副題は「倭の五王から遣唐使以降まで」で、この時期の日中の関係について詳しい説明がなされており、日本史教科書の記述に変更を迫る見解がいくつもあって面白い。従来は中国側の日本に対する外交の具体的な説明は少なかったが、著者は『晋書』『宋書』『隋書』『旧唐書』『新唐書』などの中国の正史を始め、『続高僧伝』『唐会要』などの原典から倭国との関連記事を抜き出して検討を加えているところがよい。
例えば607年に日本は隋の煬帝に「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す。恙無きや」云々で名高い書状を送った。この項の後に、「帝之を覧て悦ばず」とあり、煬帝は自分を「日没する処の天子」と言われたことに怒ったのだ、これによって日本は中国と対等の関係を築く意志を表明したのだという通説に対して疑義を呈する。まず、「日出処」「日没処」は単に東西を意味する表現に過ぎないという。(東野治之氏の説を引用)そして「天子」は「菩薩天子」のことで、中国の仏教を主宰する煬帝を賛美したもので、倭国としてもこれにあやかって仏教の移入に力を入れたいという願望を述べたのだが、まだ仏教伝播が不十分な倭の王が菩薩天子を名乗るのはおこがましいと言って、帝が怒ったのだという。そして「書を致す」という形式は、南北朝時代以来、中国では私信に多く用いられた文書形式で、国名・君主号すら記さない、「日出処天子」の書状は、国家から国家へと送られる公的な文書ではなく、私的な書状だった可能性があり、公的なものは他にあったということだ。よって倭国の書状の構成は、対等外交説の決定的な証拠とはなりがたいと断じている。
また、663年の唐・新羅と百済・日本の軍隊が白村江で戦い、日本は敗れ、百済は滅亡という事件があったが(天智天皇の時代)、この後日本国内では天武~持統~文武天皇と変わるなかで、対外防備用の山城の築城し、律令国家体制の完成を急ぎ、701年の大宝律令の発布で完成した。
この辺の事情を茂木誠氏は近著『戦争と平和の世界史』(TAC出版)で次のように言っている、「その後、国号を「倭国」から「日本国」に改め、翌702年に再開された遣唐使が初めて唐に対して「日本国」の国号を使ったところ、唐の則天武后は「倭王ごときが無礼である」と不快感を表したが、そのままになった。白村江の戦いと壬申の乱はいわば「日本国を誕生させた戦い」ということができ、白村江の戦いは軍事的には大敗だったが、その後の国際情勢の急変、天武天皇の巧みな外交によって、唐による占領を免れ、中華帝国からの完全独立を達成した」と。誠に明快な説明で、予備校の先生らしい、歴史のダイナミズムを感じさせる記述だが、河上氏によると、七世紀の東アジアでは、「日本」は、中国から見た極東を指す一般的な表現に過ぎず、この日本を国号に用いることは、中国を中心とした世界観を受け入れることになる。
つまり「日本」とは、唐(周)を中心とする国際秩序に、極東から参加する一国という立場を明示する国号であった。(東野治之氏の説を引用)そして「日本」は国号の変更を申し出て、それを則天武后が承認した。朝貢国であるからには、国号を勝手に変更することはできない。そのため、皇帝の裁可を仰いだのである。ここに、中華たる唐(周)に朝貢する「日本」という図式が定まる。決して唐への対等、優越を主張するためではなかった。都城を完成させ、律令制を整備した日本が目指したのは、唐が主宰する世界秩序下への参入であった。朝鮮半島での戦闘を皇后の座から見守った則天武后は、日本の朝貢使にことのほか喜んだとある。
茂木氏の説とは真逆の結論になっているのが面白い。ナショナリズム喚起という点から言うと、茂木氏の説は有力だが、史料重視の天から言うと、河上氏の説ということになるのか。いずれにしても15回の遣唐使の中身をみると、唐は日本の宗主国であることは間違いがなく、仏教の伝来に際しては多くの学僧が唐に留学して貢献したことは確かだ。(最澄、空海など)また唐は唐で仏教の普及については抵抗があったことも確かで、中唐の韓愈などは「論仏骨表」を憲宗に奉って極諌した結果、逆鱗に触れ左遷された。韓愈は仏教・道教を批判して儒教を重んじるべきと行ったのである。この唐における仏教と儒教・道教のせめぎあいに遣唐使の学僧がどう感じたかということが分かればさらに面白くなるのではないか。
例えば607年に日本は隋の煬帝に「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す。恙無きや」云々で名高い書状を送った。この項の後に、「帝之を覧て悦ばず」とあり、煬帝は自分を「日没する処の天子」と言われたことに怒ったのだ、これによって日本は中国と対等の関係を築く意志を表明したのだという通説に対して疑義を呈する。まず、「日出処」「日没処」は単に東西を意味する表現に過ぎないという。(東野治之氏の説を引用)そして「天子」は「菩薩天子」のことで、中国の仏教を主宰する煬帝を賛美したもので、倭国としてもこれにあやかって仏教の移入に力を入れたいという願望を述べたのだが、まだ仏教伝播が不十分な倭の王が菩薩天子を名乗るのはおこがましいと言って、帝が怒ったのだという。そして「書を致す」という形式は、南北朝時代以来、中国では私信に多く用いられた文書形式で、国名・君主号すら記さない、「日出処天子」の書状は、国家から国家へと送られる公的な文書ではなく、私的な書状だった可能性があり、公的なものは他にあったということだ。よって倭国の書状の構成は、対等外交説の決定的な証拠とはなりがたいと断じている。
また、663年の唐・新羅と百済・日本の軍隊が白村江で戦い、日本は敗れ、百済は滅亡という事件があったが(天智天皇の時代)、この後日本国内では天武~持統~文武天皇と変わるなかで、対外防備用の山城の築城し、律令国家体制の完成を急ぎ、701年の大宝律令の発布で完成した。
この辺の事情を茂木誠氏は近著『戦争と平和の世界史』(TAC出版)で次のように言っている、「その後、国号を「倭国」から「日本国」に改め、翌702年に再開された遣唐使が初めて唐に対して「日本国」の国号を使ったところ、唐の則天武后は「倭王ごときが無礼である」と不快感を表したが、そのままになった。白村江の戦いと壬申の乱はいわば「日本国を誕生させた戦い」ということができ、白村江の戦いは軍事的には大敗だったが、その後の国際情勢の急変、天武天皇の巧みな外交によって、唐による占領を免れ、中華帝国からの完全独立を達成した」と。誠に明快な説明で、予備校の先生らしい、歴史のダイナミズムを感じさせる記述だが、河上氏によると、七世紀の東アジアでは、「日本」は、中国から見た極東を指す一般的な表現に過ぎず、この日本を国号に用いることは、中国を中心とした世界観を受け入れることになる。
つまり「日本」とは、唐(周)を中心とする国際秩序に、極東から参加する一国という立場を明示する国号であった。(東野治之氏の説を引用)そして「日本」は国号の変更を申し出て、それを則天武后が承認した。朝貢国であるからには、国号を勝手に変更することはできない。そのため、皇帝の裁可を仰いだのである。ここに、中華たる唐(周)に朝貢する「日本」という図式が定まる。決して唐への対等、優越を主張するためではなかった。都城を完成させ、律令制を整備した日本が目指したのは、唐が主宰する世界秩序下への参入であった。朝鮮半島での戦闘を皇后の座から見守った則天武后は、日本の朝貢使にことのほか喜んだとある。
茂木氏の説とは真逆の結論になっているのが面白い。ナショナリズム喚起という点から言うと、茂木氏の説は有力だが、史料重視の天から言うと、河上氏の説ということになるのか。いずれにしても15回の遣唐使の中身をみると、唐は日本の宗主国であることは間違いがなく、仏教の伝来に際しては多くの学僧が唐に留学して貢献したことは確かだ。(最澄、空海など)また唐は唐で仏教の普及については抵抗があったことも確かで、中唐の韓愈などは「論仏骨表」を憲宗に奉って極諌した結果、逆鱗に触れ左遷された。韓愈は仏教・道教を批判して儒教を重んじるべきと行ったのである。この唐における仏教と儒教・道教のせめぎあいに遣唐使の学僧がどう感じたかということが分かればさらに面白くなるのではないか。