快気分析

何か快適な気分になれるような記事にしたいです。

自然災害 仕組みとアプローチ -  明応地震と井伊氏の所領 井伊谷

2017-02-26 21:06:58 | 地震 津波
 井伊一族の所領である井伊谷が、赤石構造帯と中央構造線に囲まれた交通の要所に近い事は以前の記事に書きましたが、これ以外にも井伊谷が交通の要所や産業の拠点に近い事が挙げられます。
 そうなった原因は南海トラフ地震とも言われる明応地震とその後に何度か発生した自然災害です。
 これによって浜名湖がどうなったかは次の通りです。

引用開始(一部抜粋)

http://www.hamana.net/shounai/rekisi/mizuumi.htm

平安時代 貞観4年
 (862) 浜名湖南端から太平洋に注ぐ浜名川河口に「浜名の橋」が架けられ古代東海道、東国方面への交通が確保される。
室町時代
明応7年
(1498) 地震津波により今切が出現、浜名湖は1部海と通じる。
明応8年
(1499) 暴風雨により遠州灘が高波高潮に見舞われ、天白原台地の高師山連峰の斜面が大雨によって山津波を引き起こし、浜名川の河口が埋まる。出口を失った水流は激流となって今切口より外海へ流れ出る。
永正7年
(1510) 暴風雨により今切口が広がる。浜名の橋、高波で破損、以後架橋されず。東西の交通は渡船に頼る。
永禄12年
(1569) 家康堀川城攻め落とす。堀江城主大沢基胤、家康に降伏する。
安土桃山時代
天正2年
(1574) 徳川家康、新居の船守に対し渡船定書を下す。
天正7年
(1579) 家康正妻、築山御前佐鳴湖岬にて斬殺38歳。
織田信長の命により家康の嫡子信康二俣城にて切腹、21才。
慶長5年
(1600) 徳川家康、今切の地に関所を設置する。
慶長6年
(1601) 徳川家康、本坂道の気賀に関所を設置する。
慶長7年
(1602) 徳川家康、今切渡船の運賃定める。
江戸時代
慶長9年
(1604) 徳川家康、東海、東北、北陸の3道に1里塚を築かせる。
(1里36町、1町を60間と定める)
元禄12年
(1699) 暴風雨により関所と新居宿が西方に移転、渡船距離が延びる。
宝永4年
(1707) 大地震により関所と新居宿現在地に移転。
渡船距離は約6kmに。本坂道(姫街道)を往来する人が増える。

引用終了

 まず明応地震で浜名湖が淡水域から汽水域になり、海に出られるようになった事と、汽水域は魚介類が豊富なので水産物による経済収益(米ではないが見えざる豊かな石高?)が大きくなった事があります。
 今切口周辺は潮流が速く三角波が立つ事もあるなど、今も海の難所の部類に入るようですから、16世紀なら船にはエンジンが無いわけですから尚更であり、港の機能としては限界があったのかも知れませんが、港湾整備などで遠い将来は大規模な港を作り水運の拠点とする事を考えた大名はきっといただろうと言う気はします。
 その後1510年の暴風雨により今切口が広がって浜名の橋、高波で破損、以後架橋されず、東西の交通は渡船に頼るようになると、陸路だけを使う場合は本坂道(姫街道)ルートになったようです。
 更に1707年からになりますが、大地震により関所と新居宿現在地に移転して渡船距離が約6kmになると、本坂道(姫街道)を往来する人が増える事になったとの事です。
 16世紀時点では未だ今切の渡船はかなり利用されていたようですが、それでも浜名湖北岸エリアの重要性が高まった事、それを今川氏、徳川氏共に認識していたのは確かだったと思われます。
 それと軍事上のルートとして、天候や潮流などに影響されやすく、見つかりやすい今切の渡船に依存するわけにはいかないケースもあるわけで、こうした浜名湖とその周辺の変化から、今川氏が井伊谷エリアに目をつけたとも見られ、領主である井伊家が混乱に巻き込まれた一つの要因だったのではないか、と筆者には思えます。