前田利家が信長から最初に与えられ、そして江戸時代末期まで前田家が守り続けられた能登地方ですが、ここは江戸時代まで海路の大動脈だったんですね。
今では太平洋ベルト地帯と海路では太平洋側の航路が日本の海路の主流ですが、その前提となるのは「エンジンを備えた機関船」の存在が有るからこそです。
江戸時代以前は帆船か手漕ぎ船。
とてもじゃないですが、そんな船なんかでは偏西風が主流の日本に於いて、多少の風向予想の誤り、多少の不運が有れば太平洋側だと簡単に太平洋の真ん中の方に流されてしまいます。
そして流されたら最後、稀に幸運にも伊豆、小笠原諸島などに流れつかなければハワイなどへ流されるはずで、とても生きていられないのが普通なのです。
となると安全性を考えれば日本海航路が主流となり、更に主流の偏西風で西に流されても日本海側の沿岸のどこかに辿り着く可能性が高いわけで、そうした時代では西航路と言う日本海側の航路が海路の大動脈なのでした。
その拠点の一つが能登地方。
北前船や北前航路などでネット検索すれば多々のデータが有るのがわかりますが、江戸時代より前の安土桃山時代、或いはその前の時代からでも同様に海路の大動脈で有り、能登地方が重要なエリアだった事に変わりはありません。
そんな能登地方を治めていた前田利家に対し、ほぼ太平洋側しか勢力圏にできていなかった家康では力の差が歴然であり、仮に前田利家、毛利輝元、小早川隆景(没後は宇喜多秀家)、上杉景勝らが連合を組んで大船団の水軍とそれを後ろ盾にする陸上部隊で日本海側から徳川方の勢力圏に攻め入った場合には、石高の合計比較だけで考えてもとても徳川勢に勝ち目は無かったはずです。
実際にそうした動きの兆候が全く無かったわけではありません。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E5%AE%B6
前田利家
(中略)
しかし、間もなく家康は亡き秀吉の法度を破り、伊達政宗・蜂須賀家政・福島正則と無断で婚姻政策を進めた。利家はこれに反発し、諸大名が家康・利家の両屋敷に集結する騒ぎとなった。利家には、毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家の三大老や五奉行の石田三成、また後に関ヶ原の戦いで家康方につくこととなる武断派の細川忠興・浅野幸長・加藤清正・加藤嘉明らが味方したが、2月2日に利家を含む四大老・五奉行の9人と家康とが誓紙を交換、さらに利家が家康のもとを訪問し、家康は利家の勧めで三成の屋敷がある伏見城治部少輔曲輪直下にある自身の屋敷から、対岸の向島城へ移ること等で和解した。
引用終了
結果として前田利家の体調が既に悪かったせいか、そうした「家康討伐」の中核になる事はありませんでした。
やはり前田利家の体調と寿命が日本の歴史を変えたのかも知れません。
今では太平洋ベルト地帯と海路では太平洋側の航路が日本の海路の主流ですが、その前提となるのは「エンジンを備えた機関船」の存在が有るからこそです。
江戸時代以前は帆船か手漕ぎ船。
とてもじゃないですが、そんな船なんかでは偏西風が主流の日本に於いて、多少の風向予想の誤り、多少の不運が有れば太平洋側だと簡単に太平洋の真ん中の方に流されてしまいます。
そして流されたら最後、稀に幸運にも伊豆、小笠原諸島などに流れつかなければハワイなどへ流されるはずで、とても生きていられないのが普通なのです。
となると安全性を考えれば日本海航路が主流となり、更に主流の偏西風で西に流されても日本海側の沿岸のどこかに辿り着く可能性が高いわけで、そうした時代では西航路と言う日本海側の航路が海路の大動脈なのでした。
その拠点の一つが能登地方。
北前船や北前航路などでネット検索すれば多々のデータが有るのがわかりますが、江戸時代より前の安土桃山時代、或いはその前の時代からでも同様に海路の大動脈で有り、能登地方が重要なエリアだった事に変わりはありません。
そんな能登地方を治めていた前田利家に対し、ほぼ太平洋側しか勢力圏にできていなかった家康では力の差が歴然であり、仮に前田利家、毛利輝元、小早川隆景(没後は宇喜多秀家)、上杉景勝らが連合を組んで大船団の水軍とそれを後ろ盾にする陸上部隊で日本海側から徳川方の勢力圏に攻め入った場合には、石高の合計比較だけで考えてもとても徳川勢に勝ち目は無かったはずです。
実際にそうした動きの兆候が全く無かったわけではありません。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E5%AE%B6
前田利家
(中略)
しかし、間もなく家康は亡き秀吉の法度を破り、伊達政宗・蜂須賀家政・福島正則と無断で婚姻政策を進めた。利家はこれに反発し、諸大名が家康・利家の両屋敷に集結する騒ぎとなった。利家には、毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家の三大老や五奉行の石田三成、また後に関ヶ原の戦いで家康方につくこととなる武断派の細川忠興・浅野幸長・加藤清正・加藤嘉明らが味方したが、2月2日に利家を含む四大老・五奉行の9人と家康とが誓紙を交換、さらに利家が家康のもとを訪問し、家康は利家の勧めで三成の屋敷がある伏見城治部少輔曲輪直下にある自身の屋敷から、対岸の向島城へ移ること等で和解した。
引用終了
結果として前田利家の体調が既に悪かったせいか、そうした「家康討伐」の中核になる事はありませんでした。
やはり前田利家の体調と寿命が日本の歴史を変えたのかも知れません。