読書日記

いろいろな本のレビュー

ナチスのキッチン 藤原辰史 水声社

2018-03-27 10:13:58 | Weblog
 台所は一家の食事を作る大事な場所である。貧富の差に関わらず、食事は生存の基盤であり、これなしには生きていけない。またこの食事を作るのは、今まで多くは主婦の仕事として認識され、その労働量は家事の中でも比重が大きかった。かつての大家族の食事を賄う主婦の負担は非常に大きかったといえるだろう。その意味から台所は家の中でも非常に重要な空間だと言える。
 本書はその台所が社会とどういう関係性を持つのかというテーマで、主にドイツの現代の一時期(1919年~1945年)について述べたものだ。台所での労働を軽減するための調理の合理化の方策として、システムキッチンを編み出したのは、ドイツ人の機能重視の国民性からすると必然の流れであった。それを後押ししたのが、1911年にアメリカのフレデリック・ウインスロー・テイラーが発表した『科学的管理法の原理』というハンドブックであった。労働者に最大限の能率を発揮させることが、雇用者と被雇用者双方にとって幸福であるという考えに基づいていており、テーラー主義と言われている。要点は、「科学を重んじ、目分量をやめよ。協調を重んじ、不和をやめよ。協力を重んじ、個人主義をやめよ。生産の最大化を目指し、生産の制限をやめよ。それぞれの人間の発達がその最大の能率と繁栄をもたらす」というもので、トヨタ方式の源流に当たるものだ。これをドイツの台所の機能化に応用したのが、農学者のゲオルグ・デーリッツキであった。この大きな流れのなかで、調理道具のテクノロジー化、レシピや家政学の発達を経て、台所が国を支える重要な空間だということが為政者によって喧伝されていく。これがナチス時代に顕著になる。ヒトラーは生存圏確保を至上命題として他国への侵略を正当化したが、それは自国内に「無駄をなくせ運動」や「食糧生産援助運動」などを巻き起こした。前者は「アイントプフの日」の設定として具現化した。「アイントプフ」とは大きな鍋で作るごった煮料理で、質素・倹約の実践である。後者は残飯で豚育てるという食糧の確保を目的にしたものだ。
 このように食のあり方が私的空間から公的空間に拡げられていった。「身体は国家のもの! 身体は総統のもの!健康は義務である!食は自分のものだけではない!」というスローガンのもとに国民はつねに監視の目にさらされるようになった。そして台所は国家とダイレクトに繋がる空間になった。「勤勉な主婦であれば、食べ物をけっして無駄にしない」という文句が「無駄をなくせ運動」の「闘争十カ条」に書かれており、主婦は国家を意識して生活せよというメッセージを常に意識せざるを得なくなったのである。逆に言えば、国家権力がいかに大きかったかという証左でもある。本書は、生存圏確保というヒトラーの誇大妄想によって国民の台所が国家の支配支配を受けていくプロセスを豊富な資料をもとに描いており、民衆をいかに手なずけていくかというナチスの巧妙な策略を白日のもとにさらした力作である。

野中広務 差別と権力 魚住昭 講談社文庫

2018-03-22 09:12:39 | Weblog
 本書は2004年の単行本を文庫にしたもの。野中氏は元自民党の幹事長で、2003年に政界を引退したが、最近他界された。文庫での再刊はそれを記念してのことだろう。彼は京都府船井郡園部町(現・南丹市)の地区に生まれ、旧制園部中学を出て、国鉄社員となった。職場で頭角を現すに連れて、ねたみを受けて出自を理由に理不尽な差別を受け、その後、政界に転出し、園部町長、京都府会議員、京都府副知事、を経て衆議院議員になった。その後、自治大臣、国家公安委員長、内閣官房長官、沖縄開発庁長官を経て自民党幹事長になり、首相の座も近かったがその任にあらずと引退した。本書は差別を受けながらも権力の座に就いた野中氏の事跡とひととなりを時系列で追ったもので、細かいところまで取材しているので読み応えがあった。
 野中氏の手法は、政敵に対して冷酷で権謀術数を弄して打ち倒すというものだが、社会的弱者にに対してはしっかりと救いの手を差し伸べるというもので、これは自身の被差別体験が投影していると言ってよい。
 本書で一番印象的だったのは、2003年9月21日の野中氏最後の自民党の総務会での発言だ。以下引用。「総務会長、この発言は、私の最後の発言と肝に銘じて申し上げます」と断って、山崎拓の女性スキャンダルに触れた後で、政調会長の麻生のほうに顔を向けた。「総務大臣に予定されていおる麻生政調会長。あなたは大勇会の会合で『野中のような出身者を日本の総理にはできないわなあ』とおっしゃった。そのことを、私は大勇会の三人のメンバーに確認しました。君のような人間が我が党の政策をやり、これから大臣のポストに就いていく。こんなことで人権啓発なんてできようはずがないんだ。私は絶対に許さん!」野中の激しい言葉に総務会の空気は凍りついた。麻生は何も答えず、顔を真っ赤にしてうつむいたままだった。引用以上。
 麻生とは現財務大臣麻生太郎氏である。以前、森首相の後任に野中幹事長の名があがっていた時、大勇会(河野グループ)の会合で野中氏の名前をあげながらの発言であったようだ。麻生氏は吉田茂の孫で、麻生セメントの社長を経て政界に転じた人物。自分の出自の良さを鼻にかけた発言で、普通なら運動団体が出てきて糾弾会が開催されるほどの重大事件だ。その人物が今、財務省の書類書き換え問題で、部下の佐川国税庁長官を、「佐川、佐川」と呼び捨てにして、その傲岸不遜な記者会見がメディアの批判を買っている。いみじくも野中氏の発言は現政権の体質を予見するもので、これだけをもってしても、野中氏は並みの政治家ではなかったことが分かる。
 来週、佐川元国税庁長官の証人喚問が行なわれるが、佐川氏はいわば安倍政権の犠牲者で、下手をすると権力の側で裁かれる危惧もある。森友問題で、関係書類は廃棄したといって問題終結を図った佐川氏をその論功行賞として「適材適所」と国税庁長官に任命しておきながら、関係書類が改竄されていたことが分かると、一転、責任は佐川にあると言いだして、結局彼は辞任・辞職せざるを得なくなった。苦労人佐川氏(中学三年で父親を亡くし、その後苦学して東大から大蔵省へ)をどうするのか。人身御供にだけはするべきではない。現政権の人権感覚が問われる局面である。

日本の聖域 ザ・タブー 「選択」編集部 新潮文庫

2018-03-12 15:47:40 | Weblog
 「選択」とは通信販売の会員制月刊誌で、辛口の社会時評が売りだ。最近新潮文庫から出ているのを本屋で見て、「クライシス」と「タブー」の二冊を買い求めた。本書「タブー」で取り上げられているのは、理化学研究所、東宮、学習院、国立がんセンター、日本体育教会、スポーツマフイア電通、自民党東京都連、公安警察等々、利権が絡む団体や正体不明の団体の実相を暴き出している。その中で、個人的になるほどと思ったのが、第三部 「欲望に勝るものはない」のなかの、私大と新聞の「異様な関係」の記事だ。子どもの数がどんどん減少して「大学全入」が叫ばれているのに、私立大学の新設は後を絶たない。だいたい、大学経営は実業界で名を成してお金を持っている学歴のない社長が、名誉のためにやる例が多い。傍から見ると、名もない大学を経営してもメリットがないと思うのだが、これだけ新設されるということは、何かメリットがあるのだろう。そして大学新設は文部科学省の役人にとっては、天下り先が増えて一石二鳥なのはよくわかる。しかし、新聞社がこれとどういう関係があるのかわからなかったが、新設大学の広告に一役買って、その関係で新聞記者が退職後、その大学の教員におさまるという構図ができていると知って腑に落ちた。そう言えば、入試のシーズンになると、複数の私立大学の広告が出る。その前のシーズンはオープンキャンパスの広告と、ほぼ一年中と言っていい。
 この広報を支えているのが、高校の進路指導室を訪れる元校長である。高校の校長は60歳で定年だが、近年、年金の支給が62歳になったので、校長といえども苦しい生活を強いられる。そこで再就職先として大学の入試課に雇ってもらい、進路指導室にパンフレットを持って説明に行く日々を過ごすわけである。これが嫌な者は、平教員に戻って、週5日働くことになる。中には担任を持つ者もいる。それなら最初から校長なんかにならなければいいのにと私などは思ってしまうのだが、そこは個人の価値観なので何ともコメントできない。大相撲でいうと元小結が十両で相撲を取るようなものである。彼らにはもはや元校長というプライドはない。もちろん平教員も校長を尊敬するということはない(私の経験から)。昨今の年金事情はことほど左様に厳しいのである。校長時代に威張っていた者は、もちろん平教員になって再任用ということはない。今度は現場の逆襲が待っているからだ。聞くところによると、校長は教育委員会に逆らわない限り、無事務めを果たせば、(卒業式の日の丸、君が代)再就職先を斡旋してもらえるようだ。そこで普通の校長は進路指導室回りをすることになる。これもささやかな天下りと言えよう。教育委員会が文部省に相当するわけだ。
 世間では天下り禁止と言っているが、高齢化の時代においては、高級官僚のえげつない税金泥棒の例を除けば、そう神経質になることはないと思う。小市民の天下りは罪がない。先ほどの新聞記者が三流新設大学教授になっても、多分授業が成り立たないのではないか。私語に飲食(ある大学では先生がせめて飲み物だけにしてものを食うなと注意したとか)、地獄の教室である。そのストレスで早期退職となるのは目に見えている。世の中そううまくいくわけがない。

悪について エーリッヒ・フロム ちくま学芸文庫

2018-03-02 08:52:05 | Weblog
 人間に巣食う悪の正体とは何か。古来議論のある問題をフロム流の手法で分析している。人間の心は善か悪かという問題については、夙に中国古代の思想家・孟子が性善説を、荀子が性悪説を唱えている。孟子は人間の心の善なるものはアプリ・オリに存在しており、そういう人間だけが学問をする資格があるという考え方である。一方荀子は人間の本性は悪であるがゆえに、これを克服するために学問をするのだと説いた。いずれも学問を実践するための方法論の一環だったと言える。近代になって人間の心は善と悪が共存しており、そのどちらが強く出るかによって、善人か悪人かがきまるという考え方が一般的になってきた。例えば「ジキル博士とハイド氏」のように。キリスト教は、人間の罪をイエスが一身に背負って死んだということで、イエスに対する贖罪としての信仰を旨とするが、人間の心の善と悪についてはそれほど議論されていない。
 フロムは二つのキーワードをもとに議論を展開する。一つは、ネクロフイリア(死を愛すること)で、もう一つはバイオフイリア(生を愛すること)である。この二つのうちネクロフイリアは死と親和性を持つことで人命の軽視につながり、人を殺しても何の痛痒も感じなくなっていく。ヒトラーやスターリンはこの典型で、あれだけの大量殺戮を犯してしまったのだとフロムは言う。これに対してバイオフイリアは人の命を愛するがゆえに悪を抑える役割を果たす。フロムは実際ユダヤ人としてヒトラーの迫害を受けたためにアメリカに亡命した。この経験からヒトラーの心に巣食う悪の本質を暴こうとした。『破壊(人間性の解剖)上・下』(紀伊国屋書店)がそれである。またこの独裁者に操られるようにひれ伏したドイツ国民のメンタリティーを分析した『自由からの逃走』(東京創元社)がある。自由の重荷に耐えられなくなった民衆が、自律の苦しさよりは服従の安逸に流れていくことを述べたものだ。これを支えたのが下層中産階級だという。今のアメリカの大統領を見ていると、下層中産階級というのは民主主義の死命を制する存在であることが実感できる。ナチス・ドイツを研究することは民主主義を考えるうえでも意味がある。
 フロムは言う、悪とはヒューマニズムの重荷から逃れようとする悲劇的な試みの中で、自分を失うことである。そして悪の潜在力がますます増大するのは、人間には想像力が与えられているために、悪のあらゆる可能性が想像でき、それに基づく欲望と行動を起こし、悪の想像をかきたてるからだと。
 自分を見失って、悪の想像力をかきたてるとき、人間は破滅の第一歩を歩み出す。フロムはナルシシズムもネクロフイリアを誘引すると言っている。それはヒトラーの演説を見ればそれを実感できる。