読書日記

いろいろな本のレビュー

お姫様は「幕末・明治」をどう生きたのか 河合 敦  扶桑社文庫

2023-03-29 11:12:38 | Weblog
 『殿様は「明治」をどう生きたのか1・2』の続編で、今回は将軍家や大名家、公家などの子女たちが明治維新をどう迎えたのかという話題である。このシリーズは結構面白くて教科書では書かれていない話題が豊富に示される。それぞれの人物の写真が添えられているのもうれしい。薩摩藩から十三代将軍家定に嫁いだ篤姫、十四代将軍家茂の正室となった和宮、有栖川宮家から水戸藩嫁ぎ慶喜を産んだ吉子女王。さらに戊辰戦争で命をかけて逃げざるを得なかった二本松藩正室の丹羽久子や北海道に渡り辛酸をなめ「開拓の母」と呼ばれるようになった亘理伊達家の伊達保子など徳川260年の終焉をどう生きたかが描かれている。殿様も大変だったが、奥様も苦労したという話はまとめて聞く機会が少ないので貴重だ。

 以前、この欄で徳川十五代将軍慶喜のことを「最後の将軍」(司馬遼太郎)で取り上げた縁で、彼の正室と側室について述べてみよう。司馬氏は慶喜を無類の漁色家と断じていたが、それを裏付ける記述が本書にある。彼の正室は徳川美賀子といい、関白一条忠香の養女で、結婚した時、慶喜19歳、美賀子21歳であった。夫婦仲はよいとは言えず、慶喜との間には子供は育たなかった。結局明治27年(1894)59歳のとき乳がんで亡くなった。こういう状況下で慶喜の静岡時代には二人の側室がいた。一人は一橋家の用人の養女であった新村信、もう一人は旗本中根芳三郎の娘の中根幸である。ちなみに静岡以前にはもう一人新門芳という女性がいた。彼女は江戸町火消のリーダーで、侠客としても知られる新門辰五郎の娘だったが鳥羽伏見の戦いの後慶喜が江戸へ船で逃亡する際、静岡までは同道したがその後の消息は分からない。この二人の側室に慶喜は十人以上の子を産ませている。側室には子供が授からなかった反動といえようか。

 慶喜のこうした子作りに励む生活はまさに野生動物もびっくりの本能至上主義といえるだろう。母体保護のための産児制限云々ははなから頭にはない。貴人の特権といえばそれまでだが、近代以前の結婚には子作りによって家を継承していくことがが大きな課題であったことがわかる。そのために一夫多妻の結婚形態が許されていた。近代以降民主主義国家では一夫多妻は消えて新しい夫婦関係が生まれてきた。男女同権により女性の社会参加が普通になり、男女を区別することさえ憚らる世相だ。こうなれば少子化が進むことは必然で、異次元の少子化対策を打っても基本的に無理だろう。アフリカのサバンナに生きる野生動物を見るとよくわかるが、強い雄が雌を支配して、本能の従うままに生殖行動をする。その結果、種の保存が行われ、子孫が生き延びていく。この単純な理屈でアフリカのサバンナは多くの野生動物で埋め尽くされている。命の賛歌である。

 この野生のエネルギーを極力削っていったのが、文明社会である。生殖が本能だったものが今や文化になりつつある。オスとメスの関係性が洗練化されていくと必然的に少子化となる。こうなると現行の結婚制度が見直される必要があるだろう。女性の卵子を冷凍保存して結婚せずとも子供が産めるというような形態になっていくのではないか。それは少し寂しい気がするが、、、、。男女関係が文化的に洗練されればされるほど、子供の数は少なくなる。このジレンマをどう解決するのか。難しい問題である。

大塩平八郎の乱 薮田 貫 中公新書

2023-03-02 10:51:38 | Weblog
 副題は「幕府を震撼させた武装蜂起の真相」。大坂東町奉行の元与力であった大塩平八郎が民が飢饉で苦しむ中、役人や商人が我欲を優先して民を救済しようとしないことに憤慨して武装蜂起したが、一日で鎮圧されたというのが教科書的説明だが、本書は決起までとその後が詳細に書かれている。戦国時代の武装蜂起というのであれば、武将と武将が国盗り合戦のために命のやり取りをする図式で分かりやすい。しかし大塩平八郎の乱は戦争とは無縁の江戸時代末、しかも元与力という警察権力の一翼を担った人間の反乱であるから衝撃は大きかったであろう。

 大塩は寛政五年(1793) 大坂天満に生まれ、14歳で大坂東町奉行所に出仕し25歳で与力となる。今まで知らなかったが、与力は奉行所の中枢を掌握する実力者であり、世襲が普通で、その配下にそれぞれ数人の同心を持っていたらしい。大塩は文政七年(1824) 31歳の時、自宅に先心洞という陽明学の塾を開いたが、それは敷地500坪の屋敷の一角に作られていた。これを見ても与力の権力の大きさがわかる。そして文政十三年(1830) 与力を辞して養子の格之助に跡目を譲った。隠居後は学業に専念して、陽明学者佐藤一斎とは面会したことはないが、頻繁に書簡を交わした。陽明学では「知行合一」を説くが、これが蜂起の理論的主柱であったものと思われる。

 大塩の現役時代の働きぶりを表すのが「三大功績」である。これは大塩が自分でなずけたものだが、その内訳は 1 組違いの同僚である西町奉行与力・弓削新左衛門の汚職を内部告発、2 切支丹の摘発、3 破戒僧の摘発である。本書を読むとその詳細がわかる。どの事案についても正義感の強い大塩の性格が表れており、「魚心あれば水心」とは無縁の厳しさで摘発している。昨今の組織内における内部告発はなかなか成功率が低いが、大塩は果断に実行している。逆にいうと、当時の奉行所の賄賂等の腐敗はひどかったということだ。

 そんな中、大塩は天保の大飢饉で大坂の民衆が飢餓にあえいでいることに心を痛め、東町奉行跡部良弼に倉米を民に与えることや豪商に買い占めを止めさせるなど米価安定の様々な検索を行ったが、全く聞き入れられなかった。この跡部良弼という人物、全くの俗物で大塩の怒りに火をつけてしまった。これが蜂起につながった。大塩は奉行所や塾の関係者を仲間に入れて大砲まで用意して蜂起のタイミングを計っていたが、檄文の印刷も事前に露見しないように刷り方を工夫していた。また蜂起の前夜に徳川幕府の老中に建議書を送って蜂起の趣旨を知らせている。このように学者としての段取りを踏まえたうえでの行動だったが事前の密告に遭いタイミングがずれてしまった。大砲で大坂の町は火の海になったが、反乱は一日で制圧された。大塩は事件後40日余り後、息子の格之助とともに自決した。警察官僚で学者であった大塩の行動は、現代社会に生きるわれわれに多くの問題提起をしている。

 組織内の地位利用による収賄、権力を握るための贈賄、商人の富の独占と政治家との癒着、貧困にあえぐ町民・農民。この現状を打ち破ろうとしたのが、陽明学徒で元与力(警察官僚)の大塩だった。現代の警察官僚は体制権力に逆らうことをご法度としている故、反乱は困難。学者・思想家も武力を有する者に思想的影響を与えることはできるが自身はで抗争するすべを持たない。すると政党による革命ということになるが、そうすると100年前の共産主義革命に戻ってしまう。その結果はソ連崩壊と現中国共産党の腐敗で、これはないとわかってしまった。さて今の日本をどうする。