本書は日本船舶振興会会長であった笹川良一の伝記である。生前財政界の黒幕と呼ばれ、毀誉褒貶の激しかった人物である。モーターボート競争(競艇)の生みの親として、また「世界は一家 人類みな兄弟」のメッセージをマスコミを通じて流し続けた人物として今も記憶に新しい。
笹川は明治32年5月4日、大阪府三島郡豊川村大字小野原(現在の箕面市小野原)の庄屋の長男として生まれた。小学校の同級生に文豪の川端康成がいるが、不遇の川端を笹川は陰に陽に助けたらしい。川端は成績優秀で、茨木中学から一高、東大へと進み、後にノーベル文学賞を受賞した。このエピソードは笹川の評価を押し上げる伏線として使われている。うまい。笹川は幼少期からその異相(目も鼻も耳も異様に大きい)と腕白(関西ではゴンタと呼ぶ)ぶりで有名だった。上級学校へ進学できる頭と経済力がありながら、社会へ出ることが勉強だと高等小学校を終えて、二年間正念寺という寺で修行、その後各務原の航空第二大隊に陸軍工兵二等兵として配属される。その後良一22歳の時、父の死に遭い遺産相続。その資金で堂島の米相場に大枚を張り、二度に渡って大金を手に入れた。
金融恐慌の真っただ中で右翼運動に手を染め、「国粋大衆党」を立ちあげる。資金は相場で設けた金だ。自己資金で運動費をまかなった点が他の運動家と違うところだという著者の指摘がある。しかし、日常生活は極めて質素であった。政治運動の傍ら慈善・福祉事業(ライ病患者の救援など)にも関わり、家庭を顧みず、多彩な女性遍歴を重ねながら、天下国家、世のため人のために奔走し、挙句は戦犯として巣鴨プリズンに入れられた。笹川は東條など、A級戦犯とも近い関係で巣鴨における彼らの様子が非常に卑俗な形で描かれている。笹川の大物ぶりを描きたいという心情が国家の要人を相対化する書き方になったのだろうが、少しやり過ぎの感じがある。
今笹川を取り上げて「名誉回復」する意味は何か。最近のふがいない政治家に対する当てつけか?カリスマ待望か?まあそれは擱いても、92年の生涯をたどると大正・昭和の一側面を理解できた気がする。
笹川は明治32年5月4日、大阪府三島郡豊川村大字小野原(現在の箕面市小野原)の庄屋の長男として生まれた。小学校の同級生に文豪の川端康成がいるが、不遇の川端を笹川は陰に陽に助けたらしい。川端は成績優秀で、茨木中学から一高、東大へと進み、後にノーベル文学賞を受賞した。このエピソードは笹川の評価を押し上げる伏線として使われている。うまい。笹川は幼少期からその異相(目も鼻も耳も異様に大きい)と腕白(関西ではゴンタと呼ぶ)ぶりで有名だった。上級学校へ進学できる頭と経済力がありながら、社会へ出ることが勉強だと高等小学校を終えて、二年間正念寺という寺で修行、その後各務原の航空第二大隊に陸軍工兵二等兵として配属される。その後良一22歳の時、父の死に遭い遺産相続。その資金で堂島の米相場に大枚を張り、二度に渡って大金を手に入れた。
金融恐慌の真っただ中で右翼運動に手を染め、「国粋大衆党」を立ちあげる。資金は相場で設けた金だ。自己資金で運動費をまかなった点が他の運動家と違うところだという著者の指摘がある。しかし、日常生活は極めて質素であった。政治運動の傍ら慈善・福祉事業(ライ病患者の救援など)にも関わり、家庭を顧みず、多彩な女性遍歴を重ねながら、天下国家、世のため人のために奔走し、挙句は戦犯として巣鴨プリズンに入れられた。笹川は東條など、A級戦犯とも近い関係で巣鴨における彼らの様子が非常に卑俗な形で描かれている。笹川の大物ぶりを描きたいという心情が国家の要人を相対化する書き方になったのだろうが、少しやり過ぎの感じがある。
今笹川を取り上げて「名誉回復」する意味は何か。最近のふがいない政治家に対する当てつけか?カリスマ待望か?まあそれは擱いても、92年の生涯をたどると大正・昭和の一側面を理解できた気がする。