柳の下のドジョウを狙った第二弾。加地先生の舌鋒はますます冴えわたる。基本は右派による左派批判だが、エセインテリを指弾するという趣が強いので溜飲を下げる読者も多いのではないか。「列伝」と言えば、司馬遷の『史記』を連想するが、本書は「偽善者」という修飾語が付いているので、本人の事跡を顕彰するのではなく批判することになる。政治家については立場がはっきりしているので、ある程度文脈の予想がつく。面白いのは文化人を扱ったものだ。今回は、第二章の見識なきメディア芸者のなかの・自称「教養人」の虚像ーー出口治明の言説と・儒教知らずインテリの典型--柄谷行人の言説が個人的に興味深かった。
出口氏はもと大手生命保険会社の管理職を経て、現在某生命保険会社の会長をしているエリートである。趣味は読書で、最近世界史の蘊蓄を傾けた本を出したり、書評を出したりと学者顔負けの活躍ぶりだ。私は彼の著作を読んでいないので評価はできないが、そんなに騒がれるほどの人だろうかと思っていたところに、加地先生の本に登場されたという次第。中身は出口氏がある雑誌で担当していたコラム「悩みの出口」で「親の借金を子どもの自分が返済しなければならないが、給料が安いので困っている」という相談に対する答えに対する批判である。その答えとは、「親に自己破産させて、公的保障に頼ればよい。家族が苦労すべきではない。親孝行というのは学者に言わせれば、それは人為的に作り出された家族に関する虚像です」というもの。儒教研究の泰斗である先生の怒りが爆発した。「民法には直系の血族及び兄弟姉妹は、互いに扶養する義務があると書いてある。これを知らないのか」と。また「学者に言わせれば」というが、どの「学者」が言っているのか明記せよ。親孝行の「孝」が「虚像」とは、バカもやすみやすみ言え。私の本を読んでから言えと。まったく逆鱗に触れたという感じだ。先生曰く、「彼はエリートで、あちこちで教養を教養をとわめいている。しかし、その所説は無知で野卑。見識などまったく見られない。これが世の教養人なるものなのか。哀れよのう」と。そして最後にアフオリズム風の漢文の一節が引用される。「古人曰く、賢を行はんとして、自から賢とするの心を去らば、いづくんぞ往きて(どういう場合でも)美ならざらんや」と。(『韓非子』説林上)儒教関係でいい加減なことを言うとこのような結果となる。
柄谷氏の場合は岩波書店の『図書』(2016年7月号)所載の「固有信仰と普遍宗教」の一節の「儒教では、親孝行が説かれ、天(超越者)を敬うことが説かれる。しかし、それらが本来、祖霊の信仰に根ざしていることは明示されないし、深く考えられていない」という部分。「こんなもの四書五経を読めばちゃんと書いてあるわ」と一蹴(四書五経は誰でも読めるというものではないが)している。そして最後に、柄谷某や多くの宗教関係発言者は柳田國男著『先祖の話』を金貨玉条としているが、同著が説得力を持たないのは、儒教の祖霊観に一言も触れていないからであると言う。この発言は短いが鋭い。最近柄谷氏は『世界史の実験』(岩波新書)を出したが、加地先生が批判した『図書』(2016年7月号)所載の一節はそのまま載せられている。加地先生のこの文章がどの雑誌に書かれたのか記載がないので事情がはっきりしないが、結果的に無視されたことになるだろう。岩波書店とお抱えの文化人は強いということか。ここにも格差問題が顕在化している。第三弾はここら辺を指弾してもらうと面白いだろう。なお、2019年3月30日の朝日新聞書評欄によると、出口氏は書評委員の一人で、肩書は立命館アジア太平洋大学学長となっていた。壮大な名前の大学の学長となればその権勢いかばかりかと推測されるが、生命保険会社の社長からどうやって転身したのか知りたいものだ。また柄谷氏も書評委員で、肩書は哲学者だ。
出口氏はもと大手生命保険会社の管理職を経て、現在某生命保険会社の会長をしているエリートである。趣味は読書で、最近世界史の蘊蓄を傾けた本を出したり、書評を出したりと学者顔負けの活躍ぶりだ。私は彼の著作を読んでいないので評価はできないが、そんなに騒がれるほどの人だろうかと思っていたところに、加地先生の本に登場されたという次第。中身は出口氏がある雑誌で担当していたコラム「悩みの出口」で「親の借金を子どもの自分が返済しなければならないが、給料が安いので困っている」という相談に対する答えに対する批判である。その答えとは、「親に自己破産させて、公的保障に頼ればよい。家族が苦労すべきではない。親孝行というのは学者に言わせれば、それは人為的に作り出された家族に関する虚像です」というもの。儒教研究の泰斗である先生の怒りが爆発した。「民法には直系の血族及び兄弟姉妹は、互いに扶養する義務があると書いてある。これを知らないのか」と。また「学者に言わせれば」というが、どの「学者」が言っているのか明記せよ。親孝行の「孝」が「虚像」とは、バカもやすみやすみ言え。私の本を読んでから言えと。まったく逆鱗に触れたという感じだ。先生曰く、「彼はエリートで、あちこちで教養を教養をとわめいている。しかし、その所説は無知で野卑。見識などまったく見られない。これが世の教養人なるものなのか。哀れよのう」と。そして最後にアフオリズム風の漢文の一節が引用される。「古人曰く、賢を行はんとして、自から賢とするの心を去らば、いづくんぞ往きて(どういう場合でも)美ならざらんや」と。(『韓非子』説林上)儒教関係でいい加減なことを言うとこのような結果となる。
柄谷氏の場合は岩波書店の『図書』(2016年7月号)所載の「固有信仰と普遍宗教」の一節の「儒教では、親孝行が説かれ、天(超越者)を敬うことが説かれる。しかし、それらが本来、祖霊の信仰に根ざしていることは明示されないし、深く考えられていない」という部分。「こんなもの四書五経を読めばちゃんと書いてあるわ」と一蹴(四書五経は誰でも読めるというものではないが)している。そして最後に、柄谷某や多くの宗教関係発言者は柳田國男著『先祖の話』を金貨玉条としているが、同著が説得力を持たないのは、儒教の祖霊観に一言も触れていないからであると言う。この発言は短いが鋭い。最近柄谷氏は『世界史の実験』(岩波新書)を出したが、加地先生が批判した『図書』(2016年7月号)所載の一節はそのまま載せられている。加地先生のこの文章がどの雑誌に書かれたのか記載がないので事情がはっきりしないが、結果的に無視されたことになるだろう。岩波書店とお抱えの文化人は強いということか。ここにも格差問題が顕在化している。第三弾はここら辺を指弾してもらうと面白いだろう。なお、2019年3月30日の朝日新聞書評欄によると、出口氏は書評委員の一人で、肩書は立命館アジア太平洋大学学長となっていた。壮大な名前の大学の学長となればその権勢いかばかりかと推測されるが、生命保険会社の社長からどうやって転身したのか知りたいものだ。また柄谷氏も書評委員で、肩書は哲学者だ。