蜘蛛の圍に蜂大穴をあけて遁ぐ 右城暮石
井川博年が、神田の古本屋で見つけたからと、戦後十年目に出た角川文庫版の歳時記を送ってくれた。現在の角川版に比べると、例句はむろんだが、項目建てもかなり違っている。たとえば掲句の季語「蜘蛛の圍(くものい)」も、いまでは「蜘蛛」の項目に吸収されているけれど、その歳時記には独立した項目として建てられている。それほど、まだ蜘蛛の巣がポピュラーだったわけだ。ついでに、解説を引いておこう。「蜘蛛そのものは決して愛らしい蟲ではないが、雨の玉をいつぱいちりばめて白く光つている網は美しい。風に破れた網は哀れな感じがする。つくりかけてゐる網を見てゐると迅速で巧緻なのに驚く」。掲句の句意は明瞭で、解説の必要はない。誰にでも思い当たる親しい光景だった。網を破られた蜘蛛がかわいそうだというのではなく、作者はむしろ微笑している。蜘蛛の巣はそれこそ「迅速に」何度でも再生できるので、心配する必要がないからだ。田舎での少年期には、蜘蛛の巣にはずいぶんとお世話になった。針金を円状にして竿の先に付け、こいつに蜘蛛の巣を巻き付けて蝉捕りをやった。まあ、蜘蛛の餌捕りの真似をしていたわけだ。油蝉などはたいていの蜂よりもよほど強力だから、句のような弱い網だと、簡単に遁(に)げられてしまう。だから、太くて粘着力の強い蜘蛛の巣を見つけるのが一苦労で、実際の蝉捕りより時間がかかることも多かった。やっと見つけて、慎重にくるくると巻き付ける感触には何とも言えない充実感を覚えたものだ。本当はこんなことがお釈迦様に知れるとまずいのだけれど、ま、いいか。『俳句歳時記・夏の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)
【蜘蛛】 くも
◇「蜘蛛の囲」(くものい) ◇「蜘蛛の巣」 ◇「蜘蛛の糸」 ◇「蜘蛛の子」 ◇「鬼蜘蛛」 ◇「女郎蜘蛛」 ◇「蠅虎」(はえとりぐも)
真正クモ目の節足動物の総称。昆虫の仲間ではない。精悍で不気味な虫である。種類が多く、日本には約千種いる。初夏に「蜘蛛の子を散らす」というたとえのように子蜘蛛が一斉に生まれる。雨の後など、きらきらと露が光っている蜘蛛の巣は美しい。「蠅虎」はハエトリグモ科の蜘蛛で、大きさは蝿ぐらい。徘徊し、網は張らない。巧みに走り回ったり飛び上がったりして、蝿や小さな昆虫類を敏捷に捕って食べる。
例句 作者
袋蜘蛛没日の音を聴いてゐる 市川千晶
われ病めり今宵一匹の蜘蛛を許さず 野沢節子
くもの糸一すぢよぎる百合の前 高野素十
親密を加へ蠅虎とわれ 粟津松彩子
蜘蛛の子の散りて袖振山は晴 藤田あけ烏
三人の晩餐蜘蛛に見られけり 大木あまり
いつも夜のわが辺に遊ぶ蝿虎 永方裕子
蜘蛛の子のはじめたのしき風の中 長谷川久々子