慶喜の本格評伝。以前新書版の慶喜伝(新潮新書)があったが、今回370ページの大部である。江戸幕府最後の将軍はいわばクローザーで、どう幕引きをするかが問題だったが、結果的には大政奉還し、江戸無血開城と徳川家存続を果たしたことでその役割を果たした。この弁舌さわやかな貴公子はカリスマ性を十分に備えて英邁豪胆と評価すべき所と、肝心かなめの所で卑怯臆病の虫が湧いて出るという二面性を有していた。
鳥羽伏見の戦いで苦戦が伝えられると、臆病風を吹かせて江戸城に逃げ帰ったことは根性無しの面目躍如で、後世に名誉(汚点?)を残すことになった。この件に関して著者は言う、「幕末政治家としての慶喜の行跡を全面的にたどって見たうえで物をいえば、政治的生涯の結末近くで冒したたった一回の戦術選択のミス(それはなるほど軍事的には決定的な誤謬だった)だけを取り上げて断罪したのでは、慶喜に対して余りに酷というものではないだろうか。筆者自身の、これまで慶喜に振ってきた史論の鞭はもうとうに折れている」と。著者はこのように慶喜をいとおしむが如き筆致で淡々と幕末の歴史を俯瞰して見せてくれる。穿った見方をすれば、著者自身が人生の黄昏時に際して慶喜を誉めて、大団円のうちに人生のエピローグにしたいのではないか。とにかく、幕府崩壊のプロセスの中で、それなりの役割を果たしたのが慶喜だったというのが本書の内容で、慶喜顕彰の書である。
後書きで、著者は現役世代の日本人は歴史を学ばない。政治家も民衆もそうだと批判している。彼らは歴史小説から得た知識を歴史と思い込み、それが正しいと信じ込んでいる。さらに小説を読むのはまだましで、テレビドラマ、とくにNHK大河ドラマが歴史小説を読む代わりをしている。一番顕著なのが明治維新の受け止め方。現代日本社会では、あらゆる政治家が競って明治維新の仮装劇、というよりコスプレを演じていると一刀両断に切り捨てている。著者によれば、民主党の「松下政経塾」出身という宣伝は、吉田松陰の「松下村塾」の焼き直し的パロディ、小沢一郎の西郷隆盛気取りは失笑もの、「日本維新の会」の「維新八策」はあからさまな坂本龍馬気取り、それが国民の支持を得るという事象の愚かしさ。これには司馬遼太郎の一連の歴史小説が歴史教科書の代わりに一種の大衆的歴史教育の役割を果たしたという見解は正しいと思う。小説はフイクションであるから真の歴史とは大きな距離があることは確かだ。
鳥羽伏見の戦いで苦戦が伝えられると、臆病風を吹かせて江戸城に逃げ帰ったことは根性無しの面目躍如で、後世に名誉(汚点?)を残すことになった。この件に関して著者は言う、「幕末政治家としての慶喜の行跡を全面的にたどって見たうえで物をいえば、政治的生涯の結末近くで冒したたった一回の戦術選択のミス(それはなるほど軍事的には決定的な誤謬だった)だけを取り上げて断罪したのでは、慶喜に対して余りに酷というものではないだろうか。筆者自身の、これまで慶喜に振ってきた史論の鞭はもうとうに折れている」と。著者はこのように慶喜をいとおしむが如き筆致で淡々と幕末の歴史を俯瞰して見せてくれる。穿った見方をすれば、著者自身が人生の黄昏時に際して慶喜を誉めて、大団円のうちに人生のエピローグにしたいのではないか。とにかく、幕府崩壊のプロセスの中で、それなりの役割を果たしたのが慶喜だったというのが本書の内容で、慶喜顕彰の書である。
後書きで、著者は現役世代の日本人は歴史を学ばない。政治家も民衆もそうだと批判している。彼らは歴史小説から得た知識を歴史と思い込み、それが正しいと信じ込んでいる。さらに小説を読むのはまだましで、テレビドラマ、とくにNHK大河ドラマが歴史小説を読む代わりをしている。一番顕著なのが明治維新の受け止め方。現代日本社会では、あらゆる政治家が競って明治維新の仮装劇、というよりコスプレを演じていると一刀両断に切り捨てている。著者によれば、民主党の「松下政経塾」出身という宣伝は、吉田松陰の「松下村塾」の焼き直し的パロディ、小沢一郎の西郷隆盛気取りは失笑もの、「日本維新の会」の「維新八策」はあからさまな坂本龍馬気取り、それが国民の支持を得るという事象の愚かしさ。これには司馬遼太郎の一連の歴史小説が歴史教科書の代わりに一種の大衆的歴史教育の役割を果たしたという見解は正しいと思う。小説はフイクションであるから真の歴史とは大きな距離があることは確かだ。