読書日記

いろいろな本のレビュー

慶喜の捨て身  野口武彦  新潮選書

2011-03-29 21:08:28 | Weblog
 幕末バトル・ロワイヤル第四弾。主人公は徳川十五代将軍慶喜。野口氏の前著『鳥羽伏見の戦い』では、慶應4年1月3日、薩藩討伐を名目に大坂から京都に攻め上ろうとした旧幕府軍と薩長を中心とする新政府軍が激突して一日で旧幕府軍は敗走、戊辰戦争の開始を告げるとともにその帰趨を決した中で、慶喜が最後まで戦わず責任を放棄して、大阪城から江戸へ逃げ出した顛末が描かれていた。著者曰く、慶喜に不足していたものは「勇気」だと。この慶喜が大政奉還を朝廷に上表して受理されたのが、慶應3年10月14日。この時、慶喜は乾坤一擲の大勝負を目論んでいたらしい。
 その傍証になるのが、『徳川慶喜公伝』にある彼の言葉だと言う。すなわち「当今外国の交際日に盛んになるにより、いよいよ朝権一途に出でずしては綱紀立ち難きをもって、従来の旧習を改め、政権を朝廷に帰したてまつり、広く天下の公議を尽くし、聖断を仰ぎ、同心・協力、共に皇国を保護せば、必ず海外万国と並立するを得ん」だ。著者は言う、これは「大政奉還」の要点を表したものだが、王政復古の後、どのような政体を作るのかに関してはまったく白紙状態で、徳川家をどう位置付けるかもアイマイなままだ。慶喜の肚は、武力討伐を回避するために将軍職という重荷を手放し、とりあえずガラガラポンをやっておいて時間を稼ぎ、徳川の実勢を盛り返して、自分のペースで政界を再編成することであった」と。なかなかの権謀術数家だ。家茂のあと、お家困難な折に将軍職を引き継いだだけのことはある。その辺の押し出しの強さをリアルに描いている。
 この慶喜の野望は彼の判断ミスで権力は倒幕派の手に落ちた。そのミスとは朝廷が主催する簾前の諸侯会議に、反幕の諸藩と正面衝突するのが嫌で欠席したために、岩倉具視の策謀を許してしまい、徳川家処分という形で「王政復古の大号令」が発せられてしまったことだ。慶喜が大坂から逃げ出したのはこのあとのこと。いったん諦めたらどんな恥でも曝してしまうのだろう。本人に言わせれば「勇気」の有無など関係あるか、という感じか。幕末を面白くして小説のネタをたくさん提供したことは間違いない。眉目秀麗で謡曲で鍛えた美声の持ち主、そのうえ能弁とくればカリスマ政治家の条件をクリア―しているが、彼をしても徳川家再興は成らなかった。現代の政治家でこのようなタイプが出現したら、どうだろうか。この国難を乗り切る切り札はいるのか。

人生という作品 三浦雅士 NTT出版

2011-03-17 21:24:08 | Weblog
 人は自分の人生を作品のように見なして生きている。死ねばその作品を見ることができないにも関わらずである。これは霊魂があると信じた古代人と同じではないか。人生を作品のように見なすことと、霊魂が不滅であるとみなすことは表裏である。古代人は人生を氏族の生命の鎖の一環として生きていた。それが人生を一回限りの完結したものと見るようになったのは、人生を物語と見る言語が生まれたからだ。象形文字(特に漢字)は形の中に意味を読む行為だが、音楽も絵画も写真もその点では言語と同じである。言語の能力の発展とともに人生の一回性を信じる感性が育って、芸術作品の一回性を信じる近代思想が生まれた。以上が冒頭部の概略だが、これがどのように展開するのかと思うと話は白川静の漢字学と中国学本流の藤堂明保との論争に移る。藤堂から言わせると白川の漢字学は学問とは言えない代物で、いわばナンセンスという断を下しているのだが、その論争に分け入って著者は冒頭のテーマに収斂させていく。白川は甲骨・金石文の研究者として業績を上げ、古代の文字解釈に革命をもたらした。例えば「口」という文字は『説文』では、人が話したり食べたりするところであるということだが、実際に甲骨文にあたって漢字の祖形を探ると、話したり食べたりする口の意味で用いられている例はなく、呪文を容れる箱をかたどったものだ、というのである。すなわち文字は呪的な行為が盛んに行なわれた時期に、その儀礼の必要に応じて成立したものだというのである。
 『説文』は『説文解字』と言い、後漢の許慎の作で、紀元100年に成ったもの。白川によると「長く文字学の聖典とされてきたが、甲骨文、金石文資料が出土するに及んで改訂を要するところが多くなった」ということだ。甲骨文が発見されたのは20世紀初頭で、許慎はこれを見ずして『説文』を書いたわけで、字義の解釈に再考を要するのは当然と言えよう。また孔子についても『孔子伝』で人間主義の倫理家という従来の解釈を排し、巫女の私生児であり最後の呪術師だったと主張して、人を驚かせた。先の藤堂は『説文』の体系を元に単語家族という分類法で漢字を分析してきたわけで、議論の土俵が違う。その結果、論争は東大対立命館、すなわち権威対非権威の様相を見せ、東大助教授の藤堂の居丈高な物言いが際立つ。この論争の詳細は『白川静著作集3』(平凡社)「漢字の諸問題」を見ていただきたい。白川の言うことに分があるのは明白だ。
 三浦はこの論争を以下のごとくさばいて見せる。すなわち、古代中国は残虐な供犠と呪術の世界だったが、周王朝の間に変貌を遂げ、さらに孔子の時代には文明化を完成していた。白川の見た甲骨・金石文の時代と、藤堂の研究した漢字の時代では世界が違ったのであって、文字論争はどちらも正しい。孔子は移行期の人間であり、彼の前後で霊魂の時代から人生の時代に移ったのだと自説を見事に補強して見せる。
 人間はその存在そのものには実体がない。人は人として通用しているから人間なのであって、その点、貨幣と同じであるという話から、近代芸術の観念の起源論に話が展開して行き、芸術は歴史的にも商業資本主義の産物だという見解に辿りつく。見事な展開と言わざるを得ない。
 さて、今回東北地方大地震で自己の人生の完結途上で終幕を迎えられた方々には、謹んで哀悼の念を捧げたい。この大災害を目の当たりにして、ここしばらくの間は文章を書くことにどれほどの意味があるかと自問せざるを得ない日々が続いた。同時にサルトルの「飢えた子の前で、文学は意味があるか」という言葉が浮かんできた。日本が一刻も早く「衣食足りて礼節を知る」状態に復帰し、文化の享受が可能になることをことを願ってやまない。

海炭市叙景  佐藤泰志  小学館文庫

2011-03-06 21:12:49 | Weblog
 佐藤は昭和24年(1949)函館生まれ。21歳で国学院大学に入学、それを機に上京し、卒業後は会社勤めをしながら小説を書き続け、何度か芥川賞の候補になったが受賞に至らず、平成2年(1990)、41歳の若さで妻子を残して自殺。その原因は不明。『海炭市叙景』は1988年から文芸誌『すばる』に断続的に発表された18のストーリーを集めたもの。これまでの私小説とは違い、市井の人々を描く群像劇という新境地を開いたと解説にある。読むと函館と思しき田舎のわびしい町に住む人間の生活が描かれており、どれかの話に感情移入できるようになっている。都市生活者の憂愁とは違った田舎のドロドロした、それでいて存在感のある人間が登場する。
 私が面白いと感じたのは、第二章の第1話の「まっとうな男」と第6話の「黒い森」だ。前者は50代の元炭鉱夫で、職業訓練校に通う寛二が飲酒運転をしてパトカーに捕まり、自分の金で買ったビールを飲んでどこが悪いと二人の警官に食ってかかる。その寛二の言い草が権力の象徴である警官を見事におちょくっていて爽快。結局頭がおかしいと病院に入院させられる。寛二の理屈は俗世間の論理とは齟齬をきたしているが、それなりに筋が通っている。中高年で無職の寛二と安定した権力の座にいる警官との対比が面白い。警官には寛二の苦悩は到底理解できない。ここに階層性の問題が浮き彫りにされている。
 後者は市の職員でプラネタリウムに勤める隆三が妻の春代との不和に悩む話。二人は結婚してほぼ20年、高校生の息子がいる。春代は最近飲み屋で働き始め、週一回外泊するようになった。隆三は何とかして春代に飲み屋勤めをやめさせようと、時には暴力を振うが効果はない。逆に安月給をなじられ、偽物の星を子どもに見せてどんな意味があるのかと逆襲される。息子にとりなしを頼むが、責任回避だと息子にも馬鹿にされる。倦怠期の夫婦の姿が実に適切に描かれる。その中でかつて親子三人で昆虫採集をした町の中の森に日没後出かけ、かつて円満で希望にあふれていた時代を回想するが、何としたことか一瞬道に迷ってしまう。それは嘗ての森が伐採されて変容していたからだと悟る。夫婦関係が色あせることを、森の変容で表現し、さらに海炭市の衰退も言外に込めて、なかなか切れ味が鋭い。どう生きても人生という雰囲気が全編に横溢している。これだけの作品を書けるのにどうして自殺したのだろう。因みに、この小説の登場人物はだれも自殺していない。