませるとはまさにアンビリーバブル。側室の立場からは慶喜の要求をはねつけることは難しかったと思われるが、毎晩毎晩交代で相手をさせられたらかなわない。慶喜はそれも頓着しなかったのであろう。「妖怪」の本質はここにありと言えそうだ。
古来独裁者にこのような人間は多いが、慶喜の場合30代半ばで野に下って権力を放棄したので、そのエネルギーを趣味と女性にぶつけるしかなかった。これは国にとって良かったのか悪かった」のか、それはわからない。
原市之進は水戸藩士で、慶喜の側近。彼のために忠実に働いたが、その功績を妬むものも多く、兵庫開港が尊王攘夷からの変節とみなされ暗殺された。その側近に強く言われたから天狗党を断罪したということだが、彼らはもとは水戸藩の同志、その300人以上の同志をこのような悲惨な結果に追い込むには慶喜自身の心にある種の闇があるのではないか。それを表すのが鳥羽伏見の戦いの後、配下を見捨てて大阪城から逃亡した一件。その際会津藩主の松平容保を連れて行ったが、容保は敗れた家来を残して逃げることに難色を示したが、押し切ってしまった。容保はのちにその行動を批判されることになる。面目丸つぶれである。しかも会津藩は朝敵にされて官軍に攻め滅ぼされた。著者は慶喜を「才華があふれ、権謀が多過ぎ、頭脳の回転が常人よりも早すぎ、かつその進退の計算の計算が深く、演技がありすぎることが、愚者たちにこの男を妖怪のように見せかけている」と述べる。もしこの男が権力を握って野心を発揮する立場あったとしたらどうなっていただろう。
この慶喜の、常人にはうかがい知れぬ内心をもっていた人物の生涯を様々なエピソードで綴ったのが本書である。私はこの「妖怪」の本質を表すのが女性に対する対応だと考える。著者も「慶喜の、その生涯の癖は好色であると言っていい」と述べている。具体的には、17歳で初めて側女と同衾したとき、その秘所を子細に検分し、翌日画仙紙にその絵を描き、絵の具で入念に彩色したうえで、側近に女はみなこのようなものかと問いただしたという話。出典はどこなのだろう。あるいは著者の創作か?それにしても驚くような話である。慶喜は維新後、勝海舟のおかげで、処刑を免れ三十代半ばで静岡で引退生活を送ることになったが、77歳で亡くなるまで趣味の世界に没頭した。和歌・俳句、囲碁・書、能といった伝統的なものから、写真、サイクリング、ドライブまで及んだ。その傍ら、側室のお幸とお信に明治4年から明治21年まで、合わせて20人以上(夭折も多い)を生ませている。17年間で20人以上子供を産ませるとはまさにアンビリーバブル。側室の立場からは慶喜の要求をはねつけることは難しかったと思われるが、毎晩毎晩交代で相手をさせられたらかなわない。慶喜はそれも頓着しなかったのであろう。「妖怪」の本質はここにありと言えそうだ。
古来独裁者にこのような人間は多いが、慶喜の場合30代半ばで野に下って権力を放棄したので、そのエネルギーを趣味と女性にぶつけるしかなかった。これは国にとって良かったのか悪かった」のか、それはわからない。